2018年2月19日月曜日

俱盧尊佛/黒尊佛/鉾島(和歌山県田辺市)


和歌山県田辺市本宮町大津荷字津荷谷

俱盧尊佛
村の東谷にあり高さ十餘丈の巌をいふなり疱瘡神と崇む又鉾島ともいふ邑民奉祭する者より疱瘡護符を出す
(天保10年、1839年完成『紀伊続風土記』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765519 国立国会図書館デジタルコレクション108ページ参照)

現地では黒尊佛(黒尊仏)とも表記されるこの場所は、インターネット上でもいくつか探訪記がUPされているが、これらの記述だけでたどりつくのは至難ではないか?

何を隠そう、私は各インターネットページを参照した上で昨夏に一度現地を数時間探索しましたが、見つけることができずに一度断念しています。

その後、現地を知る方から詳細な道順を教えていただき、先月末に再訪を決意。
結果、これでも一発では辿りつけず、迷ってしまいました。

発狂しながらあちらこちらの谷をしらみつぶしに踏み入った結果、何とか発見。
半年越しの報告と相成ったわけです。

苦労して見つけると達成感はあるものの、それはある種の勘違いでしょう。
プレーンな気持ちで、岩石を見ることをおすすめします。
思わせぶりな記述で濁して後続の方には同じ思いをさせたくないですし、あちこちに踏み跡をつけることが良いこととは思わないので、ここにできる限り詳しい行程を掲載しておきます。
道は、歩かれてこそ道になるのです。

ということで、さっそく出し惜しみせず黒尊佛へのルート図を掲載します。
(以下、一度見た方向けではなく、初見の方向けに書きます)


正確な縮尺ではないのであしからず。
林道終点から、沢沿いを進む道と斜面上を行く道の大きく2ルートあるのが、逆に迷わせます。
終点すぐに坂を登り斜面上を進むルートの方が、結果としては分かりやすいです。ただ、最初の踏み跡が細くて分岐も多いので、初見で正しいルートを見つけられるかが運命の分かれ目だと思います。

何回か渡河することになりますが、増水していなければ足をぬらさずに、じゅうぶん渡れる沢です。
(雨天翌日など、増水時は渡れないとの情報もあるので注意。当日だけでなく前日の天候も考慮してください)


黒尊佛への取りつき口となる林道大津荷線。
軽自動車なら林道終点まで入ってOKだと思います。
大小の落石があるので、車の底は傷をつける覚悟でどうぞ。
私は国道からの分岐に車を置いて、この林道を歩きました。終点まで徒歩約40分。


途中に集落跡があります。
かつてあった津荷谷村の遺構とみられています。
(「村影弥太郎の集落紀行――津荷谷」http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/30.Wakayama/Hongu_Tsugadani.html


林道終点。写真中央奥に、ピンクのテープが巻かれた木が2本あり、その間からいよいよ山道となります。
なお、ピンクテープが巻かれた木は随所に登場しますが、これは複数の作業道で多用されているので、これを信じて歩いていってもたどりつくことは困難です。

2018.1探訪時

まずは沢沿いルートです。
(略地図を適宜参照してください)
すぐにこのような看板と沢に出会います。
実は昨夏に訪れた時は、この沢に丸太橋がかかっていました(下写真)

2017.8探訪時

いつからかかっていた橋かはわかりませんが、たった半年足らずで光景が変わってしまいました。
でも、橋がなくても沢を直接渡河できますのでご安心を。

沢の対岸は、平らでしっかりとした踏み跡が沢沿いに続きます。
しかし10分ほど歩いていると突然終わりが来ます。


写真が光で飛んでいてすみませんが、川の合流点のような場所で道が消失します。
(左から別の沢が合流する感じ)
唯一先に行けそうなのが、沢の左岸左奥側。
そこで再び渡河して左から合流する沢沿いに上流方面へ向かおうとしますが、大きな岩が沢を塞ぐようにどんと鎮座しており、無理をすれば行けないことないが、その先の保証がない状態で無謀に進みたくない、そんなギリギリの景色。

結果から言えば、ここをむりやり進めば黒尊佛のほうへ行けるのですが、その時の私はビビったというか、「こんな踏み跡とも思えない先に、黒尊佛への正しい道はつながっていないのでは?」と思って、周りをうろうろ観察。
すると、その左から合流してきた沢の左斜面の上の方に、なんだか作業道のようなものが見えるのです。
これがまた、本当に山道なのかどうかが、少し自信のない微妙な見え方。
急斜面のため、一度登ってもし違っていたら、今度は下るのがキツい傾斜でした。

他にアテがないため、逡巡した挙句、急斜面を登りました。
結果、正解。しっかり歩かれている山道に取りつくことができました。
一度見つけてしまえば、この山道で林道終点側に戻ることもできます。これが、斜面上を行くルートです。
この斜面上ルートの方が、林道終点から道は見つかりにくいですが、先述したような沢沿いルートの渡河も急斜面登りもしなくてすむので、今から斜面上のルートも教えます。


まず、林道終点のピンクテープ2本の間を入るのは同じ。
しかし、2本の間に入ったら、すぐに下写真の細い坂を上がってください。

ピンクテープ左側の幹の真後ろに見える細い坂が見えますか?これです。

これです!(写真真ん中)
この坂を上がると、略地図を見てほしいのですが、まるで段々畑のように平らな道に見える部分と、上に登る坂のような踏み跡が数段に渡って構成されています。
文章では説明しにくいので、略地図のように、何段か上に上がってください。他の道のようなものに惑わされてはいけません。


ブルーシートの残骸のようなものが見えてきたら、それを超えればゴールです。
(ただしこのブルーシートいつまで残っているか・・・)


ブルーシート横を通り過ぎて坂を登ったら、登りつめた所に山道が一本通っています。
登って左に行くと谷間があり、黒尊佛とは違う方向に行くので、右へつづら折りのように鋭角に曲がります。

この山道を進むと、途中で谷間に丸太橋を渡してある場所を通過します。


この橋はまだ歩ける状態ですが、いつまであるか。
これがなくなったら、谷間を下り上りですが、ちょっと危ないルートになってしまうかも。

橋を渡ってしばらく歩けば、私が沢沿いのルートから無理やり急斜面を上がった先の山道につながります。


では、話を戻してその先を案内します。

下のような看板が出てきます。

黒尊仏

こんな看板に出会うとうれしいですよね。
右下に降りる道があります。看板の矢印に従い、右下に降りてください。
沢まで降りれます。


沢沿いにまだ道が続いているので、ノーヒントだと、ついついこの沢沿いに上流に向かってしまうのですが・・・これが罠です。
この"自然な"沢沿いの踏み跡は黒尊佛への道ではなく、 どこか別の場所へ行ってしまいます(略地図参照)
なまじ作業道として使われていたようなので、私は2度目の探訪時、この上流の奥まで行ってしまいどん詰まり、万事休すになりました。
この自然な道を疑い、看板のところまで戻ってくるという決断を下すことが一番大変でした。

さて、正解のルートは、斜面を下った後に出会う上写真の沢を「渡河する」です。

・・・ここに看板が1つ欲しいです・・・。

上写真をご覧ください。写真の右奥にピンクテープが巻かれた木がありますね。
平らな植林地帯の様相を呈しており、よく見ると沢の際に石垣も見えます。
これが目印です。

植林が凄いので、伐採用の作業道ではないか?と半信半疑でしたが、もはや万事休すの私は、この道をダメもとで進んでみることにしました。

このルートが正解でした。


このような、伐採林の中を5分ほど歩きます。
本当にあるのか?と自分の中の疑心暗鬼と戦いつづけていると、

黒尊仏

看板が木の脇にもたれかかっています。

黒尊仏

まさに、見つけた時の気持ちは「南無・・・」
他のネットページの皆さん、この看板に出会うまでのルート、省略しすぎです。

「祭 毎年旧1月18日」の文字が。
新暦で言うと3月5日?私の誕生日です・・・。それはどうでもいいですが、縁ですね。

現在の様子を見るかぎり、もはやこの祭りは途絶えています。
千手観音に見立てられた信仰でもあるのだということを知ることができる、貴重な情報源としての看板です。

この看板を見つければ、もうゴールインしたも同じ。
看板横の踏み跡を3分も進めば黒尊佛と出会います。

黒尊仏

ファーストインプレッション。沢沿いに屹立する存在。

黒尊仏

正面はこちらでしょうか。
かつてまつられていた時の設備が残されています。

黒尊仏

クレーター状の窪みが蜂の巣状に広がっている、独特な外貌をしています。

黒尊仏

黒尊佛の頂部

黒尊仏

やや遠巻きから、黒尊佛の祭祀場の全景を映そうとしますが、まったく一枚に収められません。
いつものことですが、現地のスケール感が写真ではまったくつたわりません。

そこで、動画もUPしますので、参考としてください。



当日、小雨が降るなか、雨カッパ着用で撮影。

黒尊仏

それにしても、一種のおどろおどろしさ、生々しさのようなものを無機物であるはずの岩石から感じます。
特にこの窪み様と下部の黒光りする岩肌に、黒尊および疱瘡神としての神格を感じずにはいられません。

地質学的には、熊野地域に広がる熊野層群の中に局所的にマグマが噴出した火成岩の名残で、石英斑岩の岩質とのこと。
(田辺ジオパーク研究会「地質遺産の物語 田辺・みなべ編 №40 黒尊仏」http://tajiken.org/topics/topics.cgi?pg=10 紀伊民報の記事ありhttp://tajiken.org/topics/img/122-2.jpg

この記事によると、地元の古老格の方の貴重な証言として

  • 津荷谷村の村人がまつっていた。
  • 元々は社があった。
  • 旧暦1/18の祭では、のぼりをたてて太鼓を打ちながらしながら参詣し、赤飯と餅をお供えしていた。
  • 1953年7月の水害で社が流されて、この祭りは途絶えた。
  • 1990年に元村人が中心となり祭を復活させたが、約15年ほどで高齢化などの理由で再び途絶える。
  • 2011年9月までは鉄製の鳥居や石灯籠が健在だったが、同月の水害によりこれらも流され今に至る。

たしかに、現在残る祭祀設備は残骸の様相です。

黒尊仏

御神燈ですから、本来は上部があり、現在は下部のみ残存。
安政六未四月(1859年)の銘があります。貴重な文化財のはずです。

黒尊仏

願主名、所属、地区名も。

黒尊仏

ビール瓶。いつぞやの祭の遺物でしょうか。

黒尊仏

火を起こしていたのでしょうか。

黒尊仏

黒尊佛の下部は黒光りし、岩肌をえぐるように沢が流れます。
清浄な沢ですが、水害の爪痕を残すかのように、へし折れた草木が無秩序に散乱しています。
鳥居や灯籠の残骸もこの辺りに落ち込んでいるのでしょうか。

黒尊仏

一方、生き残った一部の祭祀施設。

黒尊仏

黒尊佛に隣接して、このような露岩群が斜面上方にかけて広がっています。

黒尊仏

上流側から映した黒尊佛の遠景。
「鉾島」の名前にふさわしいと思います。

黒尊仏

黒尊佛を沢を挟んだ向かい側には、このような(写真では伝わりにくいですが)一大岩盤がそそり立っています。
始め、こちらが黒尊佛かと勘違いしたほどの存在感です。

ネットページによっては、こちらの岩盤のほうが元来の祀り場であるという記述も見かけましたが、「津荷谷の地元の方の証言・記録に立脚しているか」で批判的に臨む必要があります。
検証可能な資料や出典元でない限り、その直観に私は乗れません。

その直観自体は現代の新たな信仰として肯定しますが、「古来の信仰・歴史が何であったか」をかき乱す危険性と覚悟も自覚して、それを言っているのかということです。

すべては、黒尊佛を現代につなぎわたした津荷谷の方々を最優先にして、この黒尊佛に接するべきです。

2018年2月5日月曜日

高水上命形石/巖の社/岩やしろ/岩井神社旧跡/石井神社旧跡(三重県伊勢市)


三重県伊勢市宇治館町字岩井田山

通称「内宮の磐座」と呼ばれ、イワクラ学会でも公開の可否に物議を醸したといわれるが、今はインターネットなどでも訪れる人が続出し、その存在が広まっているようである。

その実情はどうであるのか、情報が錯綜する前に、この機会にまとめておく。

■ 現地の様子


巌の社/岩やしろ/石井神社旧跡/高水上命形石

神宮司庁の北入口にこんもりとした丘があり、道路沿いからも森の中に巨岩が見えている。
石橋も架けられており、特に何も隠されてはいない。

この丘の一帯は少なくとも江戸時代から岩井戸山と呼ばれ、朝熊山の登山口の一つとして知られていた。

巌の社/岩やしろ/石井神社旧跡/高水上命形石

数体の巨岩が群集している。
丘の頂部ではなく、直下の斜面に立地している。

巌の社/岩やしろ/石井神社旧跡/高水上命形石

1体の巨岩はそそりたっており、高さ6mを超えると推測される。

巌の社/岩やしろ/石井神社旧跡/高水上命形石

巨岩群のすぐ上は平らな頂面が広がる。
伊勢神宮の式年遷宮の折、神宮御用材を伐採するためための祭祀として山口祭がここで催行される。

■この巨岩群について触れられている文献


1.『宇治郷之図』

文久元年(1861年)に描かれた『宇治郷之図』に、この巨岩の絵が図示されている。

伊勢古地図研究会編『宇治郷之圖』(伊勢文化会議所、1997年)より引用
画像の真ん中あたりに岩の絵があり、その横に「岩井神社」と記されている。

この絵図について解説を加える伊勢古地図研究会が、同書でこの巨岩群について次のように言及している。

「現在は本絵図の示す位置に神社はないが、その位置に巨岩があり、近世以後内宮の遷宮諸祭のうちの山口祭がこの岩(巌)の傍らで行なわれている。異説があるため断定には至っていないが、この地が神宮末社の岩井神社の跡地であるともいわれている。末社の岩井神社は倭姫命が定められたとの伝承をもつ神社であり、祭神は高水上命であるが、古くに社殿は廃絶しており、現在は津長神社に同座している。」(伊勢古地図研究会編『宇治郷之圖』伊勢文化会議所、1997年)


2.『皇大神宮儀式帳』

岩井神社は、石井神社として延暦23年(804年)完成の『皇大神宮儀式帳』に記載があり、「石井(イハヰ)神社 大水神兒高水上命形石坐」と記されている。
高水上命(タカミナカミノミコト)は伊勢神宮の公式見解によれば石清水の神とされており、石と水の両属性を神名としたのが石井となる。

伊勢神宮の摂末社の多くは「形石坐」と記されており、石積みや石畳に神をまつる祭祀が盛んだった。
だから、とりたてて石井神社だけが石のまつり場というわけではないのだが、他と違い自然の巨岩群をまつる摂末社は石井神社だけだろう。
石井神社は延喜式内社ではないため、おそらくは当時祠がなく、岩を神社とみなした場所だったのだろうと思われる。

その点において、この岩の名前の文献上最古の名称として「高水上命形石」を第一に挙げておきたい。


3.伊勢参宮名所図会

そのほか、寛政9年(1797年)刊行の『伊勢参宮名所図会』にも、この巨岩群は登場する。

国立国会図書館デジタルコレクションより(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952764

画像の左上に、岩の絵と共に「岩やしろ」と書かれている。
同書には「石井神社 石井田山にあり これを巖の社とも云」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952764)と紹介されており、「巖の社」もこの巨岩群を表す名称として認められるだろう。


4.勢陽五鈴遺響

江戸時代の伊勢国の郷土資料として知られる1833年(天保4年)完成の『勢陽五鈴遺響』にも、石井神社と巌社の関係が記されている。

「巖社遥拝所 祓所ノ南ノ石畳ナリ 今此処ヲ神域ノ第一ナル故ニ方俗一ノ宮ト称ス 是本祠ハ館町ノ北東岩井田ニアル石井神社也」(安岡親毅著・倉田正邦校訂『勢陽五鈴遺響』5、三重県郷土資料刊行会、1978年

石井神社が江戸時代当時、俗称として巖社(巖の社)と呼ばれていたことは、これで複数の文献に記載されていることから明らかである。
その巖社にはさらに遥拝所があり、それは内宮の一の鳥居の内側の神域に石畳の形で設置されていた。
鳥居内の神域内の最初のまつり場という意味で、一ノ宮と呼ばれていたというのも興味深い情報である。


5.櫻井勝之進『伊勢神宮』

櫻井勝之進『伊勢神宮』(学生社、1969年)によれば、巖社遥拝所をはじめとする、神宮境内のあちこちに増設されていった石畳や石積は、四至神や瀧祭神など一部を除いてほとんどが、明治時代になって整理(撤去)されたという。

話の本筋からは脇にそれるが、これらの石畳・石積について櫻井氏は次のように述べている。

「(四至神などの)祭壇には榊の根もとに特徴のある形をした石が若干据えられている。これに眼をとめて、神道では石を拝むのかと問う人もいる。また、すこし古典にくわしい人は、さすがに伊勢には古代のイワクラが生きているともいう。どちらも早とちりであることはいうまでもないが、説き明かすのには時間がかかる。」(櫻井勝之進『伊勢神宮』学生社、1969年)

これらの石はイワクラではないという意見であり、早とちりなのは言うまでもないとのことだが、いや、言うまでもないというような簡単な問いではないだろう。
櫻井氏が何も説明してくれないので勝手な推測となるが、おそらく、人為的な施設における石は祭神の象徴・目印としての御形だから磐座神としての信仰とは異なるという考え方なのだろう。
とすれば何となく言いたいこともわかるのだが、思わせぶりな言い方で論拠を明かさないこの書き方はやや閉口する。

同書では石井神社の巨岩群については明言していないが、一言、「岩井田には末社石井神社の旧跡があり」と記している。旧跡=巨岩のことだろうか。


6.木村政生『神宮御杣山の変遷に関する研究』

木村政生『神宮御杣山の変遷に関する研究』(国書刊行会、2001年)は、その名のとおり神宮御用材を切り出す山である御杣山についての研究書であり、ここにも石井神社旧跡の名が出てくる。

「遷宮最初の祭である山口祭が、内宮は神路山の入口にある岩井田山の石井神社旧跡の地で行われ、一方、外宮は高倉山の麓である神域内の土宮の東南において執り行われるのは、古来の御杣の山口に当るためであり、現在までの例になっていることによっても考えられる。」(木村政生『神宮御杣山の変遷に関する研究』国書刊行会、2001年)

岩井田山にある旧跡で山口祭が行われる・・・これだけの条件が揃えば、旧跡とは、巨岩群を指すと考えてまず間違いはないだろう。

したがって、伊勢古地図研究会が「異説があるため断定には至っていないが」と慎重を期した記述にとどめているものの、実際に絵図には「岩井神社」とも書いてあるのだから、巨岩群が平安時代『皇大神宮儀式帳』以来のまつり場である石井神社/岩井神社/巖社/岩やしろであることは認めてもいいのではないか。


山口祭の場所に選ばれ、内宮正殿のほぼ真北に位置するという意味深な場所ではあるが、これまで見てきたように、決して当地は隠された場所でも公開に物議を醸すような場所ではない。
明治時代に石井神社は近くの津長神社に合祀されたことから、巨岩群での祭祀の足跡は姿を消したように見えるが、それは単に私たちの耳に入っていないだけで、調べれば古文献や絵図に明記され、現在でも伊勢神宮を専門とする研究者には周知の場所だった。

いたずらに陰謀論的な世界観に陥る前に、まずは虚心に先人の残した歴史を調べてからにしたい。そうしないと、歴史が曇ってしまい歴史に失礼なことになる。
私は、この巨岩群のために「内宮の磐座」という、先人が呼んでこなかったセンセーショナルな名前には与しない。


2018年1月25日木曜日

加佐登神社と石(三重県鈴鹿市)


三重県鈴鹿市加佐登町2012

日本武尊は伊勢国の能褒野(能煩野)で亡くなったとされるが、尊の笠と杖を神体としてまつったのが加佐登神社で、境内の白鳥塚は日本武尊墓として、本居宣長を始めとする江戸時代の国学者に比定された。
*宮内庁が指定した日本武尊御陵は三重県亀山市の丁子塚(能褒野王塚古墳)

加佐登神社
白鳥塚
白鳥塚は、考古学的には白鳥塚古墳群の1号墳に該当し、古くはヒヨドリ塚・茶臼山・丸山・経塚などと呼ばれた。
従来、直径は東西78m、南北60mで、高さ13.3mの三重県内最大の円墳として有名だったが、平成17年の調査によって帆立貝式の前方後円墳と判明した。

『延喜式』諸陵寮に「遠墓」として、「在伊勢国鈴鹿郡。兆域東西二町。南北二町。守戸三軒。」という記載がある。

「『ヤマトタケル』の名も日本の勇者という普通名詞で、固有名ではないという。実在でない人物の墓を求める事も、あるいは無意味かもしれない。しかし少なくとも、平安時代初期には、その陵墓は鈴鹿郡のどこかに実在していた事は確かである。このような尊の伝承が、この地方に多いということは、鈴鹿川河谷が、当時の大和王朝の東国経営上、重要な路線にあたっていたという歴史・地理的な背景があったからであろう」(鈴鹿市編『鈴鹿市史』第1巻、1980年)

尊の実在とはまた別のテーマとして、平安初期に尊の墓が鈴鹿群に実在し、二町(220m)四方の境域をもち、墓守の家が三軒あったという事実には目を向けてもいいだろう。

加佐登神社
加佐登神社拝殿


加佐登神社の社頭、賽銭箱の隣に1体の石がある。

加佐登神社
社頭に安置された石


神主さんにお話をうかがったところ、この石は先代以前の神主が境内から見つけたものとのこと。
石には弧帯状の白い模様が見られ、ゴツゴツとした頂部と一部亀裂も認められる、独特な外見をなしている。
これが境内にいるという白蛇の姿に擬せられ、ただならぬ石として安置されることになった。

加佐登神社は、尊が死の間際につけていた笠をまつる御笠社と伝わることから、諸病平癒の霊験で知られていた。

信仰の根本は日本武尊およびその神体である笠と杖にあるが、そこから派生し、この石も病にご利益のある石として、患部が治るように石を撫でに来る人もいるらしい。
(力石や重軽石のように、石を持って上げることを否定するものではないが、撫でる方法のほうが自然な様子)

石の名前は特にないとのこと。
変な方向に進まないように、不用意にPRをする考えはないが、定期的に下の座布団は替え、安置を続けていくという神主さんの真摯なお話をうかがうことができた。
私もそのお考えを忠実に尊重したい。

2018年1月22日月曜日

池田清隆氏の新刊とブログのご紹介

『神々の気這(けは)い―磐座聖地巡拝』
http://amzn.asia/43KuUVm

『古事記と岩石崇拝 「磐座論」のこころみ』
http://amzn.asia/eObiWvw

この2冊の名を出せば、同好の方であればピンとくる池田清隆氏。

ベネッセコーポレーション元役員という経歴ながら、幼少期より筋金入りの磐座好きだったと語る池田氏の新刊とブログ(HP?)の存在を偶然ながら知りました。
まだあまり斯界に周知されていない様子ですので、皆様にもお知らせします。

出窓社HPの新刊チラシより引用


『磐座百選』(出窓社)
http://www.demadosha.co.jp/catarogupage_276.html

池田清隆氏の制作とされるブログ
http://www.message.ne.jp/iwakura/blog.html

『磐座百選』がamazonに掲載されていなかったので、もしかしたら出窓社のHP経由でしか買えないのかと思い、さっそく注文をしたところ、1月下旬刊行で後日amazonなどにも掲載されるとのことです。
少し早足が過ぎました。

『磐座百選』は、池田氏の集大成とも言える著作となっている予感があるので、早く読んでみたいです。
池田氏が書く文章は、磐座に対する愛が押さえ切れていません。氏の哲学を強く感じるのです。
そこが好きで、本が刊行されるたびに私は手に取ってしまうのです。

正直なところ、私と考えの違うところは複数あります。
ですが、岩石と向き合う根っこの姿勢には共感するところ多々で、この分野の石好きと呼ばれる人々の中では、シンパシーを感じると言いますか、シンパシーと言っては目上の方に失礼です、敬意を感じる方です(お会いしたことはございませんが)

チラシによると、『磐座百選』に伊勢神宮の巌社として紹介されている岩の写真があるようなのですが、これがどこのことなのか興味津々です。

2/24には東京で、池田氏の新刊に合わせた講演会も行われるようです。
私は行けませんが、予定が空いていてお近くの方は、ぜひ行かれてみてはいかがでしょうか。

また、池田氏のブログのほうには日本地図が掲載され、全国各地の岩・石が閲覧できるようになっており、こちらも力作です。本の内容とかぶらないのかな…と心配してしまうぐらいです。

なにはともあれ、本の到着が楽しみな一月です。
 
実は、今月は石の勉強強化月間です。

足立巻一『石の星座』(編集工房ノア、1983年) 読了済
http://amzn.asia/aa7AXqE

種村季弘『不思議な石のはなし』(河出書房新社、1996年) 到着待ち
http://amzn.asia/9JrJJgx

笹生衛『神と死者の考古学』(吉川弘文館、2015年) 到着待ち
http://amzn.asia/hgyCzSU

小林青樹『倭人の祭祀考古学』(新泉社、2017年) 到着待ち
http://amzn.asia/6cgWBbf

こんなに関連本を読むのは久しぶり。
意識したわけではなく、自然とそういう気持ちが湧き上がりました。
計画性など無ですが、理屈で止めるものではないと思います。好きなものは好き、に理由や裏などいらないですよね。

私の石に対する熱はずっとこんな感じで、バイオリズムのグラフみたいに定期的に持ち上がってはまた収束し、熱意が消えたかと思いきや、時々発作的に蘇ります。
この気持ちだけで18年目を迎えようとしています。
まだ続くようで、そのこと自体がちょっとうれしい。

最近は石の哲学方面に傾倒していたので、考古学の最新の状況も勉強するために、祭祀考古学界隈で注目の下記2冊も追加しました。
石は特定の学問に寄らず、バランスをとることが大切かと感じます。

2018年1月15日月曜日

石愛好会と展示会には無縁の石好き

『Meets Regional』2018年2月号

 https://www.lmagazine.jp/meets/

鮨屋特集が目当てで買いましたが、レギュラー連載「徒歩旅行」が石の記事でした。
縁ですね。日々勉強です。

石愛好家の小田桐道広さんのインタビュー記事でした。

津軽半島で採れる名石「錦石」を拾い歩き、石についての愛に溢れたコメントが多数収録されています。
楽しく読ませていただきました。

小田桐さんはにしき石愛好会に所属し、定期的に探石会を催したり、全国の展示会で石友達が集まるそうです。
検索したら、同会のHPもありました。相談役として小田桐さんの名前が。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~gutentag/nishiki_info.htm

石を拾い、集める愛好家は日本全国にあれど、秋田や青森では研磨された石を楽しむ文化があるとのこと。
そして小田桐さんは、錦石を加工する伝統工芸士。

「石は磨かなくてもいいけど、磨いた方がきれいでしょ」

小田桐さんの愛石心は、このコメントに集約されています。


私は、愛好会にも展示会にも参加していないし、そもそも石を拾うことも好んでしてきませんでした。

私って、本当に石好きなのかな?

とこの記事を読んで自問自答させられました。

いや、こんな石好きがいても許されるかな。
今までの石の経験から、そう感じます。

2018年1月4日木曜日

三尾影向石(滋賀県大津市)


滋賀県大津市園城寺町 三井寺境内

三尾影向石

俗人には、目にもかからぬ"凡石"の体を一見なしている。
なぜ、この石なのか。
だからこそ、考え深い。

三尾影向石

三尾影向石

「三尾明神は長等山の地主神なり。貞観元年智証大師御入寺に際し、三尾三神(白尾、赤尾、黒尾)此の処に会合し大師をお迎えし大師の護法を約された。 この奥の谷を琴尾谷と称し、この清流に天人浴河されたと伝えられたと伝えられる。琴尾谷に三尾明神の磐座あり。」(現地看板)

琴尾谷の磐座は「この奥の谷」とあるので、本影向石とはまた別の存在か。
磐座と影向石の違いとは?

2018年1月3日水曜日

綾部霞作「石と"話"をするO氏の話」~『石の神秘力』を読む その5~

――「この石はかわいそうだよ。いじけている」石の意志と生命を直観できるO氏は、まず石を愛することが大切と語ってくれた。

O氏は、著者の綾部霞作氏の知人であり、石と話ができる"一般人"だという。

綾部氏がいうところでは、宗教的なことやオカルト的なことを信じているわけではないが、「超能力を否定しつつ心の奥底では"信じたい"と叫んでいるというフーディニ的人格を内包」する人物と評する。

フーディニとは、20世紀初頭に活躍したユダヤ人の奇術師のことだろうか。超能力や霊能力のいかさまやからくりを暴露するマジシャンのような立ち位置の人だった。

そんなフーディニも、内心では"解きあかせないような力"に出会うことを待ち望んでいたのだろうか?

O氏も、今ある科学が万全だとは思わないものの、科学では証明できないものを安易に信じ込むこともない、理性的な人といったところかもしれない。

そんなO氏が真摯に語ったという「石の生態」を、綾部氏が次の5点にまとめてくれているので紹介したい。

  1. 人間や動物とは異なる生態ではあるらしいが、石にも「生命」がある。
  2. 石には「個性」がある。周辺の出来事に関する情報を記憶する。
  3. 石は、目に見えないが、周囲の事物に対して何かしらの「働き」を持っている。その中にいわゆるパワーストーン的な働きも含まれている。
  4. 石の「働き」には限界があるので、石に過大な役目を押しつけないこと。また、石には「意志」があるので、石を奴隷化してはよくない。
  5. 石の「個性」「働き」は個々に内容が異なるので、それをよくわきまえてつきあうこと。

O氏は、石を友達であると表現する。
友達だから、過大な要求をすると、石は「冬眠」するらしい。
O氏がいう、友達づきあいのしかたとはなんだろうか?

  • まず石を愛するという気持ちを持つ。
  • 石を所有物と思わずに、飾る、身につける、じっとみつめる、握るなどする。
  • 石を見る時は、特別な角度で精神集中する必要がある。
  • そうすると、石は本当に美しく輝くのだという。

これはまだ人間本位な考え方なのではないか?
所有した石がなぜ友達なのか?
石が、ある人を待ち続けていたかのように、ある人の"快"の目的のために心を開き、会話をするということがありうるのか?
この疑問は大切にしつつも、正解は現時点ではわからないので、とりあえず保留としておく。
石の哲学を学び続けることで、いつか氷解したい。

綾部氏は、モノとイキモノを区別しないことが、石と話ができる第一歩ではないかと考える。

モノは一ヶ所にとどまって変化がない。
イキモノは、動いて成長する。

言ってしまえばそれだけの違い。
これは目に見える差というだけであり、生命の有無を証明する絶対条件ではないのだ。

五感のうち、視覚だけに偏重しなかっただろう古代人や、感受性の高い人々がいたことは疑いない。
彼らには目以外の他の感覚あるいは第六感が秀でており、目に見えないところで生命をとらえることができた。

人間の心を研究する者は、研究者自身の感受性を高めることから逃れることはできない、そんな局面に来ている。

2017年12月29日金曜日

山上隆志「リーディング・ソースへの警鐘」~『石の神秘力』を読む その4~

リーディングは、オカルト分野では有名な用語として知られる。

通俗的には、霊的な能力者が人や物に触れたり透視するだけで、「高次のレベルの情報」を読み取ること。これをリーディングと呼ぶ。

さまざまなリーディングの担い手がいて、彼らが残した文献や発言を山上隆志氏はリーディング・ソースと呼んでいる。

このソースの取り扱い方について警鐘を鳴らしながら、その例として石を取り上げている。

たとえば、トルコ石の場合はこうだ。
古今東西の能力者のリーディング・ソースを下に要約する。

レノーラ・ヒュエット「ある特定の人にだけ、治療の石として効能があるが、治療能力がない人にとっては無意味な石だ。」

ジュリア・ロルッソ「トルコ石は昔流行った遊びで、今の時代には効果がない。」

ラマ・シング「トルコ石は治療石以上の作用がある。全員に作用する。」

さて、どのリーディング・ソースを信じようか?

全てのソースを信じると矛盾が発生するし、どれか一つのリーディングを信じる根拠をどこに置くのか。

むしろ、一つのリーディング・ソースしか知らない人は、このようなことがあるから危険なのではないか?

このような、ソースに関する知識の狭さや特定のものだけしか知らないことがいかに危険であるかと、山上氏は警鐘しているのである。

人によってリーディング結果が異なる理由として、山上氏は3点を提示している。

1.効果はその人によって異なるので、各リーディング・ソースが想定していた個々人が違うから効果も変わるのではないか。

2.頭の中で石をイメージしただけのリーディングと、実際に石を目の前にしたり手にしたりしたリーディングでは、感じ方が違うのではないか。また、石の個体ごとの純度によって作用が変わるのではないか。

3.リーディングをした人の問題。石に知識がない、リーディングできなかったから他の理屈から引用したなど。

ものは言いようで、もはや何でもありなような気がするが、山上氏がさらに考慮すべきなのはプラシーボ効果(思い込み効果)だという。

――ストーンパワーがあると確信して使うならば、プラシーボ効果によって、石の力はその人に発揮される可能性は、かなり高いと考えられる。

これは信仰の領域であり、石を別の事物に置きかえても広く通用する、人間に備わった心性ではないだろうか。
人間に備わっている性質であるなら、意図せず利用される側ではなく、意図的に上手に利用したいものである。

山上氏は、気に入ったリーディングならどれでも正解だし、気に入ったリーディングがないなら古い文献から探してみるのもいいし、オリジナルのパワーストーン・チャートを作ってもいいとまで述べる。

最終的には、自然の石を見てピンときたら、理屈など不要で、その石があなたにとってのパワーストーンなのだという結論にも行きついている。

山上氏が言いたいのは、リーディング・ソースを盲信して、ソースに見合った石を探すという付き合い方をしていると、自分の目や感性を曇らせてしまい、自分にとってぴったりの効果が得られなくなってしまうということだ。

恐ろしいほどになんでもありな話となってしまった感があるが、スピリチュアルな人の物事の考え方の一端を理解できた気がする。
けっして批判的に言っているのではなく、 信仰当事者である能力者の価値観も、このように自身の五感が異常に確立されていて、そこに周囲の他者が影響する余地はないということだろう。

いわゆるリーダーと呼ばれる人間に共通する価値観と捉えれば、これは信仰や宗教という枠組をもっと普遍的に広げられる、人心の概念とまで言える。

一方、石そのものについてはより一層わからなくなってしまった。
私は、まだ石を知りたい。

2017年12月14日木曜日

礫石(三重県松阪市飯高町)



紀州街道の珍布峠に接して櫛田川が流れ、川中に礫石がある。
天照大神が伊勢外山との国境を決めるために川に投げ入れた石と伝えられる。
詳細は以下の現地看板が詳しい。

礫石

礫石

礫石

礫石

礫石

礫石

礫石