2016年3月17日木曜日

奈良県磯城郡編『奈良県磯城郡誌』(奈良県磯城郡役所、1915年)

解題

大正時代時点での磯城郡の地誌。
 当時の磯城郡とは、桜井市・天理市・橿原市・宇陀市の範囲まで広がり、古代においてヤマト政権が本拠とした一帯と重なるため、本地誌に載せられた各種旧跡の資料価値は高い(一般に、戦後の自治体史に比べ戦前の地誌は民俗情報の仔細に富んでいる)
 与喜山関連の情報で特筆すべきものを下に引用しておく。


■初瀬

傳ふ古は此地を三神の里と稱し、初瀬川を神川と稱すと、是れ佛家か此地を以て天照大神・天兒屋根命・天太玉命の影向せし處なりと説きたるに因る、影向の奇石天神山麓にあり、三玉石と稱す。

■多羅尾瀧

高さ一丈餘、今呼んて不動の瀧と稱す、是れ近傍に不動明王の堂あるに依る、瀧壺に大なる石あり、足跡を印す俗に不動の足形と云ふ。

■磯城嚴橿之本(しきいつかしのもと)

 天照大神未た伊勢に鎮座し給はさる前、八箇年間鎮座ありし舊跡なり。址分明ならす、或は白川・出雲二村の間に在りと云ひ、又初瀬町の南の民家の内に礎石二箇を存す、これ嚴橿の本の鳥井蹟なりと云ふ、共に據なし。今尚ほ初瀬町には嚴橿の氏を冐せるもの多し

■與喜天満神社

武麻呂か家は今銚子屋と稱し、祭日に一夜造りの神酒を奉ること常例となれり。

 初瀬および初瀬川の古名、また、三玉石の名称が簡潔にまとめられている。
 多羅尾瀧についても、まとまった記述としては古典に属す。
 磯城嚴橿之本については、大正当時に嚴橿の名字を持つ家が「多し」だったことがわかる。
 與喜天満神社を祭祀した神殿大夫武麻呂の家が銚子屋という屋号で大正当時には存在し、祭日に神酒を造っていたという情報も貴重である。銚子屋については現在は初瀬町に存在しないようだ。
 天神山という名称自体も、与喜山と同等にこの頃には使用されていたことが分かる。

 このように、本書の1つ1つは細かな落ち穂拾いの趣だが、大正時代当時の当地の状態を知ることで、現在の常識で物差しをはかる勘違いを防ぐことができるだろう。

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