インタビュー掲載(2024.2.7)

2016年3月21日月曜日

源為憲「長谷の菩薩戒」(『三宝絵』984年)

源為憲著・出雲路修校注『東洋文庫513 三宝絵 平安時代仏教説話集』(平凡社、1990年)を参照した。

解題

永観2年(984年)、文士として名高かった源為憲が冷泉天皇皇女の尊子内親王の仏教教育のために著したのが『三宝絵』(三宝絵詞とも。全三巻)である。その題名が表すように、親王のために絵を添えて解説されたテキストだったが、今は絵が散逸し文章のみが伝わる。
 源為憲の創作内容というより、それ以前から存在していた古今東西の仏教に関わる説話・伝承・物語のうち、子女教育にふさわしいものを精選した書と言って良い。

 下巻の五月 僧宝の二〇に「長谷の菩薩戒」と題された物語が載せられている。
 ここに『長谷寺縁起文』に書かれた十一面観音霊木伝承が収められている。
 『長谷寺縁起文』は鎌倉時代初期(13世紀)制作と推測されるのに対し、『三宝絵』は永観2年(984年)と、200年以上も『三宝絵』が先行する。すなわち、十一面観音霊木伝承のより原型と言える内容は『三宝絵』にあるのだ。
 『長谷寺縁起文』との差異に注目しながら、次に重要箇所を引用したい。


昔辛酉歳に大水いでて大なる木流れ出でたり。近江国高嶋郡のみをが崎によれり。さとの人そのはしを切りとれり。すなはちその家やけぬ。またその家よりはじめて村里にしぬる者をほかり。家々祟りをうらなはするに、「この木のなす所なり」といへり。これによりてありとしある人近付きよらず。此の時に大和国の葛城の下郡にすむいづもの大みつといふ人此の里に来れり。此の木をききて心の中に願ひをおこす、「願はくは此の木をもちて十一面観音につくりたてまつらむ」と。しかれどももちゆくべきたよりなくして、空しくもとの里に帰りぬ。こののち大みつがためにしばしばしめすことあるによりて、糧をまうけ人を伴ひてまた彼の木のもとにいたりぬ。木おほきに人ともしくして、いたづらに見てかへりなむとす。心みに綱をつけて引き動すに、かろくひかれてよくゆく。道にあふ人みなあやしびて、車をとどめ馬よりをりて、力をくはへて共にひく。つひに大和国葛城の下郡当麻の里に至りぬ。物なくして久しくをきて、大みつ已に死ぬ。此の木いたづらになりて八十年をへぬ。その里に病おこりて、からだこどりてやみいたむ。「此の木のするなり」といひて、郡のつかさ・里のをさら、大みつが子みや丸をめして勘ふれども、みや丸ひとりしてこの木をさけがたし。郡里の人ともにして戊辰歳にしきの上の長谷河の中に引きすてつ。そこにして三十年をへぬ。ここに沙弥徳道といふ者あり。此の事をききて思はく、「此の木かならずしるしあらむ。十一面観音につくりたてまつらむ」と思ひて、養老四年に今の長谷寺のみねにうつしつ。徳道力無くしてとくつくりがたし。かなしびなげきて七八年が間此の木に向ひて、「礼拝威力、自然造仏」といひて額をつく。飯高の天皇はからざるに恩をたれ、房前の大臣自づから力をくはふ。神亀四年につくり終へたてまつれり。たかさ二丈六尺なり。徳道がゆめに、神ありて北のみねをさしていはく、「かしこの土のしたに大なるいはほあり。ほりあわはして此の観音を立てたてまつれ」といふとみる。さめて後に掘れば、有り。弘さ長さひとしく八尺なり。面平なる事たな心のごとし。それに立てたてまつれり。徳道・道明等が天平五年にしるせる『観音の縁起并に雑記』等にみへたり。そののち利益あまねく、霊験もろこしにさへきこへたり。

 上記内容は、『長谷寺縁起文』の霊木伝承と大きな話の流れは共通している。が、細部に明確な違いがある。それを1つ1つ見ていこう。

■霊木の出自

『長谷寺縁起文』では、 近江国高島郡三尾前にあった霊木が、洪水により志賀郡大津浦に流れ着いたとその出自を説明している。
 一方、『三宝絵』は「大水いでて大なる木流れ出でたり。近江国高嶋郡のみをが崎によれり」と記していることから、流れ寄ったのが「みをが崎(三尾前)」で、元々どこにあった大木なのかは触れられていない。

■霊木の漂着歴

『長谷寺縁起文』では、近江国高島郡三尾前の霊木が、志賀郡大津浦に流れ着き、小井門子という女性の力により大和国高市郡八木里までたどり着き、今度は出雲臣大水沙彌法勢という人物の手により葛下郡当麻郷まで移動し、その後、祟りを恐れた当麻郷民により城上郡長谷郷北神河浦に打ち捨てられたという変遷をたどっている。
  一方、『三宝絵』では、出自不明の大木が近江国高嶋郡みをが崎へ流れ着き、いづもの大みつという人物の手により大和国葛城下郡当麻の里まで運ばれ、その後、彼の子であるみや丸がしきの上の長谷河に打ち捨てたという話構成になっている。
 違いが分かるだろうか。『長谷寺縁起文』に先行し、より原伝承に近いと言える『三宝絵』の時代においては、 まず小井門子-大和国高市郡八木里という要素は一切存在しておらず、いづもの大みつ(出雲臣大水)は共通して登場するが、その子みや丸は『三宝絵』の頃にしか登場していない。
 両者とも霊木が行く先々で祟りをなしていることを記しているが、後行する『長谷寺縁起文』のほうが八木里というもう1カ所を挿入し、しかもこの女も祟りで死なせている。より一層、霊木の祟りを強調した作りに変化していると言える。

■東峯の有無

『長谷寺縁起文』では、徳道が当初15年間霊木に仏を顕すことができず、ある日、東峯に霊木を引き上げるべしという霊夢を見たことでその通り東峯に霊木および庵を設けたところ、藤原房前がやって来て第六天魔王・天照大神・春日大明神の話を挿入しながら加勢に入り、その結果、長谷寺本尊である十一面観音が造立となったと語られている。
 一方の『三宝絵』では、東峯がまったく登場しない。まず徳道は「今の長谷寺のみね」に霊木を移す。しかしそこで7~8年造仏できない時期を過ごした。その後、藤原房前の助力によって(第六天魔王・天照大神・春日大明神の話はないまま)十一面観音の造立に成功する。
 『三宝絵』を原伝承とみると、東峯(与喜山)と第六天魔王説話は後世に挿入された情報であることがわかる。藤原氏の影響はどちらの物語にも感じ取れるが、藤原氏祖神・春日大明神まで持ち出す分、後世の『長谷寺縁起文』のほうがより色濃い。
 与喜山が原伝承にないことをどのように解釈するとよいだろうか。1つの解釈は、10世紀時点で、与喜山は長谷寺にとって本尊造立縁起に登場させるほど重要視されていなかったという理解のしかたである。
 ただ、与喜山が当時ただの存在感のない山だったとは言えない。すでに与喜山が信仰の山だったことは、『三宝絵』に先がけて延長5年(927年)に完成した『延喜式神名帳』に、与喜山中鎮座とされる堝倉神社・長谷山口坐神社が記載されていることからも揺るぎない。
 いわば長谷寺が座す小泊瀬山は仏の山であり、堝倉神社・長谷山口坐神社が座す与喜山は神の山である。10世紀時点で、長谷寺は自らの伝承体系の中に、何らかの理由で与喜山を組み込んでいなかったのである。組み込む必要がなかったのか、組み込めなかったのかなどは不明である。
 しかしその後、鎌倉時代の『長谷寺縁起文』では、与喜山を「そこに引き上げないと長谷寺本尊は誕生しなかった」というキーフレーズに仕立てている。そこからは、与喜山を一定の力を持った存在として評価し、長谷寺伝承体系の一役割を担わせようとしたことが読み取れる。与喜山の神々が長谷寺の仏世界の中に組み込まれたことと同義とも換言できる。
 この二文献から、長谷寺と与喜山の力関係を推測することができる。そしてこの二文献に瀧蔵権現が一切登場していないのも、『三宝絵』における与喜山と同じ理由によるものなのだろうか。そのような可能性も残しておきたい。

■十一面観音を立てる金剛宝磐石の登場のしかた

『長谷寺縁起文』では、北峯に金剛宝磐石が埋まっており、仏縁によりその姿を現すだろうという霊夢があり、同石が雷雨と共に自らその姿を現したということになっている。本尊を立てるにふさわしい穴も自然に開いていたという。
 『三宝絵』では少し仔細が異なり、霊夢でその大石の存在を教えられるのは一緒だが、徳道が掘り起こすようにとの神託であり、徳道はその通り実際に掘り起こして大石を出現させている。また、石は平らであり仏像を立てるにふさわしい形であるが、足形の窪みや穴の存在までは語られていない。
 ここから分かるのは、原伝承のほうがよりドラマ性、自然造仏性が低いこと。基本的に『長谷寺縁起文』のほうが執拗に「長谷寺でなければいけないディテール」というものが凝っている。
 両文献に共通するのは、徳道が霊夢で神から指示を受けるという部分であるが、この神が何者であるかについてははっきりしない。『長谷寺縁起文』では一金神と記してあるが、先行する『三宝絵』には前掲引用部の通り、ただ「神ありて」とのみ記されている。
 ちなみに、「北のみね(北峯)」は十一面堂が建つ後長谷寺の峰を指す。「今の長谷寺のみね」もおそらくだが同じ後長谷寺の峰を指すと思われる。

 いずれにしても『三宝絵』は長谷寺霊木伝承としては最古の内容なので、これが原伝承に最も近いものとして尊重しなければいけない。 

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