2018年5月20日日曜日

種村季弘『不思議な石のはなし』(河出書房新社、1996年)

――ごろんところがした研磨も彫石も受けていない、不恰好な形の、どうかすると欠け目や傷だらけの石の不完全さそのものから、洗練された完全な石の一糸乱れぬ端正な純粋さにはない、汲めども尽きせぬ雑多な記憶がこんこんと湧き上がってくる。

著者の種村季弘氏は、本書を「ただの石のはなし」と一言でまとめる。

宝石や、有名人が持つ石に興味がないわけではないが、様式化されていない、系統立っていない石の「猥雑」さに「記憶の泉」を見出すのだという。

「どなたも同じような経験をされた覚えがおありではなかろうか」と種村氏は問いかけるが、どうだろうか。

種村氏がこのような理由で、ふと足を止めてしまった石の話をいくつかピックアップしよう。

■ 『北国巡杖記』

飢饉に困った村人が神に祈りをささげたところ、石のような真っ白なものが降ってきて、食べたら乳のように甘かった。これで命を長らえる人が多かった。

■ 『本草綱目』

石麪(いしそうめん)はめでたいもの。中国でも何度か石が麺になったという記録があり、さいたい飢饉のときに貧民が食べた。

■ 『日本霊異記』 下巻第三十一

美濃国の娘が処女解体して3年の後、石を2つ産んだ。1つはまだらの青色、もう1つは真っ青で、だんだん大きくなった。卜者に占ってもらったところ、これは伊奈婆大神の子であるということで、以後まつった。

■『日本霊異記』下巻第十九

肥後国の女が卵形の肉の塊を生んだ。不吉に思ってその肉を山の石の中に7日間置いておいたところ、肉の塊の中から女子が生まれた。
この女子には顎と生殖器がなかったが、7歳には法華経華厳経を暗誦し、嫁ぐことなく出家して人に敬われた。

なかなか不思議な話だが、古今東西の他の事例と兼ね合わせて、「石は食べる」「石は成長する」「石は産む」という石の類型化に持っていくには、ちょっと安直な気がして、もうすこし保留でいたい。

種村氏の指摘の中でぜひこれだけは取りあげておきたいのが、近代科学以前の人と石の関係についてである。

13世紀、博物学者のアルベルトゥス・マグヌスが著した『鉱物論』は、石を水と土の合成物と説いた。
水は透明で、土は不透明なものなので、その配合によって石の色や外見が変わると考えた。

これは科学的というよりも感性的な考え方で、まさに科学登場以前の論理である。
言い換えれば、この科学登場以前の論理に寄り添えなければ、当時の人を理解することはできないということを知る。

種村氏は言う。
「石は石、ではなくて、動物植物とじつに気まぐれにまじりあい、おたがいの間の境界をすりぬけて自在に交通しあうのである」

現在の科学的分類に囚われることで、その分類が現われる以前の「現実」が見えなくなる。
祭祀考古学でも、最近「依代」が折口信夫の分析概念であり、それに囚われることで依代とされてきた数々の事例の現実が捻じ曲げられていると指摘されることがある。

鉱物・植物・動物という括りも、科学的な事実はどうあれ、石は石、石以外は石以外という眼鏡をかけて目の前の対象を見ることで、その時点ですでに歴史研究者としては失格なのかもしれない。
当事者が、鉱物・植物・動物という括り、石と石でないものの括りをしていなかったり、自分自身と概念が違っていたら意味がないのだから。

食べ物と思っていた麺や、人間と思っていた赤ん坊ですら、石の研究として視点を向けなければいけない。そんな次元である。


先日、このようなツイートを見かけた。
何年前とは言えないが、以前の自分なら科学的ではないという考えに囚われていたかもしれないが、そもそも歴史的研究において、科学的態度はあって良いが、その事象自体が科学的かどうかを研究対象にあてることは別の話であると、今なら理解できる。

もちろん上記ツイートの説も仮定を前提とした話なので、否定または肯定という両極に偏ることも適切ではない。
そうだったかもしれないな、という気づきにとどめておくのが、今の私の気持ちである。

昔の人の気持ちをすでに理解できたかどうかなんて、おこがましい。

2018年5月16日水曜日

『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』紹介

毎日新聞の記事です。

「伊勢志摩百物語第3集が完成 皇学館大生ら作成 /三重」(毎日新聞2018年5月15日 地方版)
http://mainichi.jp/articles/20180515/ddl/k24/040/142000c

この記事の中で、第2集が「磐座の聖地めぐり」として去年発刊されていたことを知りました。

web上で閲覧できるようになっていますので、皆様にもご紹介します。

皇學館大學伊勢志摩百物語編集委員会『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』(2017年)
https://www.kogakkan-u.ac.jp/campusview/catalog/isesima100monogatari_02/#page=1
*閲覧にはAdobe Flash Playerが必要

次の13カ所が取り上げられています。
  1. 舟神龍宮の積み石 *初耳
  2. 鏡石
  3. 剣岩 *初耳
  4. つづら石 *初耳
  5. 破石 *初耳
  6. 千引石
  7. 乙女岩 *初耳
  8. 美多羅志神社のハート石 *初耳
  9. 浦神社の磐境 *初耳
  10. なで石 *初耳
  11. 清正石 *初耳
  12. 長原の浮石 *初耳
  13. 鸚鵡岩

伊勢神宮の石々や、二見の夫婦岩、相差の石神さん、天岩戸などの著名どころはありません。事例を網羅するタイプの冊子ではないということですね。

13か所中、10カ所は初めて知りました。
いつも言うことですが、地元の調査には勝てない・・・。
岩石信仰が、どれほどありふれて存在しているかということです。

ハート石は、ちょっといただけないかなあ・・・。
流行りのハート石と書いてありましたが、注釈もないので何それと思って検索したら、たしかにハート石さがしが流行っているみたいですね。



岩石信仰アプローチからでは、このトレンドが私の網にかからなかったことにショック。
己の不明を恥じるばかりです。

吉備の中山/吉備中山(岡山県岡山市)



■ 参考文献

薬師寺慎一 『「吉備の中山」と古代吉備』 吉備人出版 2001年
八木敏乗 「吉備中山」 『岡山の祭祀遺跡』(岡山文庫145) 日本文教出版 1990年


■ 吉備津彦神社境内


環状列石


備前国一宮吉備津彦神社の境内に神池があり、その中に鶴島・亀島・五色島の3つの小島が配され庭園となっている。
このうち最も東に浮かぶ五色島に環状列石と呼ばれる構造物がある。

20個の岩石が綺麗に環状に並べられている。
3つの島を配するという様式は三島式庭園と呼ばれ、平安時代まで遡りうるものといわれている。

吉備中山
環状列石

八島殿


吉備津彦神社所蔵の『古代御社図』には、徳寿寺の谷川を挟んだ対岸に文明3年(1471年)「八島殿」という建物があったことが記されている。
薬師寺慎一氏の『「吉備の中山」と古代吉備』(2001年)によると、『備前州一宮密記』という文献に八島殿には神座と呼ばれる石があり、吉備津彦神社へお供えをする場合はまずこの石に供え物を置いて、霊烏がついばんでから吉備津彦神社に供えないといけなかったという。
薬師寺氏の調査により、八島殿があったとされる場所に長さ約3m、巾約1m、高さ約1mの安山岩が存在しており、これが八島殿の神座だったのではないかと推測されている。

忠魂碑台石


境内南に忠魂碑があるが、その台石はかつて背後の一段高い場所から移設してきたものだという。
先出の薬師寺氏によると、そこは『古代御社図』に描かれたかつての本殿の位置であることから、この台石は古代のイワクラだったと述べている。
根拠は、古代の社殿はイワクラの近くに作られることが多かったからというやや漠然としたもののため、参考として記しておくにとどめたい。


■ 吉備津神社境内

矢置岩/矢置石/箭置石


備中国一宮である吉備津神社の北参道口にある。
矢置岩・矢置石・箭置石と表記することもある。

温羅(うら)と呼ばれる鬼を討伐するために大和から派遣されてきた大吉備津彦命が、この岩の上に矢を置いて弓を引き温羅を退治したと伝わる。

ならびに、矢置岩は「箭祭(やまつり)」という神事にも登場する。
箭祭の祭祀順序は以下の通り。

・前日に祭場の掃除をしておく。
・2本の矢を箭置石の上に置く。
・神主がその矢を持って本殿に参る。
・本殿の東北隅にある艮御崎神社に矢を供え祝詞を上げる。
・再び矢を持って本殿に参る。
・桜箭神社に行き、穴を掘ってその中に矢を埋納する。

奉献物である矢を最初に置く供物台石として機能している。

吉備中山
矢置岩

矢納宮石


江戸時代に描かれたとされる境内絵図で、矢置岩の背後の山腹に「矢納宮石」と記され、2個の石が描画されている。
薬師寺氏によれば、これは桜谷神社・桜箭神社といわれる社と同じものを指すという。

桜箭神社は前述の通り、箭祭において奉献物である矢を最終的に埋納した場所であり、矢納宮石も矢置岩と同じく箭祭に用いられた岩石祭祀事例の可能性がある。
ただ、神事の中では「穴を掘って矢を納める」という記述しかなく、矢納宮石がどのように機能していたのかは不明である。

岩山宮


中山主命・建日方別命の二柱を祭神とする境内摂社。長い石段の上、山腹と言って良い場所に鎮座する。
社名が指すように、岩を神体とする神社という。社殿の中に岩がまつられているらしいが、外から岩の様子を確認することはできない。

吉備中山
岩山宮

金比羅の露岩


江戸時代の境内絵図で、山腹に「金比羅」という字と共に祠の絵があり、さらに祠の背後を屏風のごとく覆う岩が描かれている。

金比羅の祠は現存しておらず、他の場所に合祀もされておらず完全に信仰が途絶えた様子だ。
薬師寺氏の調査の結果、絵図の示す山腹の辺りには大きな露岩があり、その前面に二段積みの石垣と平坦地が確認されている。

薬師寺氏がある古老に聞き取った所によると「金比羅さまは吉備津宮の元宮と聞いています」という。

■ 吉備の中山 山中


穴観音


大吉備津彦命墓として宮内庁管理されている、山中の中山茶臼山古墳(前方後円墳)。
この後円部東に5体ほどの岩石が群集しており、岩石の表面を窪ませて仏を彫刻していることから穴観音の名称がある。

主石の左側面の穴に耳を当てると観音様の声が聞こえるという。

一宮地域活性化推進委員会の現地解説板および薬師寺氏によると、これらの岩石群は中山茶臼山古墳築造以前からこの場所にあり、石仏以前のイワクラだったと推測されている。

しかし、前方後円墳の築造には大がかりな墳形整備が必要であり、中山茶臼山古墳測量図の等高線の流れから見ても、穴観音の岩石群の辺りは原地形を保っていない。
岩石自体も地中に根ざす岩盤ではなく、地表に置かれた岩塊ということから、古墳築造後の所産の可能性もある。

吉備中山
穴観音。背後のマウンドは中山茶臼山古墳の後円部。

鏡岩


山頂からやや西に下った山頂直下と言える立地に、身長を越えるレベルの巨岩が複数林立している一帯がある。
その内の1体を鏡岩と呼び、斜面下側の岩肌は縦にスパッと割れたかのように平らであり、楕円形の鏡の形状を見せる。
ただ表面には石のしわが大量に走っており、鏡のような光沢面はない。

吉備の中山のイワクラを渉猟している薬師寺氏の『「吉備の中山」と古代吉備』(2001年)に未登場であることから、近年の命名の可能性もある。

吉備中山
鏡岩

八畳岩/奥宮磐座


標高162mピークのほぼ山頂に立地。奥宮磐座と総称される大小の露岩の群れが広がっており、その中でひときわ大きいものを八畳岩と呼ぶ。

特筆すべきは、この八畳岩の斜面下側の根元から土師器片が採集されていること。岩の根元には岩陰状の窪みもある。
ただ、土師器の製作年代については言及されていない。

吉備中山
八畳岩

環状石籬


環状石籬(かんじょうせきり)という用語は、今で言う環状列石=ストーンサークルと同義であり、かつて鳥居龍蔵博士が巨石文化関係の研究をしていた時に盛んに用いられていた。
前述の奥宮磐座と類似した大小の露岩の散在具合であり、自然の露岩群と思われる。意図的に環状に岩石を並べたという根拠はない。薬師寺氏の著書にも未登場。

吉備中山
環状石籬

お休み岩


人が休むのか神が休むのか、沿革不明。薬師寺氏著書未登場。

吉備中山
お休み岩

元宮磐座


標高175mピーク(龍王山)の山頂直下に位置。
斜面下から上までの高さ3mを測り、元宮磐座という名前からも、ただ事ではない重要性を感じるが、薬師寺氏の著書にはすぐ近くの経塚や八大龍王の記述はあるのにここは未登場。

薬師寺氏の調査と兼ね合わせて考えると、近年名付けられた「イワクラ」と、古来からまつられてきた「磐座」がない交ぜになっている印象を受ける。
「近年名付けられたイワクラ」も、名付けた側からすれば太古の磐座の掘り起こし・再発見という意味合いかもしれないし、現在は祭祀されている岩石だということは間違いない(毎年、5月の第2日曜に備前吉備津彦神社の主催で「磐座祭り」が執り行われておりその巡拝コースに入っている)。いずれにしても岩石祭祀の実例ではある。

だが、歴史資料として取り扱うなら、新古の区別は必要な作業である。
この種の歴史学的研究にはまだ出会っていない。

吉備中山

吉備中山
元宮磐座

経塚


山頂に立地。経筒を地中に埋納した後、地表を小ぶりの石礫で覆った後、中心に若干大きめの石礫を寄せ固めている。内部から出土した銅製経筒は鎌倉時代製作と推定されている。
すぐ北に隣接して八大龍王の石祠がまつられている。石祠は天明の大飢饉で象徴的な天明年間(1781~1789年)の寄進である。

吉備中山
経塚

盗人岩/天柱岩


山腹の急斜面上に屹立する立岩。
岩の上部に「天柱」という文字が刻まれており、このことから天柱岩の名前がある。
この文字は、山麓に本部を持つ宗教法人福田海が刻んだもので、文字が刻まれる前は盗人岩と呼んでいたらしい。ならば岩の本来の名称は盗人岩として記録すべきだろう。
盗人岩という名には何らかの説話が隠されているはずだが不詳である。
岩の根元からは鎌倉時代と推定される土師器片が採集されているという。

吉備中山
盗人岩

夫婦岩


元宮磐座からお休み岩へ至る山道の途中に、「夫婦岩」への標識と分岐がある。
吉備の中山の東側斜面を谷間沿いに下っていく道になっており、分岐から10~15分ほど歩くと「夫婦岩遺跡」と書かれた標識と共に2体の巨岩が出現する。

なぜここだけ「遺跡」の表示になっているのは謎。何か遺物が見つかったのだろうか。その意味なら八畳岩や盗人岩にも「遺跡」と銘打って良いはずだが、基準は不明瞭である。

写真左側の立岩手前は崩落したのか赤土むき出しの窪みが開けており、近年補強したのか、数段のテラスに形成した石垣が築かれている。
2体とも立岩状であり、どちらが男でどちらが女かはわからない。薬師寺著書には未登場。

吉備中山
夫婦岩

不動岩


前述の福田海の敷地内にまつられている自然の巨岩。
福田海は明治時代に結成された新宗教ですが、福田海ができる前ここは有木神社という神社があり、背後の峰を有木山と呼んでいた。

有木神社は明治時代に備中吉備津彦神社に合祀され、現在は跡地に小祠が残るのみだが、薬師寺氏によれば、有木神社は平安時代に都人の間で屏風絵の舞台や和歌の題材として用いられるような著名な場所だったと指摘されている。
不動岩も自然岩である以上、有木神社が盛行していた時期、あるいは神社祭祀以前から、吉備の中山の山麓祭祀の一端を担っていた可能性がある。

内宮石


『梁塵秘抄』(平安末期)に吉備津の「内の宮」と記される。
江戸時代の吉備津神社境内絵図には11個の石が環状に描画されており、傍らに「内宮石」と記されている。

この内宮は、明治時代に吉備津神社境内摂社の本宮に合祀されたため、旧社地は人跡が絶えている。
1989年に薬師寺氏ほか数名が踏査したところ、旧社地であることを示す石碑や石段跡が見つかった。11個の内宮石は完存していないようで、その名残と思われる一部の岩石を発見するにとどまった。

平安末期の「内の宮」が江戸時代絵図の内宮石と同じものを指すかには若干の検討の余地もあるが、吉備の中山に散見される「環状列石」という祭祀形態が、戦前戦後の巨石文化研究の安易な影響によるものではなく、少なくとも江戸時代から実在したことは特筆していい。

影向石


吉備の中山の西麓にかつて新宮と呼ばれる社があり、明治時代に内宮と共に本宮に合祀された。
旧社地には「影向石」と刻字のある石碑が立てられ、以前そこが神のいた場所だったことを今に伝えている。
石碑としての岩石祭祀事例である。

「S山」山頂遺跡


「S山」とは薬師寺氏命名による仮称で、内宮石のほぼ真南に位置する峰に名前がないため、吉備の中山の南(=South)の峰という意味で付けられた。
ここには「イワクラ」と思しき岩石があったというが、鉄塔が建設された時に破壊され、その際に弥生時代の分銅形土製品・石剣・弥生土器片などが見つかったらしい。
どのような調査報告に基づくものなのかは薬師寺氏の著書に書かれていないので不明。

2018年5月4日金曜日

白山とダンノダイラ~三輪山の奥~(奈良県桜井市)



奈良県桜井市辻728番地に、眞言律宗 巻向山 奥不動寺という寺がある。

奥不動寺

ここは、大神神社の神体山で著名な三輪山(標高467m)と巻向山(標高567m)の間に位置する。
三輪山の知名度に反して、この三輪山の奥にある奥不動寺の一帯が取り上げられる機会は少ない。
本項では、白山とダンノダイラの2ヶ所の奥三輪を紹介する。

■ 白山


奥不動寺から北に山道があり、急登を3分で景色が一変する。

白山

白山

白山

白山

この岩山を白山(標高486m)と呼ぶ。

周囲が緑に囲まれた中で、ここだけが一面真っ白の岩峰と化している。
表土が流出して、地中の岩盤が一面に露出したものと思われる。
歩いているだけでも岩盤はボロボロ剥離する地形だが、なぜここだけこのようなことになってしまったのか。

その位置的な近さから、奥不動寺の霊場としてうってつけだが、奥不動寺によって特に行場や信仰の場を示すものはない。

白山
上写真の奥方に(直接は見えないが)三輪山が位置する。

昔もこのような岩山だったと仮定して、三輪山をまつっていた人々がこの白山を知っていたら、三輪山最奥部の聖域として神聖視されていたのではないかというインパクトがある。
むしろ、奥津磐座を知るはずの三輪山の祭祀主体が、少し歩けばたどりつくこの圧倒的聖域を知らないということがありうるのだろうか。

まったく古代史に登場しない場所である。

白山

白山

桜井市文化財協会の中村利光氏の「ちょっと寄り道第5回 山頂が一面蒼白の白山」「桜井市立埋蔵文化財センター」内)によれば、白山には天狗岩という立岩があると記している。


ダンノダイラ


奥不動寺の東方約500m地点に広がる緩やかな山腹一帯をダンノダイラといい、その東端に「磐座」としてまつられた露岩がある。
ここは桜井市の出雲地区に属する。




ダンノダイラについては、現地に「野見宿禰顕彰会」という団体が作った懇切丁寧な解説板があり、奥不動寺からも案内標識が充実している。
以下はこの現地解説板に基づいて紹介をする。

嘉永年間(1848~1854年)に作成されたという「和州式上郡出雲村古地図」によると、巻向山の中腹にダンノダイラという地名があり、ここは明治時代の初め頃まで人々が住み、その宅地や田の跡が残っているという。
ダンノダイラ上方には湧水沼があり、そこから流れた小川と思しき流水路跡がダンノダイラに現存していることから、確かに人がかつて住んでいたのだろう。
信憑性は定かではないが、小川跡からは6~12世紀の土器片も採集されたという情報もある。

ダンノダイラ
ダンノダイラに残る小川跡

ダンノダイラの南麓には出雲村(桜井市出雲地区)がある。
明治の初め頃までは、年に一度出雲村の人々がダンノダイラへ登り飲み食いや相撲をして遊ぶという風習があったと、1964年に村の年配の方の証言があったことが記録されている。
出雲村の十二柱神社にはかつて社殿がなく、ダンノダイラにある「磐座」を拝む場だったという。

このようにダンノダイラは麓の出雲村と関係が深いとされる場所で、中にはここが古代の出雲ムラで、日本神話の出雲国神話や『日本書紀』の野見宿禰伝説の舞台となったという仮説もあるが、そこまで話が進むとやや批判的に見なければいけない。

ダンノダイラの「磐座」は、急傾斜面の山肌に露出する岩崖である。
岩崖の上にある2~3体の岩にも供献皿や注連縄が残され、まとめて神聖視されている。

ダンノダイラ

ダンノダイラ

ダンノダイラの中央やや西寄りに、「天壇」と名付けられた場所がある。
マウンド(といってもかなり緩やかで自然地形の延長線上)の頂部に集石が残る。

天壇とは、中国の天子が冬至の日に天帝をまつるために設けた祭壇のことで、その日本式天壇に該当すると皇學館大學の村野豪先生が述べたという解説が現地に立てられている。
前提条件がいろいろとわからないので素直に納得はできないが、集石があるのは確かである。

ダンノダイラ
「天壇」

ダンノダイラも郷土研究が入り混じりミステリアスな現状となっているが、個人的にはその郷土史家にさえ何も語られない白山に、より関心を惹かれる。

2018年5月3日木曜日

足立巻一『石の星座』(編集工房ノア、1983年)

――石はどうやら形態・規模はちがっていても、原初的なものをわたしたちに伝えるらしい。

詩人は、石を原初的なもののイメージとして取り上げることがある。

これはガストン・バシュラールの一連の著作にも取り上げられているとおりであり、このブログでも何度か紹介してきた。
ガストン・バシュラール「岩石」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その1 

ここでいう「原初」とは、地球創成期への興味関心を表すといわれている。

足立巻一氏は、詩人の草野心平氏が「地球創成期への郷愁」とたとえたのに対して、やや異なる気持ちを抱いたらしい。
いわく、地球への郷愁というよりも人間の原初の心に惹かれる、らしい。
しかも、人間の原初の生活に「悲哀」「哀感」が見えるらしい。

――わたしは墓に、霊魂が眠っているとは信じない。しかし、墓にはその人の全体験が凝縮している

墓石に霊魂は宿らないが、人の生涯を象徴するものが石の造形だと足立氏は考える。
人が祖霊になるのならば、神の生涯を象徴するのも石だろうか。
古墳祭祀も、墳丘が被葬者の権力を象徴していることは考古学者が指摘する通りだ。
それは、横穴式石室の規格にすら表れている。
ひいては、神の墓が石である事例も各地で見られる現象である。
ただし、石の造形がどこまで生涯を語りきれるかはわからない。

――磐座とは、物を言う岩や木が沈黙し、朝の太陽を受け、存在そのものが生命の輝きであり美である世界であらねばならない。

これは解釈が難しい一文である。
足立氏はまた『祝詞』の一節「語問ひし磐根樹立」を引き、岩や木がものをいうということを「幻想」と評する。

神が磐座に降臨する時、岩も木もものをいうのをやめ、ぴたりと鎮まるという。
この時の磐座は、単なる施設ではなく、ひとつの意思をもった生き物としてみなされている。
もっと言えば、あらゆる石が生き物としてあるのが足立氏の世界観である。

目に見えないものである神を、目に見える石に降ろすという論理のために必要な理解のしかたとして、私は受け止めている。
ただ、あらゆる石が生き物であるなら、祭祀の石が特別視されるのはなぜか。
石にも区別があり、峻別されている現実がある。

――磐境の解釈には諸説がある。磐座と同じものだとする説、磐座は岩石の御座をいい、磐境はその区域を広くいうとする説、あるいは磐座を自然の神座とし、磐境を人工のそれとする説などである。わたしは自然と人工という第三説を採りたい。

私は大場磐雄博士以来の第二説を肯定する立場だが、足立氏は磐座を自然の岩、磐境を人工の岩による祭場とみなす。

これについては、人工の磐座の例が多く見られることをもってじゅうぶんな反証となると思われるが、磐境は区域を区画することから人工物となることは自明とも言える。
ただし、自然の岩塊を結界石とみなす例も管見では把握しており、洞穴も自然の結界をなしていることから、聖域を区画するものは自然物でも成り立つことは疑いない。
それを磐境という言葉で一括するか、岩屋や結界などと別の概念で把握するかの違いといったところだろう。

私は磐境という言葉で一括することはしないが、機能的には同じ概念を、地域と時間が変われば言葉が変わるとみなすものである。

――「石だけならホンモノの龍安寺にも負けへん。庭師は川の石のほうがうんと安上がりやいいよったが、川石は卑しうてアカン」

上は、龍安寺の石庭をうんと小型にした庭を自宅につくった足立氏の友人の言とのこと。
足立氏は「この頓狂な男が川石を軽蔑し、生駒石を絶賛する口調がおかしかった」と評す。
川石はまさに悲哀の存在である。

庭師や石工、愛石家たちが「味がある」と品評するポイントや、名石として指定する基準はある程度定まっているように思えるが、内心穏やかな気持ちにはならない。

――「あの石のことは言うてはならんことになっておる。この村では・・・・・・な」

それは、奈良県の生駒谷・大門の集落にある大福寺の下にあった棚田の中の3つの石のことである。

村人は三体石と呼び、かつては毎朝手を合わせていた信仰の対象だったが、その下で石材業者が名石・生駒石を採掘していたところ、三体石のうちの一体が転落し、今の場所に転がりこんだのだと語りつがれている。
この「事件」があって以降、三体石は「村の禁忌」となって、いわゆる「お言わず様」と化した。

足立氏は初めてこの石を見た時の衝撃を次のとおり記している。

――その石を見かけた途端、立ちすくむような気分になった。(略)千枚田のような田のなかに坐っており、まことに異様であった。(略)自然石とは思えないほどの球体である。雨露にさらされて黒ずみながら、きのう天から落下したばかりのような恰好でどっしりと田に坐りこみ、重量感と威厳と、大らかなユーモアを示しており、まったくおかしい石であった。

巨石信仰に対する、一つの具体的な回答かもしれない。
足立氏は7年後にもこの石を見るために再訪している。

本書にはその石の写真も掲載されているが、写真からでも惹きつける存在感を感じる。
実見してみたいという気持ちにさせられた。

この石の下には「地蔵さん」という石があり、そちらは梵字や名が刻まれ、菜の花がいっぱい供えられていた。石仏の雑誌にも取り上げられており、詳細な解説もあるようだ。

――だが、わたしの好きな、そのまるく大きい石については触れられていない。石仏でないので当然ではあるが――。

足立氏の悲哀は、単なる判官贔屓と片付けられない哀感だろう。
足立氏はこの感情を、あとがきで「石が好きになったのは老いぼれたしるし」ではなく、「石に寄せるわたしの雑歌」とまとめている。

足立氏は詩や歌を、目に見えないものを目に見えるようにしたもので、祈りと同質のものと154ページで示している。
ひとりの岩石信仰の当事者の物語として読むことができる本である。

2018年5月2日水曜日

福良八幡宮/福良八幡神社(兵庫県南あわじ市)



兵庫県南あわじ市福良に鎮座する、福良地区の産土神。

福良八幡宮

境内に「陰陽石」がある。

福良八幡宮

「往昔福良の浦人 鳴門の海より陰陽石を求め ここ八幡鎮守の聖地にまつる 郷人すべて日夕これを礼拝祈願すればその霊験あらたかなるべし」(現地看板より)

海中より出た石を祭祀の石とする文化は、千葉県印西市の世直し石尊、岐阜県各務原市の御井神社神璽、京都市北区松ヶ崎町の岩上神社などに類例がある。

福良八幡宮

陰陽石に隣接して「跨石(またげいし)」もある。
京都市右京区の梅宮大社にも「またげ石」があり、そちらは石をまたぐと子を授かるという霊験をもつことから、当地の跨石も共通した信仰形態と推測される。

福良八幡宮

上写真の樹木後ろ、社殿玉垣の角に見える岩塊は、地元の方いわく経塚とのこと。

福良八幡宮

女神輿を保管する倉庫前にあるこの石も経塚とのこと。

神職さんは不在だったが、この地元の方は福良八幡宮について詳しい方で、神社のあれこれをうかがうことができた。
上写真の経塚後ろには女神輿が2基収納されているが、神輿の御神体は海中からとれた丸石だったと教えていただいた。
石は布にくるまれ、石そのものを見ることはできなかったらしい。
また、この2つの石は個人所蔵であり、ある時期からその石を宅内から持ち出すことは許されなくなったそうである。

神社や神輿の御神体がこのような石であったという話は時折見聞きする。
これらの石を岩石信仰に含めると事例数は膨大に膨れ上がると予想されるが、名もなき石であること、ご神体の特性上秘匿されることから、記録としてたどるのは至難の業だと思われる。
しかし、誰も調査していない(=歴史の消失につながる)一大テーマではないか?

福良八幡宮

福良八幡宮に隣り合う住吉神社では、鳥居横に岩盤が露出している。
隣家の方が大切にお手入れされているという。

2018年4月26日木曜日

諏訪七石(長野県諏訪市・茅野市)

諏訪七石について

1238年(嘉禎4年)『諏訪上社物忌令之事』に、七つの石の存在が記述されている。
これを諏訪七石という。
  1. 硯石
  2. 沓石
  3. 蛙石(甲石)
  4. 小袋石
  5. 亀石
  6. 兒玉石
  7. 御座石

今は廃絶している諏訪大社の神事の1つに、湛神事と呼ばれるものがある。
3月の大御立座神事の時、神使が「湛(たたえ)」と呼ばれる場所を巡り、そこで神降ろしを行う。その時、鉾の先端に鉄鐸を取り付けてそれを鳴らすことで、祭祀を行う。そして11月の御立座神事の時、その「湛」で降ろした神を再び送り上げるという。

この「湛」は、木であったり石であったりが選ばれていたらしいが、その石が諏訪七石だったといわれる。信憑性については不確かな部分もあるが、もしそうだとするならば、これら七石は神を迎え、そして送るという磐座の機能を果たしていた場所だと解釈することができる。
現在はいずれの石でもそのような祭祀儀礼は行なわれていないので、今は磐座跡・元磐座というのが正しい表現だろう。

硯石 -諏訪七石その1-

諏訪大社上社本宮の境内にある。しかし、石の近くまで行くことはできず、四脚門(四足門)と呼ばれる場所から遥拝する。



諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

神社が掲げる説明板によれば、石の上面は窪んでおり、ここに溜まる水は枯れることがないという。
同じ説明板に、鎌倉時代の神楽歌において「 明神は 石の御座所に おりたまふ おりたまふ みすふきあげの 風のすすみに」と読まれている歌があるが、ここに登場する石が硯石に当てられている。

一方、硯石はもともと現在地とは違う場所にあったという説がある。
また、江戸時代の文献や絵図に硯石の存在が抜け落ちていることが度々あり、神楽歌に登場するような「石の御座所」だったかどうかも検討の余地がある(八ヶ岳原人氏「『硯石』諏訪大社本宮の磐座《諏訪七石》」)。

このような移動説のほか、元来は別の岩石を硯石と呼んだ可能性もある。

上社本宮には神体山として神聖視されている守屋山(標高:西峰=1650m、東峰=1631m)があるが、現在の上社本宮拝殿の拝み方向は、山の方を向いていない。「神居」と書かれた禁足の森の方角に向かっている。

山を神体とする神社の多くは、社殿の背後に山を持ってきて拝み方向が「社殿→神体山」と重なることが多い。
一方、四脚門から硯石を拝むと、その延長線上には神体山が当たる。このことから、当初の祭祀方向は「四脚門-硯石-神体山」ラインであり、それがある頃から「拝殿-神居」ラインに変わったのだと考えられている。
拝殿の裏、神居の中にはかつて「お鉄塔」と呼ばれる仏塔があり、これは弘法大師が建てたものという伝えがあった。おそらく、神仏習合の時代にこの「お鉄塔」を拝む向きに拝殿を設けたのだと推測される。
社域と山の境にあるという点では、硯石は磐座としての立地にはふさわしい。

なお、守屋山の東峰上には守屋神社奥宮が鎮座し、その周辺には露岩が点在している。


沓石 -諏訪七石その2-

上社本宮境内、「一の御柱」の後ろにある。

諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

「沓石」には「お沓石」「御沓石」という表記もある。
石垣と半分同化しているような現状だが、諏訪明神の沓(くつ)の跡が残る石、または諏訪明神の神馬の足跡が残る石などと伝えられている。

沓石の背後には「天の逆鉾」とよばれる鉾が突き立っている。
江戸時代に国学者が突き立てたもので、刻字もあるとのこと。
この鉾の上面めがけて小石を投げて一度で乗せることができれば大吉、願い事がかなうといわれている。


蛙石(甲石) -諏訪七石その3-

『諏訪上社物忌令之事』には「甲石」という名前で登場する。

蛙石については1つに特定されておらず、候補には諸説ある。

(1)上社本宮拝殿の奥、「神居」の中にあるといわれる大石
(2)上社本宮境内の「蓮池」の中
(3)諏訪市湖南大熊に存在する「蛙石」

(1)については禁足地で内部を見られないため、そんな大石が存在するのか自体が詳細不明。

(2)の蓮池は、池の数ヶ所に石が何個か顔を出しているが、この内のどれか、ようとしてしれない。

諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

それとも、池の底に沈んでいるのだろうか。
(池は浅いので底が見えるが、それらしき石はなし)。現存しないという可能性もある。

(3)の蛙石は現存特定可能。上社本宮から歩いて行ける距離。



諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

諏訪の高島城を築く際、どこかから持ってきたのがこの石という。


小袋石 -諏訪七石その4-

「おふくろいし」と読む。諏訪七石のうち最も大きな石になる。
上社本宮と上社前宮の間にある道から、山の方へ歩いていくとたどりつく。



諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

太古、小袋石の辺りまで諏訪湖の水位は高かったと言い伝えられ、この石で舟をつないでいたということから「舟つなぎ石」の別称も持つ。
七石の中で最も巨大という外見的要素にくわえ、石をつたって小さい沢があり、まつられる要素のいくつかをそろえている。

小袋石の直下には石祠が散在し、その中でも最も大きな祠を磯並社という。


亀石 -諏訪七石その5-


元来、どこにあった場所かわからないが、現在は高島城内にある。



諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

茅野市の安国寺・大河原・西茅野あたりを流れる宮川の辺りに千野川明神がまつられていたといい、そこに亀石も元々あったとのこと。
それがある時洪水で流され、そのあと高島城の庭に置かれていたのが、明治の廃藩置県に伴って一般人に売却されたという流浪の石である。

長らくその存在を目にすることはできなかったが、2007年、所有者の厚意により再び高島城に移され、現在はその姿を高島城で見ることができる。
水をかけると亀が生きているようになり願いがかなうという尾ひれまでつく。

元来千野川明神にまつられていたという亀石と同一個体かどうかは不明だが、とりあえず諏訪七石の亀石と呼ばれるものの唯一の候補となっている。

兒玉石 -諏訪七石その6-


諏訪市湯の脇に鎮座する兒玉石神社に比定されている。付近は道が狭く急斜面。一歩道を間違うと車の方向転換も難なので注意。



境内には5個の巨石が転がっており、これが諏訪七石の兒玉石に相当するものと考えられている。

諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

5個の巨石の内、社殿の手前にある2個の巨石をまとめて「いぼ石」と呼び、特に神聖視されている。
神が諏訪湖から引き上げてここに置いた石といわれており、石のくぼみにある水は乾くことがなく、この水をいぼに付けたら必ず治癒するといいつたえられている。探訪時は水が溜まっていなかった。


御座石 -諏訪七石その7-


候補は2ヶ所ある。

(1)上社境内
(2)茅野市本町に鎮座の御座石神社境内

(1)の上社境内は『諏訪上社物忌令之事』で示されている場所だが、現在特定ができず、どれのことなのかさっぱりという状況だ。

他の多くの史料では、諏訪七石の御座石を(2)の御座石神社に当てている。



境内には3個の石がある。
1つ目は、神社入口脇にある御履石と呼ばれる石。
祭神の高志沼河姫命がここで靴を履き替えた石という。

諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

2つ目は、社殿手前にある石。
この石に名称は付いていないようだが、高志沼河姫命がこの石に腰掛け休んだといわれ、また、命が乗っていた鹿の足跡が残るともいう。確かに、石の表面には足跡らしき窪みが見られる。

諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

4月27日のどぶろく祭りの時には、この石に幣帛が捧げられる。
神への捧げものである幣帛があるということは、祭祀時にこの石に神が顕現しているという構図になります。単なる神跡にとどまらず、現在も磐座要素が見られる。

3つ目は、社殿横にある穂掛石。
この石は元々はこの近くの字・吉田という場所の田んぼ内にあったといい、穂を掛けていたとことからこの名があるという。

諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

さて、諏訪七石の御座石とは言えど、境内にあるこの3つの石の内、どれを指すことになるのだろうか。
3つ目の穂掛石は吉田から移設したものなので除くとして、1つ目か2つ目か。それとも、現存しないのか。

私見では、1つ目は御履石という名前が付いている点、2つ目は名前が付いていない石である点、2つ目の石は神が腰掛け休んでいるという点などから綜合して、2つ目の石が御座石にふさわしいのではないかと感じた。

ちなみに、穂掛石は「矢ヶ崎村七石」の1つだそうで、他にもたくさん名の付いた石がある。「七石」で括る文化の根強さを今に伝えている。


上社前宮の岩石祭祀事例


七石と呼ばれるもの以外にも、諏訪大社にはいわれのある岩石がある。上社前宮で知った4つの事例を紹介したい。



(1)神の足跡石


諏訪大社上社前宮の玄関口、国道152号線沿いに「みそぎ池」があり、そのほとりに溝上社の祠がまつられている。
現地看板によると、池の西方に「神の足跡石」があったと記載がある。

諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

八ヶ岳原人氏の「神の足跡石《諏訪大社上社散歩道》」のページによると、「神の足跡石」を想起させる、岩石表面に足跡状の窪みが残る岩石が紹介されている。

諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

確証はないものの、池の西方にあり、本ページでも件の岩石である可能性を指摘しておくため記録しておきたい。

(2)弓立石


矢立石ともいう。
大祝(おおはふり)の居館の庭にあった石だというが、それ以上の詳細は定かでない。

諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

(3)大石さま


諏訪大社上社前宮に掲げられた周辺地図(安国寺区史友会の作成)に記載がある。
大石さまに隣接して石碑が1体立てられているが、刻字が判然としない。名称からしてまつられていた岩石であることは想像できる。

諏訪神社周辺の岩石祭祀事例

(4)要石


かつて鶏冠社にあったといわれる岩石。
諏訪神社神官職の長である大祝が即位する時に、大祝がこの要石の上に立ったという祭儀上重要な石。大祝の代替わりの時、要石の上に簾を敷いて新しい大祝が座すと、神が憑依して神人となったという。人に神を降ろす磐座の一種である。
「諏訪大社/上社参詣記」によれば、即位式の際には、祭りで使用する道具を置くカナツボ石という石もあったという。
しかし、要石は明治初期に何者かに盗まれ、今は存していない。カナツボ石は不明。

参考文献


上社本宮社務所・下社秋宮社務所『諏訪大社』(由緒書)

八ヶ岳原人「『硯石』諏訪大社本宮の磐座《諏訪七石》」「神の足跡石《諏訪大社上社散歩道》」・(「from 八ヶ岳原人」内)

「石の文化史_展示解説3」「諏訪市博物館webpage」内)

「諏訪大社/上社参詣記」「戸原のトップページ」内)

2018年4月22日日曜日

「あなどれない30分修行 磐船神社の岩窟めぐり」記事コメント補足~磐船神社(大阪府交野市)から考える「ご神体」信仰~


大阪府交野市私市


先日、朝日新聞の記事「あなどれない30分修行 磐船神社の岩窟めぐり」(朝日新聞4月18日付夕刊関西版)に、私のコメントが掲載されました。
 「まだまだ勝手に関西遺産」というシリーズで、楽しく読める記事になっています。

web上にも記事本文と動画が掲載されていますが、有料会員記事なので冒頭だけ。
https://www.asahi.com/articles/ASL4F44S2L4FPTFC007.html

ライトな内容と思いきや、磐船神社の岩窟めぐりが公開された時期やきっかけについても記述があり、ためになります。

私は有識者としてのコメントを求められましたが、識者のくせして岩窟めぐりをしていないことを告白。良いオチがつきました。

ここから下は、新聞でコメントしていない部分を書きます。

磐船神社は、物部氏の祖神とされる饒速日尊がこの地に降り立ったとき、乗っていた「天の磐船」をご神体とする場所です。
船が石化したのか、もともと石の船だったのかはさておき、私が磐船神社に思うのは、なぜ神そのものではない船が、ご神体にランクアップしたのかということ。

本来の発想としては、神と船は同一視されないはずなのに、現状では神と船が同一視されているわけです。
他にも同様の磐船・岩船・石船信仰はあるため、典型的な例としてここのギャップに目を向けています。

これについては、アプローチしだいでいろいろな考え方ができると思います。

私が一つ思うのは、「ご神体」という名前が持つイメージが、時代や人によってばらつきがあるのではないかということです。

「ご神体=神の肉体」と定義してしまうと、ややおかしなことになる事例です。
霊と肉が分離しているという立場に立ったとしても、船に直接神の例が宿るという構図ではなく、船の中に神の肉体があり、そこに霊は宿るというのが、人格神としての構図だからです。
もちろん、人格神という観念から離れれば、船そのものが神の肉体とみなすこともできるでしょうが、饒速日尊の位置付けから考えて、本事例は人格神の色が濃い。

そこで、「体」 の意味をいわゆる「肉体」という意味に限定せず、「体(たい/てい)」の意味合いでとらえ直してみましょう。

体(たい)
「そのものとしてのかたち。すがた。」「物事の本質をなすもの」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/132352/meaning/m0u/

体(てい)
「外から見た物事のありさま。ようす。」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/149009/meaning/m0u/

上記2つは辞典的定義から引用しましたが、神の場合で言えば、目に見えない神の形や姿をどうにかして外から見えるようにしたものが、「ご神体」とまとめられるのではないでしょうか。
神を象徴するものであれば、それが本来の神そのものでなくても、神格をすべて表現するものでなくても、神の一つの神性を表現していれば、それは神を象徴することになりうるのです。
なぜなら、神は目に見えないから。
そもそもの出発点が無理難題から始まっているのです。
だから、神を見たくて、神に会いたくて、という人の願望が表出して、このような磐船信仰や、姿石、ご神体の概念を形作ったのだろうと想像しています。

姿石は性神に代表されるように、形が神に似ているパターンが多いですが、磐船の場合は、神の事跡のよすがを表す象徴としてあるパターンに属します。
最近、祭祀考古学ではやりの「御形」も、岩石の形が必ずしも視覚的に神格を想起させなくても神の象徴となっていると思います。

磐船神社
磐船神社の社殿裏に存在する「天の磐船」

磐船神社
磐船の下は、河川に折り重なる岩群

磐船神社
私はなかなか縁に恵まれず、2回訪れて2回とも増水で岩窟めぐりできず。
死亡事故がかつて起こって以来、一人での入窟もできなくなり、さらに難易度は上がりました。

磐船神社
境内には神仏習合の歴史も多く見つけることができます。

磐船神社

磐船神社
なぜあそこに仏を彫ったのかと、心理的な違和感を持ちませんか?