インタビュー掲載(2024.2.7)

2016年3月8日火曜日

逵日出典「長谷寺にみる天神信仰」『古代山岳寺院の研究 一 長谷寺史の研究』(巌南堂書店、1979年)

解題

  神仏習合、神々と仏の宗教史を専門とする逵日出典(つじ ひでのり)の著作。
本書を読めば、長谷寺の歴史、特に事実面において漏らさず知識を深めることができる基礎テキストと言ってさしつかえないだろう。
本書の第八章が「長谷寺にみる天神信仰」と題され、長谷寺が尊崇してきた神々について考察されている。1979年時点までの研究史も踏まえた上で著述されている。

初瀬でかつてから信仰されてきた地域神を、長谷寺も地主神として大切に敬ってきたが、長谷寺が東大寺を離れ興福寺の影響下に入り支配論理が変わることで、平安時代末期から初瀬の神々の入れ替えがなされ、天照大神・菅原天神という新たな天神が初瀬を代表する神となっていく変遷が、極めてわかりやすく説明されている。
初瀬という地域が、いかに多くの神々のるつぼとして機能してきたかを実感することができるだろう。



さて、章題にある「天神」であるが、これは紛らわしいのだが天照大神や与喜天神のことを指すのではなく、天神地祇の天神を指している。つまり、神々を「高天原から降ったヤマト王権の神々である天神」と「地域土着の神々である地祇」の2構造に分けて論じているのが逵論文の特徴と言える。

たとえば長谷寺創建以前の神々として、逵は次の四神を挙げる。
  • 滝蔵神 → 天神
  • 長谷山口神 → 天神
  • 堝倉神 → 地祇
  • 秉田神 → 地祇

そして、下二神については「地祇を祀るので、ここでは触れない」とつれない。以後、取り沙汰されない。地祇は地域土着の神だから、長谷寺とリンクしない限りそれ以上語ることはないということだろうか。
天神は、ヤマト王権の神という位置づけであるから、長谷寺の興隆とリンクする特筆すべき神として論じられている。
滝蔵神は『延喜式神名帳』に記載されていない(逵もこれについては理由不明としている)。しかし、神位の昇叙が朝廷により幾度も重ねられたことが複数の文献に記録されているため、朝廷に尊崇された天神という扱いとなっている。
ただし、滝蔵神が元来から天神としてまつられた神であったかは議論の余地が多い。それは逵も言及している通り、滝蔵社が長谷川の上流に鎮まり雷神の伝承も持つことから、元からヤマト王権の日本神話に組み込まれた神なのではなく、水神・雷神・農業神といった極めて土着的信仰、つまり地祇的な神格から端を発するものであったことを忘れてはならない。

長谷山口神も同様で、祭神の大山祇神という名前自体は日本神話の中で天津神の系譜をひく神名であるが、この神がいわゆる「山の神」の通り名であることは広く知られている。
山の神は、地域ごと集落ごと勢力ごとで、別個の神としてまつられていたことは想像に難くなく、すなわち長谷山口神も本来はヤマト王権から派遣された神とは言い切れず、初瀬の山々を守る地祇として出発している可能性がある。

堝倉神・秉田神は、祭神が大国主命の系譜に属する国津神という点で、地祇に分類されているが、祭神の名前だけを以て天津神の系譜に組み込まれているかいないかを見分けるのは安易である。土着か土着でないかは、それぞれの神々がいつ、だれによって、その場所に、なぜまつられたかを分類基準にすべきものであろう。地域の希求によってまつられた神が本来の地祇であり、ヤマト王権の意図によってまつられた神が天神の本来の位置付けである。
堝倉神・秉田神は単に天神の系譜に組み込まれなかったただけで、滝蔵神・長谷山口神も同じ地祇の可能性がある。堝倉神・秉田神・長谷山口神は大和朝廷の延喜式内社であり、滝蔵神は式外社という事実も見過ごしてはいけない。

そもそも、初瀬の地主神が代々宿ってきた与喜山に堝倉神がいるという事実に対して、地祇だからという理由で一行ですますことはやや乱暴だろう。
また、章の最初で『長谷寺密奏記』の「行仁上人記」を引き、長谷山内十六神を紹介しているものの、これらも成立時期が後世に下るという理由で「すべて長谷寺創建前後に初瀬の地に坐していたわけではない」とそれ以後触れていない。もちろんすべてが長谷寺以前の神とは限らないことはその通りだが、それはすなわちすべてそうではないという論理にもなっていない。
文献が後代であれば、そこに書かれている神々の情報も、後代を遡らないという論理は成り立たない。当然文献批判を経なければならないものの、正史から漏れた落ち穂拾いのテキストとして評価する可能性は残されているから、そこに検討の紙幅を費やすことが必要だろう。

このように、天神と地祇の二分法だけで初瀬の神々を語る本書の論理には危険性も潜んでいる。
発表年の古さもあるため考察のすべてが現代の研究に耐えうるわけではないが、 冒頭に述べたとおり、初瀬の神々の幅広さを事実面から確認するにはこれ以上はない文献と言える。


重要部分引用(原文ママ)



滝蔵神について

初瀬の地で最も名高いこの神が、不思議なことに『延喜式神名帳』に記載されていない。

この点、岡田杲師氏も大いに疑問をもたれたが決め手がない

滝蔵神が『神名帳』から漏れた事情は歴史の謎として残さざるを得ないが、この神をして、古来神徳の高きを証すには、長谷寺自体が地主神として仰いだ事実、後に神位が画期的に昇叙される事実を以て充分といえる。

長谷寺の本尊を小泊瀬山に建てるべきと述べた神について

観音像を安置すべき盤石を示した神は、初瀬の地の何神であるのか、それとも他から影向あった神であるのかということであるが、この点に就いて明確に記しているものはなく、断定できない。

初瀬の元来の神の性格について

初瀬に坐す最も代表的な神は、滝蔵神と山口神である。(中略)両者共通の性格をもち、水神・雷神としての性格も兼ね備えたであろう。(中略)この地が、古来天神(水神・雷神)の鎮ります霊地なる所以でもあろう。

長谷寺が興福寺下に属した影響について

東大寺末であった長谷寺が、正暦元年(九九〇)、興福寺に奪取され興福寺末長谷寺の出現をみるという事件がある。興福寺では、長谷寺をも含めて大和の一円支配をめざしたので、その支配を論理づけるためにも春日大明神の威光を借りる必要があった。(中略)しかもこの頃(或いはもっと早く)春日大明神は伊勢天照大神に結合されていた。(中略)当時盛んになりつつあった伊勢信仰に刺激され、伊勢・八幡・春日の三社思想(所謂後に三社託宣といわれるもの)を提唱、更に春日の鎮守化をはかった興福寺は、神仏習合を説き、春日五神の本地仏説を主張するに至った。興福寺の、かくの如き春日大明神の神威高揚による大和一円支配の論理は、末寺たる長谷寺にも持ちこまれた。初瀬の地は古来神々の鎮ります霊地であり、限りなき霊験をさずける長谷観音の霊場でもある。それだけにここに持ちこまれた先述の論理は、あらゆる信仰的権威を結合させ、大きく発展をみせることになった。

長谷寺は、古来この土地に坐す天神及び影向する天神を崇敬し、それと結ぶことによって基礎を確立したが、平安末期頃には、この霊地としての基盤に立脚しながら、積極的に著名なる神々――天照大神・春日大明神・八幡大菩薩を引き入れることに成功した。山内は、いつのまにか置きかえられた山口社の手力雄神が俄かに色めき立ち、“三神の里”“三玉の石”等の新しい霊所もできた――その中で、古来初瀬に坐す神々の中心であり、地主神と仰がれてきた宅綺羅神の存在が、いささか表面的にではあっても、薄れてきたことは否めない

初瀬の地主神が入れ替わった理由について

興福寺の支配論理を軸とした長谷寺は、先にも述べたあらゆる条件を活用し、天照大神・春日大明神・八幡大菩薩と、次々に著名神をもちこんだのに続いて、ここに漸くもう一つ、貴賤上下に至る根強い信仰を集めてきた菅天神を勧請し、無用と化したと迄はいえないにしても、存在の薄れてきた滝蔵神を地主神の座からおろし、新しい地主神として菅天神を祭るに至ったと解すべきであろう

0 件のコメント:

コメントを投稿

記事にコメントができます。または、本サイトのお問い合わせフォームをご利用ください。