2016年3月16日水曜日

松本俊吉「長谷山口神社」「堝倉神社」(式内社研究会編『式内社調査報告 第三巻 京畿内3』皇學館大學出版部、1982年)

解題

『桜井の古文化財 その二 磐座』(桜井市教育委員会、1976年) の著者で知られる桜井史談会の松本俊吉による長谷山口神社・堝倉神社の調査報告である。
 微に入り細を穿つ情報収集がなされている。両社の概要は本書に当たれば概ね問題ないだろう。重要と思われる部分を以下に引用する。


■長谷山口神社(はせのやまくちのじんじゃ)

金剛寺本は「長谷山口坐(ハセノヤマクチノ)神社」、九條家本は、「長谷(ハセノ)山口坐神社」(中略)などとしるす。しかし、長谷山口社とよばないで、タヂカラヲ(手力雄)さんと俗稱する。

大和の國にある六處の山口社の一つ、長谷山口社を中世いらい手力雄社を稱してきたことについて、もともと今の山口社は手力雄社で、最初の山口社は今の與喜天満宮であらうといふ説がある。これは本居宣長が最初にとなへ、『大和志料』・『磯城郡誌』もこれを説いてゐるが、立證する史料はなく、むしろ、現在位置の山口社が、平安時代には神璽を帯びた地であつたらしい痕跡が見出される。

関係氏族として長谷山直があげられる。新撰姓氏録大和國神別(佐伯有清著『新撰姓氏録、本文編』による)に「長谷山直 石上朝臣同祖。神饒速日命六世孫伊香我色男命之後也」とあるが、山口社にどのやうに結びつくかわからない。

長谷寺をへだてた北方一一〇メートルの縣道南側に俗稱―伏シオガミといふ飛地があつて、「山口社」の横額にかかげた神門(しめ切り)と土塀がある。

本殿の上方、南東四〇メートルの尾根上、アカマツの巨樹の下から昭和五十三年末に磐座が発見された。傳承では、現社殿の舊地といふ。地表にあらはれたのは大小四個の花崗岩で、最大は長径一・〇八メートル、短径一・一ゼロメートル、高さ五〇センチ以上のものである。


■堝倉神社(なへくらのじんじゃ)

金剛寺本は「堝倉(ナヘクラノ)神社」、九條家本は、「堝(ナヘ)倉神社」と訓む。渡會延經の『神名帳考證』は「堝倉(ナベクラノ)神社」、伴信友も同考證で「堝倉(ナベクラノ)神社」としてゐる。『大和名所圖會』は巻四の「玉葛舊跡」の項で、「(前略)又玉かつらの庵の南を鍋倉垣内(なべくらかいと)といふ。ここに鍋倉神社あり。」と、金偏の鍋を用ひてゐるが、嘉永六年(一八五三)開板の『西國三十三名所圖會』の指圖によれば「ナベ倉社」と堝の字を片仮名にしてゐる。

初瀬川上の寺垣内にある素戔嗚神社に合祀される。合祀は『神社明細帳』によれば、明治四十一年九月三日付で許され、十月二十五日に遷座祭が營まれた。合祀前の位置は與喜神社(大字初瀬字與喜山)の社殿に向かつて左下後方にあつた。(中略)『大和志』・『神祇志料』・『特選神名牒』・『郷村社取調帳』のいづれも字與喜下堝倉山(正しくは與喜社下鍋倉山)にありとしてゐる。 舊社地は現在の與喜天満神社表参道中ほど、社殿に向かつて左側にあつた廃與喜寺下から傳玉葛庵跡に通じた小径の中ほど南側にあつたといふ。

鍋倉神社が明治四十一年にいたり、北方に鎮座の川上區の氏神―素戔嗚神社へ合祀したといふのが常識になつてゐるが、江戸時代末期嘉永六年の『西國三十三名所圖會』 では、「堝倉神社 古河野邊の東岸山の反腹にあり、今牛頭天皇といふ(中略)」と、現在の素戔嗚神社(俗に牛頭天王)が鍋倉神社なつてゐる。したがつて『西國三十三名所圖會』の記載を信ずれば、明治のはじめに至つて牛頭天王を主神にして素戔嗚神社と變へ、大倉比賣をまつる鍋倉神社を鶯塚のあたりへ移したのではあるまいか。かやうな事態が生じた理由は、さきに引いた『大和名所圖會』が、玉かつらの庵の南に鍋倉垣内があり、そこに鍋倉神社ありとあることを、明治初年の状態であてはめたことによる。

しかしながら、ほんらいの堝倉神社は與喜山下の初瀬川畔ではなく、與喜山上に鎮座した。南都興福寺門跡・大乗院尋尊識語の応仁元年(一四六七)書寫『長谷寺密奏記』=仁平二年(一一五二)の縁起注進=にかかげる「當寺神鎮座事」の中に、「鍋倉神 東山ノ頂ニ坐シ御ス」とあつて、山頂から西麓へと鎮座地が變遷したことがわかる。伴信友の『神名帳考證』は堝倉神社の項で、「信友云長谷ノ與喜ノ天神ノ社ノ山ノ上ニアリ今モ堝倉明神ト云フ」は、山頂から西麓にくだる直前の姿を記したものか。

與喜山の山頂に鎮座した神で、磐座がご神體であつたと思はれる。

明和九年(一七七二)三月、ここに詣でた本居宣長は『菅笠日記』に、「(前略)牛頭天王の社、そのかたはらに、苔の下水といふあり(後略)」と描寫してゐるが、鍋倉社は見當らない。

 それぞれの引用部分について解説を加えよう。
 長谷山口神社については、現社地がすでに平安時代には手力雄社として当初と異なる祭神が信仰されていたことから、本居宣長などが元来は与喜天満神社こそが長谷山口神社と考えていた説を紹介している。
 この説を肯定する根拠は確かに今も見当たらない。一方で、松本俊吉が現社地が元より「神璽を帯びた地」として証拠に挙げるのが、昭和53年末に発見されたという「磐座」である。
 巨樹の下から、4個の花崗岩が発見されたとのことだが、私もこれと思しき岩石群を同地にて確認している。半ば地中に埋もれつつあったが、確かに岩石はある。ただ、約1m四方ということもあり、そこまで目を見張るほどの岩石ではない。また、なぜこれが「磐座」として認定されたのか、その根拠が語られていないため、肯くことができない。旧社地という伝承があるそうだが、社殿の基礎に使われた礎石など石材の一部かもしれず、それを「磐座」とは呼べない。

 さて、もう1つの堝倉神社であるが、本書を読むと堝倉神社の複雑怪奇さに驚かざるをえない。
 時系列にまとめ直すと、堝倉神社は『延喜式神名帳』に記載される延喜式内社であり、その所在地について語る最古の文献は鎌倉時代の『長谷寺密奏記』である。これによると「東山の頂」ということで、東山が与喜山を指すことから、与喜山頂に堝倉神社が鎮座していた根拠となっている。
 その後、本居宣長の『菅笠日記』で「牛頭天皇の社」の名前が出てくるが、堝倉神社の名は出てこない。
 この牛頭天王社は現・素戔雄神社のことを指すというのが通説だが、松本俊吉が指摘するのは、嘉永6年(1853年)『西國三十三名所圖會』の図会と記述である。ここの図会に描かれている「ナベ倉社」の位置は、現・素戔雄神社の位置であり、しかも「堝倉神社 古河野邊の東岸山の反腹にあり、今牛頭天皇といふ」と、牛頭天王社が堝倉神社の後世的名称であると説明している。

 これは、あまり指摘されていない話であるので注目に値する。

 というのも、通説では、堝倉神社はかつて与喜山頂上にあったのが、いつからか鍋倉垣内(与喜天満神社向かって南西のエリア)に遷座し、それが明治時代の神社合祀によって素戔雄神社に合祀されたという流れになっているからだ。
 しかし、『西國三十三名所圖會』が出た嘉永6年は、当然だが明治時代の神社合祀令が出る前の話である。合祀される以前に、すでに堝倉神社は牛頭天王社にいたことになる。
 だから松本説では、与喜山頂の堝倉神社が近世までには現・素戔雄神社の場所に遷座し、堝倉神社がなぜか牛頭天王社とも呼ばれるようになり、それが明治初年の頃に何らかの理由で堝倉神(大倉比売命)のみを鶯塚(伝・大倉比売命陵。詳細は岡田杲師「豊山長谷寺の地主神(鎮守)に就て(其一・其二・其三)」(『豊山学報』第四号・第五号・第六号、1958年・1959年・1960年)参照)のある鍋倉垣内に移してまつり、あわただしくも神社合祀令のタイミングで、再び堝倉神は素戔雄神社境内に合祀され、後出神である素戔雄命が主神、堝倉神が客神のような主客転倒の関係で現在に至ると主張している。

 しかし、松本説には弱点がある。
 寛永15年(1638年)『長谷寺境内図』を見ると、「なべくら明神」の祠が牛頭天皇の南に描かれている。江戸前期の時点で、堝倉神社は山頂から山麓に遷座していることが分かり、かつ、牛頭天王の境内にはおらず、鍋倉垣内の位置に鎮座していることが分かる。
 また、宝暦10年(1760年)『豊山玉石集』においても、「鍋倉明神社」が「牛頭天皇社」と別項で扱われ、牛頭天王社とは別々の場所でまつられていることが読み取れる。

 これらのことから、松本が推す『西國三十三名所圖會』以前に牛頭天王社と堝倉神社が別個にまつられていたことは明白であり、松本の指摘は当たらない。
  『西國三十三名所圖會』以外の文献には矛盾がなく、当該書のみ矛盾した記述を乗せることから、当該書の誤記と見るのが妥当である。

 ところで、志賀剛「大和国城上郡二三 鍋倉神社」(『式内社の研究 第2巻 宮中・京中・大和編』雄山閣、1977年)が説明する鍋倉山の位置は、松本俊吉が記述する鍋倉山とは相いれない。
 松本俊吉は鍋倉垣内周辺一帯の微高地状の高まりを鍋倉山に当てており、鶯塚の存在を記録した岡田杲師もこの地を鍋倉山と見ているようである。

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