2017年1月19日木曜日

豊島与志雄「狸石」~『日本の名随筆 石』を読む その12~

「狸石」は、小説家の豊島与志雄による作品。

創作であるが、豊島与志雄という紛れもなく一人の人間が石に抱いた感情の発露である。
作者の意図があっても、読み手によって受け取る反応は違うはず。私も私のアンテナに反応したところをメモしておきたい。

狸石は、戦後間もなく焼け跡の町の片隅に立つ石である。
石の格好に特に目立つ点はなく、通行人で注意を向ける人はほとんどいなかったが、見様によっては狸が空を仰いでいるような風体に見えた。

狸石の周りは丸石で囲われていた。

ある夜、青白い火が灯り、亡くなったとある男が狸石の傍に姿を現す。
男は狸石を溺愛していたようで、狸石に声をかける。
――ほんとは、お前を買ひ取つて家の庭に据ゑたかつたんだ。

――お前も、空襲に堪へて、よくここにじつとしてゐてくれたね。

――無事にここに立つてゐてくれてること、つまりお前の存在が、それだけが、僕には大切なんだ。

そこに、もう一つ青白い火が現われ、死人のような感じの女が現われた。

男と女は目を合わせなかったが、男は狸石の肩にもたれ、女は狸石の根元にしゃがみ、狸石を挟んで会話をし始めた。
――あなたはやつぱり、あたしよりこの石の方を愛していらつしやるのね。

――この狸石に聞いてごらんなさい。

――この石のところまで逃げて来て、あなたが追つかけていらつしやるのを待ちました。けれど、いくら待つても、あなたは追つていらつしやいませんでした。
女は、最後に一、二、三・・・と十を数えはじめ、それを五周繰り返しても男が追いかけてこなかったので、あきらめて立ち去ったのだと男に恨み言を述べる。
男も負けじと言い訳を述べる。
――いや、僕は追つかけて来たんだ。

――お前は早すぎたし、僕が遅すぎたんだ。然し、この石はいつまでも待つてゐてくれた。

――ねえ狸公、お前は待つてゐてくれるね。千回でも万回でも十を数へてくれるね。
 狸石が突然口を開く。
――十を数へるなんて、そんなばかなこと、わしはしないね。

男と女は黙り、月が雲がかり、青白い火がどろどろと燃えたと思うと、二人の姿は消え失せ、狸石だけが立っていた。

その数日後、狸石はだれかにどこかへ撤去され、整地された。やがて家を建てるために。
小説の最後は次の文でしめられる。
――狸石ももう人目にふれず、忘れられてしまふことだらう。

2017年1月16日月曜日

澁澤龍彦「石の夢」~『日本の名随筆 石』を読む その11~

――自然が石の表面に意味のある形象を描くわけはないので、これを意味のある形象として捉えるのは、もっぱら人間の想像力、いわば「類推の魔」であろう。

澁澤龍彦は、極めて理性的である。
批判主義者好みの出だしであるが、ここからどう話を展開するのか。
――あたかもロールシャッハ・テストの図形が、ひとたび私たちの目に「花」として知覚されるや、もうそれ以後、どうしても「花」以外のものにはみえなくなってしまうようなものだ。

でも、これは否定的な意味合いで書かれていない。次にはこう来る。
――こうして、無意味な形象が夢の世界の扉をひらく。

昨今の、様々な人の石に対する見方や意見や仮説を見るかぎり、私にはまったく思いつかない、時には相容れないような価値観に出会うことはしばしばである。
時代のトレンドによって形は変われど、昔も今も石への想像力は衰えていないと感じる。

澁澤は、ローマ帝国時代のプリニウス『博物誌』の石の記述から、中世の学術書や詩にいたるまで、数々の「石の夢」を紹介していく。
――当時の自然哲学的な考え方によれば、石や鉱物は生きているのであり、地下で成長したり、病気になったり、老衰して死んだりするのである。
――パラケルススによれば、長く土中に埋もれていた異教徒の古銭は、だんだんと石に変化してしまう。 

澁澤はこれを、価値のある金属が土中という"適切ではない環境"に置かれることで、"石"という"価値のないもの"に悪化したと解釈している。
「異教徒の古銭」という立ち位置が、他の解釈も夢想させるあたり、石の夢は果てしない。
「異教徒の古銭」に、価値はあるのだろうか。変化した「石」は、悪化ではなく、浄化かもしれない。あくまでも敵にとっては。

ここから、澁澤は数々の石の夢想家の例を著述する。



2017年1月15日日曜日

小黒田谷不動尊(三重県津市)


三重県津市美杉町

小黒田谷不動尊
情報収集不足につき詳細は不明。

小黒田谷不動尊
かつては石壇の上に祠があったらしい。
今は撤去されているが、祠の裏の露岩が剥き出しになっている。

小黒田谷不動尊
隣接して滝があり、行場としての清浄性を保っている。

2017年1月3日火曜日

向井一雄『よみがえる古代山城』を岩石信仰の見地から読む

古代山城研究会代表の向井一雄氏の新刊
『よみがえる古代山城: 国際戦争と防衛ライン』(歴史文化ライブラリー440、吉川弘文館、2017年)
に、神籠石を巡る話が取り上げられていたのでお知らせします。

全体を通しての所感はAmazonレビューに書いたのでそちらをご参照ください。

http://amzn.asia/2GAnDkE

この内のp28-p35が「神籠石論争顛末記」と題され、神籠石が「イワクラ(磐座)」かどうかについて頁を割いているので、磐座に関心のある方は一読をお薦めします。

交合石、皇后石、皮籠石など、様々な表記をされる「こうご」「かわご」石は、その名前の意味、性格を巡って、岩石信仰の1つの謎としていまだ横たわっています。

僅かですが、神籠石が何かであるかについて、向井氏からヒントとなる考えも若干踏みこんで記されています。
今後、このテーマに対してさらに本格的な論考が発表されることを待ちたいと思います。

個人的には、すべてが「磐座」の一語に収斂されるような存在なのかを疑問視しています。
そうであるなら、そもそも「こうご」「かわご」で一括されるグループとして生まれずに、磐座の語でまとめられていればいいからです。

機能論的な角度だけからではなく、発生当時の歴史的背景の中で論じられると、それは他の岩石信仰の歴史解明にも寄与するのではないかと、期待しています。

新年のご挨拶

昨年はブログを再開し、大小ありますが、100件に近い記事を投稿することができました。

まだまだ自分自身の知的好奇心が失われていないことを再確認できた年でした。

心機一転、気合を入れすぎず、虚心に岩石信仰を見続けていきたいと思います。


2016年12月27日火曜日

立岩(三重県津市)



三重県津市美里町南長野

立岩
たていははし(立岩橋)

立岩
長野川の真ん中に、2体の巨岩がもたれ合う。
これを立岩大明神・夫婦岩と呼び、かつてはここに立岩神社があったという。
(どのように祠がまつられていたかは情報収集不足につき不詳)
現在は長野神社に合祀。

立岩
立岩の中心に梵字が刻まれているのが確認できる。

津市の民俗有形文化財に指定されているが、現在は信仰・祭祀は継続されていないらしい。

2016年12月23日金曜日

カエデの森(三重県津市)



所在地:三重県津市白山町真見59-2


Googleで「磐座 三重」と打つと、トップページが上の画像のようになります。最近になって気づきました。

「カエデの森・磐座遺跡」
なんだろうここは。
三重県在住で磐座歴15年ですが、このような場所は初めて聞きました。

おそらく、この表示はGoogleMapで地点登録されたことによるもの。

この地点登録の手続きや基準を私は知りませんが、私がどうあがいても到達できない検索1ページ目をやすやすと叶えてしまうのだから、なんとも虚無感があります。

ということで、さっそく先日現地を見に行ってきました。三重県民として。


2016年12月17日土曜日

渭伊神社境内遺跡(静岡県浜松市)

所在地



静岡県浜松市北区引佐町井伊谷字天白

出典

辰巳和弘・編 『天白磐座遺跡』(引佐町の古墳文化5) 引佐町教育委員会 1992年
辰巳和弘 『シリーズ「遺跡を学ぶ」033 聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』 新泉社 2006年
藤本浩一  『磐座紀行』 向陽書房 1982年

渭伊神社境内遺跡

いわゆる「天白磐座遺跡」に対しての警鐘 


渭伊神社の背後に薬師山(標高41.75m)があり、頂上に多数の岩塊が露頭している。
これが渭伊神社境内遺跡である。
山頂の露岩群を中心に、古墳時代から鎌倉時代前期まで連続した祭祀遺物・祭祀関係遺物が出土した。

遺跡発見者であり、発掘調査を主導した辰巳和弘氏が「天白磐座遺跡」と命名した。
一般にはこの名前が知られる遺跡だが、史跡登録時の正式名称は、渭伊神社境内遺跡である。

遺跡発見より遡ること約10年前、『磐座紀行』著者の藤本浩一氏が当地を訪れ、同書にて磐座の例として紹介した。
現地には同書に影響を受けたと思われる説明板も立てられている。
このことから、氏の紹介以降、当地が「磐座」と呼ばれるようになったようである。

元々、地元ではここは「おがみ所」という名前で呼ばれていたという。

以上の経緯から、当地は旧来から「磐座」と呼ばれていたというわけではないことに注意を払いたい。
文字記録がなくまだはっきりしたことがわからない古墳時代の遺跡に対して、容易に「神の御座所」という意味合いを持つ「磐座」という語を当てはめて良いとは私は思わない。

当遺跡の古墳時代の遺物の出土状況から、特定の岩(報告書中で「岩A」と称されている)をまつった様子は推定できるが、それがすなわち「磐座」とは即断できない。「石神」など他の可能性も否定できないからだ。
このような現状で、「磐座」という限定的な意味を持つ名称を付することには慎重でありたい。

地元で真に伝承されてきた「磐座」であればいいものの、今回のように、外部の人間が持ちこんだ外来語としての「磐座」がないまぜになって、後世に勘違いが起こることを防ぐのは私たちの役目であると思う。

露岩群の岩の割れ目より平安~鎌倉時代の経筒外容器が出土していることから、中世に当遺跡は経塚として機能していたことが明らかになっている。
ということは、当遺跡は、年代によってさまざまな性格・役割を持つ複合遺跡であると言える。

であるならば、当遺跡の名称は古墳時代に偏重し中世の経塚を切り捨てる「天白磐座遺跡」ではなく、史跡の正式名称であり、あえて言うなら「現代」の状態を忠実に示す「渭伊神社境内遺跡」の名称を私は使用したい。

本例から、「磐座」の用語濫用で本来の歴史を改変してしまう諸問題が全国各地で起こっていることに、せめて読者の方は関心を持っていただければ嬉しい。

なお、この露岩群から西斜面に下ると、神宮寺川の崖沿いに「鳴岩」と呼ばれる巨岩が存在する。