2016年3月20日日曜日

「元伊勢完成由来」ほか、杉髙講が残した文字記録(1962年頃)

 与喜山の北の谷にある「北ののぞき」。
 ここは少なくとも江戸時代には名所として知られていた場所だったことが『長谷寺境内図』の描写からわかるが、現地にはさらに特筆すべき文字情報が残されている。
 下写真の石碑である。


「元伊勢完成由来」
昭和二十年八月十六日山本コノヱノ代ニ神ノ告ケニ依リ「此ノ山ハ元伊勢最後ノ地ナル故ニ元伊勢トシテ祭祀セヨ」トノ神意ニ依リ下記ノ人々ノ協力ニ依リ昭和三十七年十月十四日完成ス

杉髙講 山本コノヱ教会主
講元 重走由太郎
以下40名順不同

 この石碑はいったい何なのか。
 新宗教の団体が建てた顕彰碑という評価で終えることもできるが、それは乱暴な片付けかただろう。
 この杉髙講が有していた元伊勢の知識には、侮れないものがある。

 その理由の1つとして、藤巻和宏「長谷寺と瀧蔵権現」(『神道宗教』第215号、2009年)によれば、与喜山と初瀬川を挟んだ西岸、両部山西南麓の豊秋津姫神社址に石鳥居があり、その柱に「昭和四十四年五月吉祥日 主管者 山本コノヱ」と刻銘があるという。
 「元伊勢完成由来」の石碑の昭和37年の7年後も山本コノヱの足跡がたどれるほか、その活動範囲も、与喜山側だけではなく対岸の長谷寺側にまで手を広げていることがわかる。豊秋津姫神社址も元伊勢磯城厳樫宮の証左とされる旧跡であり、元伊勢整備を核とする杉髙講がこの旧跡も顕彰・整備したのも肯ける。

 そもそも「北ののぞき」自体が、『長谷寺境内図』という江戸時代の絵図にしか記録されていない旧跡であり、おそらく地元民にしか通じない場所である。豊秋津姫神社址から「北ののぞき」まで押さえるという知識力は馬鹿にできない。
 また、与喜山という登山道自体しっかり整備されていない山の奥深く、北の谷の「北ののぞき」にまで鳥居・石碑・狛犬を設えたわけである。この実行力と資金力。
 杉髙講の主張の内容はともかく、元伊勢を整備しようという信念の強さと、その情報力・組織力の高かったことが伝わるのである。

 石碑の本文の内容に、検討を加えていこう。

 昭和20年8月16日という日付は終戦の翌日であり、宗教的・象徴的な日付設定と考えるのが適切だろう。
 「此ノ山ハ元伊勢最後ノ地」という神の告げがあったとのことだが、これは特異である。
 というのも、与喜山一帯が比定される磯城厳樫本宮というのは、『日本書紀』や『倭姫命世記』によると元伊勢の最後の地ではないからだ。むしろまだ最初の方の元伊勢伝承地である。
 このように正統の元伊勢伝承からは、やや外れた主張をしているのが特徴である。

 神の告げからは15年以上の歳月が流れ、昭和37年10月14日、山本コノヱという女性を教会主に据え、40名以上の名が連なる杉髙講によりこの石碑は完成する。そして狛犬と石鳥居も設置されている。
 山本コノヱがキーパーソンであることは間違いない。
 私が行った聞き取り調査では、与喜天満神社宮司の金子さんが言うには三重県名張市から来た宗教団体であり、川上区長の豊森さんが言うには山本コノヱは「カミサン」(神さん?)と呼ばれ、厳樫家11代目当主侃一さんが言うには講元の重走由太郎は長谷寺門前の旅館・花水館の館主で、歴史に詳しい名士だったようである。

 この証言を裏付けるかのように、「元伊勢完成由来」の隣に建てられた石鳥居には「奉 昭和三十六年十二月」「主管者 山本コノヱ」「三重名張 名張急送株式会社」の刻銘がある。


 三重県名張市由来の講ということで、いわば初瀬在地の講ではなく、外部からやってきた講である。さらに言うと、奉献された灯籠には「但馬之一信者」と刻まれているものもあり、講の信者範囲はなぜか中国地方にまで及んでいる。



 そのような杉髙講がなぜ初瀬の地に狙いを定めたのか。しかも、初瀬の名士と言える重走由太郎や豊森實(おそらく区長豊森さんの先祖)が講に名を連ねているように、しっかり地元にも受け入れられた決め手は何だったのか。山本コノヱの求心力ただそれだけによるものだったのか、それとも他の何らかの要因があったのか。

 さらに不思議なのは、これほどの組織力を持った杉髙講が、どうして今は姿形もなく活動していないのだろうか。講に名を連ねる人の名がいずれも、当時においても高齢であっただろう方々なのはわかるし、それは区長豊森さんの話からもわかったが、講は次世代に受け継がれないばかりか、このような石碑があることさえ、講の名前さえ忘れさられている。
 杉髙講は、昭和40年前後のわずか数年だけの瞬間風速なのである。それがさらにこの講のミステリアスさを深めている。
 とある宗教団体の一歴史として閑却することもできるかもしれないが、これはこれで初瀬の地が通った歴史であることに間違いはないだろう。もちろん与喜山が通った歴史でもある。そして、歴史に軽重など存在しない。このような「傍流」「周縁」に属する歴史は、関心を持つ者が少なく、伝える文献も話者もないわけだからすぐに忘却される性質のものである。
 私などは、こういう歴史こそ歴史研究者はより一層寄り添って保存しなければいけないと考えるのだがいかがだろうか。

 石碑以外にも、「北ののぞき」の地には文字情報が残されている。

 石鳥居には「本伊勢」と彫られている。なぜ「元伊勢」と彫らなかったのかは不明である。


 そして、もう1つ特記すべき文字情報が下写真である。


 「北ののぞき」を構成する岩の1つに「天狗鏡岩處ヲ守ル 靈權之神」と刻まれている。
 いまだに正確な意味を掴むことができないのだが、天狗と鏡岩というのがキーワードになっている。しかし、天狗も鏡岩も、与喜山に関連するあらゆる文献に当たっても他に出会うことはない。これも今のところ謎としておく他ない。
 刻字の筆致や言葉運び、カタカナの使い方などを見るかぎり、これも杉髙講が刻んだものと推測される。

  また、与喜山の南山腰にある「重岩」も灯籠と玉垣が整備されているが、この玉垣の奉献者名を見ていると、

「重岩」玉垣奉献者に中川善作の名が見える(中央左)

「元伊勢完成由来」石碑下部 右から4人目に中川善作

 同一人物と思しき方を両者に見出すことができる。ちなみに「重岩」の玉垣奉献者には「東京」の地名も登場し、いよいよ信者の範囲が東西に広がる。
 「重岩」には奉献年や杉髙講の名は書かれていないが、同一人物がいることから杉髙講の影響下にほぼ同じ頃にこの地も整備されたことが窺える。
 
 私は、杉髙講の忘却されつつある歴史を掘り起こすことで、昭和40年前後にあった与喜山元伊勢整備という出来事がどのような背景と引力によって引き起こされたのかに目を向けたいと思っている。
 それはひいては、与喜山の旧跡が持つ歴史の1つであり、与喜山という山の吸引力を語る一側面になりうるとまで考えるからである。

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