2017年3月22日水曜日

金丸八幡神社の列石(徳島県三好郡東みよし町)


徳島県三好郡東みよし町中庄1187

参考文献    


三加茂町文化財保護委員会(編) 1984 『三加茂町の文化財』 三加茂町教育委員会

田中合 1990 「阿波上郡在方文書集」『風蘭』13号 三加茂町歴史民俗資料館

山梨賢一・薬師寺真・木村和子・村瀬紀子・渡辺威弘(編) 1993 『日本ミステリー・ゾーン・ガイド<愛蔵版>』 学習研究社

三加茂町民話伝説収集委員会(編)・下川清(監) 1986 『手書き 三加茂百話』

三加茂町歴史民俗資料館 展示各資料

概要

正式には八幡神社だが、全国の同名神社と区別するため、金丸八幡神社・中庄八幡神社・三加茂八幡神社などの通称がある。

神社の境内を、387本もの石の列が取り囲んでいる特異な神社として有名である。磐境・皇護石・建石など色々な呼び方が通っているが、本項では列石と表記する。

使われているのは、この地域で取れる緑泥片岩という緑色を帯びた岩石である。
板状に割れる摂理を利用して、そのまま石を板のように立てて境内に並べている。

大きいものは、地表面から高さ1.5m以上、幅1.2m以上、厚さ30cm以上に及ぶものもあり、平均でもおよそ高さ1m前後の板石が多い。。
現在でこそ387本だが、往時はもっと多くの板石が社域を巡っていた可能性がある。

金丸八幡神社の列石
2003年撮影。2016年に隣接するトイレの工事があった時に、列石の一部が破壊されたという話を聞いた。文化財に登録されているというのに・・・。

金丸八幡神社の列石
2003年当時

金丸八幡神社の列石
2003年当時

猪群山(大分県豊後高田市)



概要


大分県豊後高田市(旧真玉町)にそびえる標高458mの山。
山頂は北峰と南峰に分かれ、北峰頂上に「ストーンサークル(環状列石)」があることで知られています。地元でも名所の1つとしてけっこう有名なはず?

面白いネタとしては、作家の松本清張氏と考古学者の斎藤忠氏(静岡県埋蔵文化財調査研究所所長。考古学史の整理作業などで有名)が現地調査をしたという話があります。

その調査報告書『猪群山-山頂巨石群の研究-』(1983年、以下調査報告書と略)まで出ているところが凄い。

猪群山


2017年3月19日日曜日

賀茂神社の神籠石(群馬県桐生市)


所在地:群馬県桐生市広沢町

賀茂神社の祭典の前夜、神籠石で榊に神を降ろし、台待窪で榊を神輿に乗せ、「休め石」に神輿を降ろしながら、神社へ神を迎える神事が明治維新の頃まで行われていたという。
しかし、戦後しばらくして、近年は賀茂神社の神職の方も足を運ぶことがなく、正確な位置もあやふやとなっていた。

この神籠石について、2007年2月に賀茂神社の神職さんへ話を伺った。

・この岩石の読み方は?

 「かわごいし」。しかし神職さんが言うには、元は「かむごいし」ではないかとも。「神が籠る」という意味を重視されていた(つまり「かむご」は神職さんの考えが入っている可能性あり)。
 また「こうごいし」はどうですか?と聞いてみても通用したが、これはいわゆる神籠石の知識があるから通用したのかもしれない。

・なぜ近年は祭祀されず、所在が分からなくなったのか?

 神職さんと連れの年配の方の話によると、昔はちゃんと手入れをしてまつっていたとのこと。
 戦前までは、神籠石の周囲四方に竹を立て、注連縄を張っていた。そして春と秋の2回、赤飯・塩・水(酒だったかも失念)をお供えして祈願祭祀していた。

 それが昭和20年代前半に来た台風により周辺一帯が被害に遭い、その時に神籠石が斜め下に傾き崩れてしまったとのこと。
 この台風により里も大被害を被り、神籠石への道も倒木やら山崩れやらでしばらくの間行けなくなってしまい、そうこうしている間に神籠石への祭りは途絶えてしまったという。

 近年の神籠石が見向きもされなかったのもその延長線上で、年配の方しか神籠石の存在を認識していない状態だった。

・神籠石へのタブー

 タブーは特になかった様子。神職さんも子供の頃は神籠石の上に立ち登ったりして遊んでいたというので、戦前の頃は少なくとも畏怖的というより、親近的な信仰だったのだろう。


そんな神籠石だったが、2007年頃より、楚巒山楽会代表幹事が中心となって山中隈なく探索された結果、2009年3月に土木に半ば埋もれつつあった神籠石を再発見。
往時の神籠石を知る地元の方のお墨付きもあり、神籠石の所在が約60年ぶりに確認された。
神籠石の表面を覆っていた土木は取り除かれ、手前には神籠石を示す看板も設置された。

しかし、神社や地元自治体が定期的な管理をしているわけではない。
管理人が訪れた2010年には、すでに山荒れが進んでおり、道も倒木もひどく多かった。立てられた看板も後に消失したという。

ただ、現在、Googleマップ上にも目印がつけられ、所在地については今後忘れられることはないだろう。
祭祀されない山中の岩石は忘却が進みやすいので、せめて正確な形で記録が語りつがれていくことを祈りたい。

神籠石再発見までの経緯については、2007年以降リアルタイムで書かれてきた下記出典サイト・ブログの各記事を参照されたい。
当サイトもこの神籠石について、2007年以降試行錯誤の踏査や的外れの仮説などの更新を重ねてきたが、あえてその駄文は割愛させていただき、ここに簡潔ながら事実の報告と参考文献・サイトの紹介を永久に記録しておくことで、せめてもの罪滅ぼしとしたい。

なお、桐生市教育委員会文化財保護課・編『桐生市埋蔵文化財分布地図・地名表』(1994年)に史跡登録された「川越石」はこの神籠石と同一物を指すものと思われるが、地図に落とされた位置は全く別の谷間であり、遺跡地図が示す場所が間違っている。後学の方が騙されないようにここにはっきり記しておく。

神籠石
賀茂神社前に掲示された神籠石の位置を示す地図。
この地図だけでは絶対辿りつけないので、Googleマップを頼りに訪れよう。

神籠石
神籠石に取りつくルートは山荒れが激しく、倒木とブッシュに見舞われるので注意。

神籠石
2010年時点での神籠石。2009年に建てられた看板が健在。

神籠石
看板裏に刻まれたメッセージ。いろいろなストーリーがあって立てられた。

神籠石
神籠石近景。元来は頂面が水平で、戦後の台風で斜めに傾いてしまったという。

出典

楚巒山楽会代表幹事・楚巒山楽会代表幹事代行「ヘロコヤシキ」「神籠石/かわご石山」「神籠石発見!」「神籠石最終章」(サイト「やまの町 桐生」内) 2012年11月18日アクセス
すずき@東毛「賀茂神社の『神籠石』 ~ 神様が降臨した石は何処に」「続・賀茂神社の「神籠石」 ~ ついに神籠石を拝す」(ブログ「上州東毛 無軌道庵」内) 2012年11月18日アクセス
山田郡教育会・編 『群馬県山田郡誌』 山田郡教育会 1939年
桐生市史編纂委員会 『桐生市史 上巻』 1958年
島田一郎 『桐生市地名考』 桐生市立図書館 2000年
桐生市教育委員会文化財保護課・編 『桐生市埋蔵文化財分布地図・地名表』 桐生市教育委員会 1994年
吉川宗明 「賀茂神社の神籠石(群馬県桐生市) 忘れ去られつつあった岩石の再発見譚」 『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』 遊タイム出版 2011年

2017年3月16日木曜日

富士河口湖の皮籠石(かわごいし/かあごいし/かむごいし)



所在地

山梨県南都留郡富士河口湖町小立字皮籠石

出典

・古代山城研究会代表 向井一雄氏が現地調査された内容を管理人がうかがって編集

・「富士河口湖町小立土地区画整理組合HP」 2013年8月16日アクセス

情報

・『ふるさとの地名考(河口湖の文化財第5集)』(河口湖町 1986)に当地の「籠石(かむごいし)」の地名が取り上げられており、かつて明治~昭和20年代までは皮籠石の表記だったという。

・「かあごいし」とも音読したといい、当地は岩石が散在する場所だったと記載されている。

・享保年間の古文書に、日蓮上人が法座石・鼻曲石(像鼻石)・硯石・経石・たて石・へび石・かわご石の七ッ石を名付けたと記されているという(未見)。この内のかわご石が当地の皮籠石とされる。

・当地は平成21年頃から土地開発工事が入り(事業開始自体は平成17年からともいう)、現在は商業施設・住宅団地が造成されている。

・富士河口湖町都市整備課の中に、開発前に字皮籠石に岩石があったことを知る方がおり、山林だったところに細い道が通り、その傍らに長さ1m大の平たい岩があったという。一部が盛り上がっており、人が座れるような形状だったという。

・その岩石はかなり風化・摩耗している様子で、開発工事により撤去・処分されたという。特に記録・写真なども残されていない様子なので、本項で皮籠石の歴史を記録保存しておく。

・皮籠石水源として知られる採水地の1つで、岩石と水源の関係を考える1つのケースになるかもしれない。


2017年2月19日日曜日

朝鳥明神(岐阜県揖斐郡揖斐川町)


所在地:岐阜県揖斐郡揖斐川町上野字馬瀬口

1、朝鳥明神の磐境

小島山(標高八六三メートル)と室山(標高三七四メートル)の間には朝鳥谷(浅鳥谷)が形成されており、谷から流れる沢は揖斐川へ接続している。この朝鳥谷の入口に朝鳥明神が鎮座しているが、類を見ない祭祀形態を持つ神社である(一九六七年、朝鳥明神址として揖斐川町指定史跡になっている)。

一の鳥居は、二本の木柱に竹を渡した〆鳥居と呼ばれるものを建てており、奥にある二の鳥居は素木で組んだ神明鳥居である。二の鳥居の背後に、「案」と呼ばれる供物などを捧げるための台があり、木造と石造の二つが置かれている。石造の案の上には、鏡と四手を収納するための小祠が置かれている。

案の後ろの山林は「神山」と呼ばれ、今も禁足地になっている。この禁足地に列石があり、通俗的に磐境と呼ばれている。中に入ることはできないが、草木の間から顔を出す岩石の群れを確認することができる。まず案の背後に四個の列石が横一直線に並び、その奥に注連縄の巻かれた一個の岩石がある。これを取り囲むかのごとく、さらに奥に四個の注連縄の巻かれた岩石が配されている。

この磐境を使って今も定期的に祭祀が行なわれているというが、はたしてどのような内容なのだろうか。
朝鳥明神
写真中央の森の中に朝鳥明神が鎮座する。

朝鳥明神
特異な〆鳥居。奥に見える簡素な祠が朝鳥明神である。

朝鳥明神
祠の前に案が設置されている。

朝鳥明神
祠の裏は神山と呼ばれる禁足地で、その中に磐境が散在している。


2017年2月17日金曜日

昭和京都名所図会 全7巻

高度経済成長期を境に日本の風景は一変したといいます。

風景だけでなく、人々の観察眼や興味関心も様変わりしたように思えます。

この本を読むとそう思わされます。


昭和京都名所図会と名付けられたこのシリーズ。
全7巻14000円のところを5000円以下で見つけたので揃えて買ってしまいました。

京都の名所旧跡を作者お手製の絵図と共に紹介する、今風に言えば観光ガイド。
でも、今の観光ガイドとは目の付け所も取り上げ方も違います。
題名通り、江戸時代からの流れを汲む名所図会の香りで雰囲気は統一されています。

川の淵の名前や逸話など、現代人がスルーする情報が多くのせられています。
ここでしか言及されていない「仙遊石」など、岩石祭祀事例も多数収録。

こういった情報は、今の観光のメインストリームからは完全に除外されています。
除外されているというより、情報と興味関心が次世代に受け継がれず、断絶しているんでしょうね。

私が生まれていない時代の空気を閉じこめているわけで、この本を読むことで、生まれていない時代の歴史を追体験できます。
いま目の前で見ている京都とは違う京都像の視野を広げてくれるという意味で、京都に惹かれる方にお勧めします。

2017年2月13日月曜日

四賀のイワクラ(磐座)

松本市四賀化石館(長野県松本市七嵐85-1)で「四賀のイワクラ(磐座)」と題された写真展が開催されます。

http://matsu-haku.com/shigakaseki/archives/353

期間:平成29年3月3日(金)~3月30日(木)

長野県松本市のイワクラというのは今まで知ることはありませんでした。
初耳の方も多いのではないでしょうか。

でも、昨年はミステリツアーで四賀地区の特異な地層を持つ岩々を巡っているようです。
また開催されるのなら、行きたいですね。

すべてが歴史的ないわれをもつ磐座かどうかは不明ですが、地学的な目線からのピックアップが特徴的です。

2017年2月6日月曜日

【情報募集中】探しています

岩石信仰・岩石祭祀の調査を続ける中で、いくつかの所在地について疑問や謎を残したままになっています。
ここに私が今まで関心を抱き続けてきた不明点をまとめておき、いつか真相を知る地元の方や当事者の方にこのページ上で出会えることを祈ります。

本記事のコメント欄、あるいはページ下部にあるお問合せフォームから、下記の案件に関わる情報をお持ちの方はご投稿いただけると嬉しいです。

■ 猪俣の七石(猪俣の七名石)の正確な所在地


埼玉県児玉郡美里町猪俣にあるという、こぶ石・鏡石・福石・爺石・姥石・唸石・櫃石の七石。
こぶ石の場所は把握していますが、それ以外の六石の正確な所在地、あるいは現況をご存知の方、お教えください。

猪俣の七石の一つ「こぶ石」

■ 八嶽山神社の裏山にある天宮神社と妙見神社の詳細


山梨県山梨市山根に所在。
天宮神社が八嶽山神社の奥の院に当たるのか。妙見神社へのルートと現地に行かれた方の情報をお待ちしています。


2017.2.10追記 本記事コメント欄にて情報提供をいただきました。ありがとうございます。

■ 尾張本宮山と相澤山に環状列石があったという話について


愛知県犬山市の本宮山頂と相澤山頂には環状列石があり、この石柱を麓の大縣神社に移してまつっていたが永正年間と万治二年の火事により所在不明となったという楽田古文書会の会長の話が、当サイトの掲示板に過去投稿されたことがあります。信憑性は定かではありませんが、他ではまったく見聞きしない話であり興味深いのでここに転載しておき、さらなる詳報を待ちます。

―――

尾張本宮山   Follow: 244 / No: 243 [返信][削除]
 投稿者:かずゆき。  02/08/26 Mon 22:22:44

    はじめまして。
    相澤山頂と本宮山頂には環状列石があったそうです。
    また大縣神社と本宮山は永正年間および万治二年に
    火事で焼け落ちており、その際に社殿に祀つられていた
    石柱(山頂の列石をおろし神体とした)は不明となって
    しまったそうです。

    元犬山市教育委員
    楽田古文書会 会長 小澤重功氏談

―――

相澤山の中腹、おそそ洞と呼ばれる場所にある奥宮の御社根磐

■ 小牧山の観音洞にあるという七ッ岩(七つ石)の位置


2010年頃、当サイトの掲示板でチェリーさんと共に、愛知県小牧市の本石の所在地について文献・現地情報収集などをおこないましたが、現時点で特定できていません。
ならびに、小牧山にはストーンサークルがあったという説があり、巨石文化に関心を寄せていた民族学者の鳥居龍蔵博士が言及したこともありましたが、これの情報出所と実体と現況or消滅時期も情報募集中です。
最近、小牧山城から巨石の石列跡が検出され、来場者への示威に用いていたのではないかという説が出ましたが、これとの関連性も気になるところです。

小牧山麓の間々観音に掲示されている七つ石の由緒板(チェリーさん撮影)



■ 真清田弘法について


愛知県名古屋市千種区の覚王山日泰寺の境内にある真清田弘法の中には、今もまだ石がまつられているのかどうか。
この石は、愛知県一宮市の真清田神社の本殿裏に土壇状にまつられていた神体石だったという逸話があります。詳細はリンク先をご参照ください。
日泰寺と真清田神社からかつて頂いた回答は、後世の資料に沿った表面的なものでしたので、今一つ正確性が期待できず、当時を知る話者の方にお会いしたいです。
真清田弘法を定期的にお経をあげにくる世話人の方がいるらしく、その方に一度お話を伺ってみたいと思っています。その方をご存知の方ががいればご紹介ください。

真清田弘法について詳しい方急募

■ 多度山の上冠石と下冠石の違いをご存知の方


三重県桑名市の多度大社の裏山である多度山中には五箇神石という五石があり、その一つである冠石は、上冠石と下冠石の二体に分かれているという説があります。
多くの場合、冠石と一つに包められて話がなされることが多いので、この二体の所在地が特定できておらず、ご存知の方はお教えください。

多度山中にある巨岩の一つ。私は下冠石ではないかと推測していますが未確定。


■ 川上山若宮八幡宮の北方の山中にある燈明石と雨乞社(立岩さん)の所在地


三重県津市美杉町川上。詳細はリンク先で書きました。
web上はもちろん、文献上でもおそらくほぼ出回っていない場所です。
それだけに、記憶の消失が危ぶまれます。
正確なアクセスルート、あるいは、地図上での位置を落とせる方に出会えることを待ちます。

雨乞社(立岩さん)へ取りつく入口と思われる逢神橋


■ 瓦屋寺御坊遺跡の所在地

滋賀県八日市市の瓦屋寺山の坐禅石の前から見つかった古墳時代の祭祀遺跡。
この坐禅石が特定できないため、遺跡の位置も現地で確定できていません。ご存知の方、情報をお待ちしています。


瓦屋寺境内に露出する岩崖。これではないようです。


■ 大岩山銅鐸出土地近くにある「ネコ岩」について


滋賀県野洲市の銅鐸博物館の西に、立岩をまつった場所があり、今も祭り場として手入れが行き届いています。「ネコ岩」という名前がついているという説がありますが、一方でそうではないという地元の方の声もあり、この立岩についての詳細と、ネコ岩が別にあるとしたらその場所をご存知の方を探しています。

ネコ岩?



■ 与喜山(奈良県桜井市)の「三の磐座」の場所をどなたか踏査して発見してください。

藤本浩一『磐座紀行』(向陽書房 1982年)掲載の写真
上の場所を約15年、10回にわたる踏査で探していますがまだ見つかりません。
1人では限界を感じており、合同踏査していただける方、大歓迎です。

同時に、与喜山にかつて整地整備を行った杉髙講という集団の歴史について記憶・情報をお持ちの方も募集中です。

 

■ のうが高原 情報

広島県廿日市市のうが高原には、多数の奇岩怪石群が存在しており、超古代文明ブームでいくつかの名前も付けられました。
そのために、なにが元々つたわる名称・伝承で、どれが後付けされた名称・創作話なのかが見分けがついていません。巨石群について言及した古文献があるのか、について関心を抱いています。
あわせて、のうが高原が時折、再建に向けて工事をしているなどのうわさが飛んでいますが、一向に復活の兆候がありません。もし関係者の方がいらっしゃいましたら実情をお教えいただけると、私含め全国各地の のうが高原隠れファンが喜びます。


■ 「~の七石」の新情報(全国)


小野寺七石(栃木県栃木市岩舟町小野寺)
吾妻七つ石(群馬県吾妻郡中之条町)
猪俣の七石(埼玉県児玉郡美里町猪俣)
慈光七石(埼玉県比企郡ときがわ町)
三浦七石(神奈川県三浦市)
箱根七石(神奈川県足柄下郡箱根町)
河口湖の七ッ石(山梨県南都留郡富士河口湖町)
諏訪七石(長野県諏訪市・茅野市)
矢ヶ崎村七石(長野県茅野市)
三島七石(静岡県三島市)
那珂七石(岐阜県各務原市)
那智の七石(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)
※加茂七石(京都府京都市)は鴨川で採れる七種類の名石なので若干意味が異なる。

上記箇所の他に、ご当地七石の言い伝えがあればぜひお知らせください。
個人的には、七石文化が東日本に偏り、西日本からほとんど聞かれないのが興味津々です。

2017.2.12追記 堅破山の七奇石三瀑(茨城県日立市)の情報をいただきました。ありがとうございます。


 ※新たな募集事項が出た場合は、本ページに追加いたします。


2017年2月2日木曜日

宇佐美英治「殺生石」~『日本の名随筆 石』を読む その14~

考古学的なテーマを纏った随筆である。

人と石の関わりについて綴る。

人が、他の動物と違い、ヒトとしてこの地球の生態系の頂点に君臨するようになった理由を、宇佐美英治は「石によって身を守り石を武器に、威力の上で人を凌ぐ動物と闘ってきた」ことだと断じている。

ヒトが二足歩行できるようになったことで、手を使い、石をどこかから調達・運搬し、獲物や外敵に石を投げることで、人はまず他の動物に勝ることができたという流れが描かれている。

人は弱いが、石などの道具を使うことで、種としての絶滅を免れ、他の動物を使役する立場に回ることができた。
この点において、石は「人間の最良の伴侶であり、最強の幇助者」だったと評されている。

石器に対しての宇佐美の随想が面白い。
――石器は土器のようにどんなふうにでも形をつけられるものではない。石は石に工作する人間の手に刃向う。(中略)石器はどんなに加工してもなお人間に抵抗し、最後まで石であることをやめない。
人は石を道具として支配しているつもりだが、実は石は最後まで支配されることを抵抗したがっているかのようだ。
石が奴隷ではなく、「伴侶」で「幇助者」であると表現した意味合いが込められているように思える。 あくまでも、石を「味方に引き入れた」までなのである。
――土器については機能が形体を決定するといいうるが、石器は必ずしもそうではない。百万年来、人が石器に見出そうとしたのは、機能というよりは石のもつ絶対的な威力であり、強大な的を傷つけ、その肝をぬきとる魔力である。

ここに、石の一つの性質が哲学されている。

ヒトが始源の時に感じた石の魔力とは、石があらゆる肉を断つという、ヒトの体そのものには備わっていない絶対的な攻撃力にあるという宇佐美の提言である。

宇佐美によれば、この攻撃力が石を霊や神たらしめた岩石信仰の源泉の一つなのだと語る。
あくまでも一つであるというのは、石には他に「無情、冷酷、生気なき無機物を思う中世以後の観念や石を永世と死に結びつける古代帝国以来の記念碑性(モニュメント)の観念」もあり、攻撃性はそれとはまた別個の観念だと言い添えているからだ。

この流れの中で、標題の殺生石が登場する。
殺生石は、栃木県の那須湯本に今もある有名な奇岩である。霊狐・玉藻が石に姿を変え、祟りの石として霊威を放ったものが、最終的には仏法により調伏されるという伝説で知られている。

温泉地による有毒ガスの噴出のため周辺一帯には一木一草もない殺風景が広がっている。
この環境要因が殺生石の伝説を構成している節は否定できないが、宇佐美は、別にこれだけの理由で殺生石の"イマージュ"を強く感じるわけではなく、もっと根深い石そのものの"イマージュ"から来ていると述べる。
――幾十万年来、人間の伴侶であり、無言の庇護者であった石が毒素を吐きつづけ、人を殺しつづけるということはわれわれの存在の基盤にかかわることなので、じっさいの災害以上にこの石が薄気味悪く思われたにちがいない。

信仰や聖なるものが、人によりその思いを強くさせる時は、人に慶福を与える時よりも、災いや予知せぬ禍悪を人に与える時の方が鮮烈に残ると宇佐美は指摘する。
恩恵よりもまず、祟り神を鎮めるための信仰。これはよく聞く話である。

恩恵を与えてくれた石が反逆する、あるいは、人から見たら裏切るように見えた石に対して、二重の畏れを抱いたのではないかと、この殺生石を通して岩石信仰の1つの形が結論付けられている。

最後に取り零したポイントを、本文から引用して終わりたい。
――しかし現代の人間は石の内部にそのような光を見出す霊力を失ってしまった。現実の殺生石はもう人々の眼に見世物同然となり、日ごと風化をつづけている。
――子供たちはボールを投げても石は投げまい。しかし手に握った石ころの独特の重み、形状を感じながら標的を狙って力まかせに投石するさいには(中略)何か生得的な、本能のよろこびに近い快感がある。

2017年1月31日火曜日

中沢けい「ひでちゃんの白い石」~『日本の名随筆 石』を読む その13~

――私はこの子から真っ白く透明感のある石をもらい、学校を変った後にも、大切に持っていた。

小学1年生の時、作者はひでちゃんというクラスメイトから石をもらった。
――男の子の名は、ひでちゃん以外は全部、忘れている。
石が、作者とひでちゃんをつなぐ記憶の装置。
――ただ白い石の記憶だけが、彼がいたんだと教えてくれる。
関連付け記憶だから忘れないというのはよくある話。
でも、なぜ石が主題になりうるのだろうか。
――石はしばらくの間、私の引き出しの中にあった。それからオルゴールの中に移った。そのあとは、金魚鉢の底に沈んでいた。鉢の中でも、その石だけは白く輝いていたが、いつの間にか緑の苔で被われてしまった。
作者にとっての、時期ごとの石の機能の移り変わり。
一人の人間の中での、年単位、月単位、日単位での石への心持ちの変遷。
いざこれが歴史研究になると、個人は捨象され、実体の掴めない"当時の人々"へと統合されていく。
歴史研究とは、これほどに危なっかしい。
――苔を洗い流し、また机の引き出しに戻した私は、何を思ったのか、緑色のサインペンで全部を塗りつぶしてしまった。

「白を緑に変えようとした心持ちは、自分のことながらさっぱり解らない」というが、「男の子が石をくれた理由を三年目か四年目かに気付いた」作者は、「石にではなくひでちゃんに、何かをしたかった」のだという。
自分のことながらさっぱり解らない自分の心理・行動は、石に限らず誰にでもあるだろう。
では、石の存在価値とは?
――ガラス玉のネックレスや夜店で買ってもらった指輪が乱雑に投げ込まれているオルゴールの中を探しても、白い、いや、緑色になってしまった石は見あたらなかった。

――石を見つけられないまま私は再びひでちゃんを忘れてしまった。

ネックレスや指輪は、記憶と共に今も残り、石を緑に塗ったサインペンですら、引き出しの中に残っていた。
石だけが、なくなってしまった。
なぜ石だけがあちらこちらに移動し、作者の意図と逆の結末に至るのだろうか。
どうでもいい時はあり、求めたい時にはないのである。

石が記憶装置であるなら、石がなくなった時からひでちゃんのことも忘れ、この話も書けなかっただろうに、それは書けている。
どうやら石は単なる記憶装置でもないらしい。

自分事だが、私の父が亡くなる前日に偶々この話を読んだことを、今も昨日のように思い出す。
関連付け記憶の1つなのだと思うが、これと何か違うのか。