2016年3月19日土曜日

藤本浩一「長谷寺と天神山」(『磐座紀行』向陽書房、1982年)

解題

全国の磐座愛好者のバイブルと言って良いだろう。『磐座紀行』ほど、日本国内各地の磐座を収録した事例集はかつて存在しなかった。
 藤本浩一は詩人であったが、表舞台から外れた周縁の民俗に目を向け、実地を訪ね歩く研究者でもあった。『磐座紀行』刊行の年に藤本は逝去しているが、この本の刊行にこぎつけるには彼の弟子の尽力があったと聞く。藤本が残した膨大な資料と考察が活字化され、後世にしっかりと伝わったのはまさに幸運だった。

 単に事例数の多さに目を見張るだけではなく、今では所在不明になったり、今の様子とは変わってしまったりするような、当時の姿を収めた貴重な記録集としても読むことができる。
 皮肉なことに、与喜山の磐座がこのパターンに属する。

 「長谷寺と天神山」と題された一項(55-57頁)がある(念のため、天神山は与喜山の別称である)。
 藤本は、初瀬の郷土史家である厳樫俊夫の道案内により与喜山中に足を踏み入れ、4か所の磐座を紹介している。同書の巻末に収められた「全国磐座一覧表」によると下記の通りである。


「全国磐座一覧表」より

 各磐座の詳細について、原文のまま引用しよう。

山腹に与喜山天神が祀られている。春日造りの本殿が高い石段の上に鎮座し、石段下の左方には磐座と見える岩が三体あるが、たまたま岩群の一ヵ所に本殿が作られたのであろう。

 与喜天満神社の社殿向かって左方に集まる、鵝形石・沓形石・掌石の三玉石を指すと考えて間違いない。
 山の辺の社にある岩群ということで、これが表中の「一の磐座」に相当すると見て良いだろう。
 次に、

拝殿の横から山路に入り、等高線を百メートルくらい歩いたところに登山口がある。(中略)落葉の多い山道を二十分くらい登って行くと、一方を谷に接して祀られている岩群がある。石灯籠の奥に三平方メートル余りの石の玉垣をめぐらし、その中に三角形の笠石、その下に方形の石、その下に台石とみられるもの、合わせて三個の石が重なっている。五輪塔の下三輪とも見えるが、ここは現在、神とも仏ともいわれず、谷の方に三体の岩があるので、磐座のあとに誰かが人為的に組み合わせて祀りはじめたものと思われる。

 山の中腹にあり「重岩」ということから、表中の「二の磐座」がこれだろう。
 藤本が記した道順通りに進んだ地点に、確かに下の「重岩」が現存する。

「重岩」(二の磐座)

 繰り返すが、当日の道案内役は初瀬の生き字引・厳樫俊夫である。厳樫は『桜井の古文化財その二 磐座』(1976年)著者の松本俊吉を案内した時、「夫婦石(みょうといし)」と呼ばれる場所を与喜山南側中腹にて紹介している。
 丸い巨石が上下に重なり合うのが夫婦石だという。この「重岩」と似ているようで、計測された寸法や形状と似ていないところがある(決して上下とも丸いとは言えない)。
 そして藤本は、この「重岩」を「現在、神とも仏ともいわれず」と書き残している。夫婦石とは明記していないし、夫婦神という説も匂わせていない。ということは、この「重岩」とは別に夫婦石と呼ばれる岩石があるということになる。しかし、『磐座紀行』の中で夫婦石の名称は一度も出てこない。同じ厳樫俊夫に案内されたというのにである。
  このように、すでに「二の磐座」から不明瞭な点が登場しだすが、ここからさらに記述は謎のベールに包まれていく。
 次にこのような記述が登場する。

長谷寺を一望できるところがある。展望所のようなところを少し登ると道は平らになっている。その道を十五分くらい歩くと、右の山土の間に点々と大岩があり、左は切り立つ谷である。そして山崩れのために道は断たれ、十メートルくらい下に細い道が見えている。その道をさらに十分くらい行くと、右の山側に大きな岩群がある。中央に一対の石の狛犬が立っていて、正面はやや低いけれど形の整った岩、向かって右の立岩が最も高くて高さ五メートル、全部で十余りの磐が集まった形のところを祀っている。この高い険しい山の中へ運び上げられた狛犬を見ても、信仰の深さが想像できる。

  この場所が「三の磐座」に相当すると見られるが、9回の踏査を経て2016年現在も見つけられていない。
 『磐座紀行』に載せられた写真を掲げる。

『磐座紀行』に載せられた2枚の写真
(上が「三の磐座」、下が「四の磐座」に相当)

 上写真が上述の場所にあるといわれる岩群である。
 藤本の記述から再現すると、概ね下地図のあたりにあるのではないかと推測しているが、綿密に観察しているつもりでも今のところそれらしき岩群が現地で発見できていない。
 10m下の山道が、現在はどれのことか埋もれてしまっているのが、この岩群に到達できない原因の1つである。 しかし、これほどの岩群であれば目立ちそうなものだが、狛犬と共に崩落し消失しているとも思えないのだが・・・

藤本浩一の記述を元に推測する各地点と踏査結果の反映

 このように上写真の「三の磐座」は現在も所在不明だが、下写真の「四の磐座」については現地確認できている。藤本の記述によると次の通りである。

この磐座(筆者注:三の磐座のこと)から直線距離で二百メートルくらいの所に、もう一ヵ所祀られていた磐座がある。昭和になって立てられたといわれる鳥居には、かすかに本伊勢と彫ってあるのが見える。その奥の岩群の中央に、高さは一メートル、横二メートルくらいの上が平らで正面は少し割れ目の目立つ岩がある。その奥正面には、木が生えていてわかり難いが推測十メートルくらいの岩が立っている。前に狛犬があるのも初めの磐座と同じであるが、初めの磐座は横に広がっていて、後の磐座は横が狭くて奥深く続いている感がある。下から見て一番高い岩は、横に廻って頂上に登れるようになっている。昔からその岩を「のぞき」といっている。ここからは長谷寺は見えず、初瀬川の上流の谷を見ることになる。

 記述内容から、寛永15年(1638年)の『長谷寺境内図』に与喜山中「北ののぞき」と記された地点が描かれており、これと位置的にも名称的にも符合する。また、現地で撮影した写真と『磐座紀行』に載せられた写真とも符合している。

北ののぞき。『磐座紀行』収録の下写真と見比べてほしい。

 藤本が意図的に書かなかったのか、(見落としていたとは思えないが)見落としていたものが、この「北ののぞき」には残されており、それは杉髙講が残した「元伊勢完成由来」の由来と、「岩群の中央に、高さは一メートル、横二メートルくらいの上が平らで正面は少し割れ目の目立つ岩」に刻まれた刻字である(それぞれの詳細は別項にて改めて触れる)
 また藤本は、鳥居に刻まれた「本伊勢」の字もかすかに彫ってあると記しているが、下の写真の通り、実際はかなり明瞭に今も残っている。この点、藤本の記述の正確性に若干の恣意性と疑問がある。


「本伊勢」の刻字がなされた石鳥居

 それでも、『磐座紀行』に天神山の磐座として載せられた2枚の写真のうち、上写真は今も場所が特定できないという点で極めて貴重である。
 上写真と下写真は一見同じ場所のように見えるが、よく見ると狛犬の位置が全然違っていて、まったく別の場所であることがわかる。
 上写真の場所はどこにあるのか。これが現在の与喜山調査の1つの大課題である。
 『磐座紀行』には地図は掲載されていないので、藤本の登山ルートの記述から、これからもそれらしきエリアをしらみつぶしに歩いていくしかない。上写真と下写真の2つの磐座は、直線距離で200mしか離れていないと記しているように、藤本の自宅には、おそらく所在地を印した地図やメモ、写真などの資料がたくさん残されていた(いる)のだろう。

 このような経緯を見ると、インターネット世代の私自身は出し惜しみせず(紙幅を考える必要もないので、出し惜しみする必要がない)、自分の得た情報は包み隠さず世に公開しておくことで、歴史の損失を防ぎたいと思いを新たにするのである。

2 件のコメント:

  1. MURYさん、こんばんは。
    「四の磐座」の白黒写真の樹木の中に、「北ののぞき」のカラー写真にある巨石が隠れていたんでしょうか。望遠レンズで撮っていたのかなぁ?

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  2. 植生が今と少し違うようですね。
    撮影時期によって繁茂度合も違うかも。私はこの山には冬~春しか登りません。夏だとあんな感じかもしれません。

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