インタビュー掲載(2024.2.7)

2016年3月12日土曜日

松本俊吉『桜井の古文化財 その二 磐座』(桜井市教育委員会、1976年)

解題

松本俊吉は奈良県桜井市生まれで、大和タイムス(現・奈良新聞)の記者・支局長として主に文化・学芸欄を長年担当した。その実績から自治体史の執筆や地元の研究団体・桜井史談会の運営など、民俗学・文献史学の領域で活躍した。
 本著は題名の通り、桜井市教育委員会が発行していた『桜井の古文化財』シリーズの2巻目で、地方自治体が主導して、文化財としての磐座を取り上げるのは異色と言える。教委の助力を得ながら、松本が編著責任者として文章を担当したようである。



 さて、与喜山周辺の磐座として調査されたのは「泊瀬石」「鵝形石」「沓形石」「夫婦石」「化粧坂のおはぐろ石」「落神の屏風岩」である。
 「落神の屏風岩」などは他文献でも詳細な記述が少なく、初瀬ダム水没前の様子や貴重な写真を収録しているので資料価値が高い。
 「泊瀬石」や「化粧坂のおはぐろ石」は他文献でもよく取り上げられる有名な岩石なので、これらの新出事項は少ない。

 与喜天満神社境内には、鵝形石・沓形石・掌石の三石があることで知られるが、不思議なことに、松本は掌石のみを記録しておらず、資料集としては片手落ちの感が甚だしい。
 残る鵝形石・沓形石の記述も、解説内容に疑問点があることを吐露したい。

 まず鵝形石は鵞鳥の形をした形状石で、与喜天神の前身が賀茂の神だったためではないかと記しているが、鵝形石という名称が先入観に立って形状説明に主観が混じっており、賀茂神が与喜天神に先行するという推測も根拠が用意されていない。

 沓形石については、天照大神と春日明神が影向した時の沓(靴)が石化したという、比較的伝承に沿った解説を施しているが、その直後に「しかしそれは付会の説で、やはり毘沙門天にかかわる」と断言する。
 松本の解説では「昔、インドで毘沙門天が悪魔を足でけられた時に片方の靴が脱げて日本に飛んできたという石が静岡県富士市に沓石としてのこっている」といい、だから与喜山の沓形石も毘沙門天にかかわる石だという論理になるらしいのだが、なぜ静岡県富士市妙法寺の一例だけ取り上げ、しかもそれも伝承上の付会という可能性があるのに、与喜山の沓形石という場所も来歴も違う石に無理やり当てはめたのか、わからない。

 たとえば、長野県諏訪市上社本宮の沓石は、諏訪明神の沓の跡あるいは諏訪明神の神馬の足跡が残る石といい、毘沙門天とは関連がない。
 愛知県豊田市猿投山の沓石(御船石)は、景行天皇皇子の大碓命がこの地にやってきた時に乗っていた3艘の船の内の2艘が石化したもので、これも毘沙門天とは関連がない。
  神奈川県小田原市の沓石は、足の病が回復した曽我五郎が試しに踏んでみたら、石が窪み足跡が付いた岩石で、これも毘沙門天と関連がない。
 他に靴・履などの名称・伝承が残る岩石を知っているが、毘沙門天にかかわるのは妙法寺の沓石ただ1つであることを述べておきたい。単に松本が知っていた沓石が妙法寺の一例のみだっただけではないか。土着の伝承よりも海外の信仰が優先すると考える論理も一面的だろう。
 与喜山の沓形石は『長谷寺縁起文』に天照大神と春日明神が降臨した石として語られており、そこに毘沙門天が介入する話はない。厳密に言えば「沓が石化したもの」かさえ伝承からは断定できない。沓の跡をつけた石とか、沓を乗せた石とか、他の解釈もできるので早計である。
 このように、松本の解説は事実記録からはやや離れ、自らの信念や知識が優先する傾向が見られるため、注意して読まなければならない。

 事実記録が軽視されていることで困るのが「夫婦石」である。「みょうと」とルビがふられている。おそらく地元の方の読み方なのだろう。
 この石の位置が「与喜山の南側中腹、天然林の中にある」と書かれているのだが、まずこれだけではどこのことか特定できない。せめて写真があればいいのだが、他のほとんどの石は写真が掲載されている中で、なぜか夫婦石に限って写真を掲載していないという大失態をおかしている。
 他の石は有名なものが多く、また、平野部など到達が容易なところにあるのでむしろ写真はなくてもすでに場所はわかるのである。最も所在位置がはっきりしない夫婦石にこそ、詳細な位置情報と写真が必要なのに、この記述方法では記録保存の原理からは程遠い。
 その代わりに、夫婦石は一般的に縁結びや塞の神の性格を持つという辞典的な解説が挿入され、自身の知識を優先する悪癖がここでも出ている。

 ちなみに夫婦石の寸法は丁寧に記されている。丸い巨石が上下に重なり合い、「下石は巾二、一メートル、高さ三〇センチ。上石は巾二、一メートル、高さ一、一メートル」というが、丸石とはどのように丸いのか、球体ということなのか、断面が丸形なのかなどはっきりしない。丸石が重なるとは具体的にどういう状態なのか、やはり文字情報では限界がある。
 したがって、私が踏査して確認した与喜山中の数々の巨岩群のいずれに該当するのか、しないのかも断定できない。
 もっとも位置的・形状的に似ているのは、杉髙講が燈籠・玉垣を整備し、『磐座紀行』に「重岩」と記載された磐座であるが、私が測った寸法と微妙に合わず、また、丸いかといわれると肯定もできず、判断は保留したい。
 このように、せっかく他文献に一切書かれていない夫婦石の情報を載せながら、記録不足のためこの石の所在も未確定と言わざるをえない。やや批判的な物言いとなってしまったが、今後、本著を参考にして桜井市の磐座研究をする後学者は続くと思われるので、取り扱いの注意点を指摘させていただいた。

重岩の磐座。これも与喜山の南側山腹、天然林の中にあるが
松本が記す外形特徴、寸法とは合わないようにみえる。

 ただ、松本が記した推測の中で鋭い指摘が1つある。
 「『長谷寺密奏記』の中で、東山=与喜山=の南の腰石に坐すという陽神と陰神の所在はわからないが、夫婦石はその残影であるまいか」
 これは私も同意する。また、他に誰も指摘していない卓見である。夫婦石が本当に地元で語り継がれてきた名前であるなら、『長谷寺密奏記』の陽神・陰神と夫婦石の名称の類似性は強調してよい事実だろう。
 ただ残念ながら、この夫婦石の名称がだれから聞いたものであるかなどの記述もない。
 唯一のヒントとなるのは、初瀬の郷土史家・厳樫俊夫が調査当日(1975年12月23日)の案内役に当たっているということである。厳樫俊夫は初瀬生まれの地元民なので、名称の信頼性を保証する一材料にはなるだろう。

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