2016年3月6日日曜日

与喜山聞き取り調査(2013.10.31および2014.1.3)

聞き取り調査の目的

私が現地の方からお話を伺いたいのは次の3つである。

  1. 杉髙講に関すること。どのようなきっかけで、何のために、どうやって、与喜山の「北ののぞき」に祭祀設備を整備したのか。地元の方の協力度・定着度はいかほどだったのか。なぜ今は途絶えているのか。
  2. 故・厳樫俊夫氏の足跡。できることなら、氏が遺したであろう多数の与喜山資料にお目にかかりたい。処分されていなければ、きっとそこには与喜山の旧跡に関わる膨大な情報が眠っているものと思われる。未確認の磐座の位置も特定できるはずである。
  3. 与喜山の山中の旧跡や地名に関して、文献記録に残っていない情報の収集。

これらはいずれも、このまま放置していると人々の記憶の中から忘却され、二度と復元できない歴史となりうる。
特に杉髙講は、正史の中では決して取り上げられないであろう、地方の一宗教団体の歴史である。これも立派な歴史であることに変わりはない。当時を知る話者に話を聞かなければ、永久にこの講の歴史は消失してしまうことが予想される。
だから、当時を知る話者が生きている間に、一つでも多くの情報を聞き取り、記録し、後世に保存する民俗学的方法が求められるのである。




1、厳樫侃一さんのお話(2013.10.31)

・厳樫家11代目の当主の方。奥様が初瀬で唯一、出雲人形の製造を続けている。お時間をいただき、作業場や製造工程などを親切に案内してくださった。
・出雲人形の発祥地である桜井市出雲地区では、水野さんという方が最後の職人だったがすでに亡くなり、出雲でも基本作っていない。水野さんの娘さんが注文されれば作る程度だという。
・初瀬小学校教頭であり初瀬の郷土史家としても著名であった厳樫俊夫氏とは家が違うが、7代ほど遡れば同門になるらしい。
・厳樫俊夫氏は約10年前に亡くなり、家は2~3年前まですぐそこにあったが、潰して駐車場に変わった。息子さんがいるが、息子さんは理系の方で橿原市に移ってしまった(つまり俊夫氏の研究資料の類はすでに初瀬にないということ)
・厳樫侃一さんの家には200年ほど前の文書ならあるが、300年以上前は辿れないとのこと。いずれにしても与喜山や元伊勢に関わる資料はないとのこと(ただ、厳樫俊夫氏は1961年の『郷土(桜井市文化叢書2)』の中で、元伊勢厳樫之本の由来を記す『厳樫の本』が当家にあることを紹介している。手間をかけさせたくなかったので触れなかった)
・文化年間(1804~1818年)に初瀬で洪水が起こり、その時に初瀬の門前町のほとんどの家が流された。なので今残る旧家もおよそそれ以降の築造。旅館井谷屋の近くにある五味原さん宅は流されなかったという話があるので文化年間前からあるかもとのこと。
・長谷門前は戦前まで栄えたが、戦後から現在にいたって人入りが少なくなってきているのを寂しがっておられた。
・ご本人はあまり歴史に詳しくないとおっしゃりつつも、元伊勢厳樫之本の根拠の1つである豊秋津姫社・初瀬山口神社・與喜天満神社と伊勢神宮の対照関係や、家の前の額田王の歌碑の話などをしてくださった。NHKの太陽の道の話もご存じだった。
・長谷寺境内に鎮座する三社権現の講に参加している。毎年旧正月の11日に注連縄を作って奉納する。
・長谷寺の裏山には戦前まで国旗が掲揚されていたといい、そのための道もあった。熊は出ないが猪はよく出るという。
・与喜山には小学生のころ、遠足で一度だけ登ったことがあるという。
・杉髙講の石碑写真を見ていただいたところ、石碑および杉髙講の存在はご存じなかった。講に連ねている名前の面々の中には、地元で聞きなれない名字もところどころある様子。
・ただし、杉髙講の講元として刻字されている重走由太郎(じゅうそうよしたろう)氏のことをご存じで、旅館 花水館の館主であると教えていただいた。とても歴史に詳しい方で地元の祭礼などにも明るい方だったという。ただし約25年前に亡くなっており、今は息子さんが継いでいるとのこと。


2、林食堂の方のお話(2013.10.31)

・与喜山に登ったことはない。
・重走由太郎氏および息子さんのお話をお聞きした。


3、花水館 重走さんとはお会いできず(2013.10.31)

・旅館の玄関が施錠されており中に入れず。呼び鈴がないためお電話したが不在だったため、連絡取れず。


4、区長 豊森さんご夫妻のお話(2013.10.31)

・門前町の何名かの方に杉髙講の石碑写真の刻名を見ていただいたところ、おそらく区長の豊森さんが詳しいとのことで紹介していただく。
・主に奥様からお話をうかがう。杉髙講に名を連ねる名前の数名をご存知だった。当然のことながらいずれも御存命ではなく、奥さまやご主人(70歳代)のもう1つ上の世代になるため、話題が完全に隔絶している様子。
・石碑の存在は知らなかったが、杉髙講教会主である山本コノヱ氏のことをご存じだった。氏のことをカミサン(神さん)と敬称で呼んでいた。掘り下げて聞いてみたが残念ながらあまり要領を得ず、女の神様として敬われた方であることは伝わった。とうの昔に亡くなられたとのこと。


5、與喜天満神社宮司 金子清作さんのお話(2013.10.31、2014.1.5)

2013.10.31聞き取り情報

・社務所にいらっしゃらなかったので、お電話させていただいたところ、取り込み中だったためあまりお話はうかがえず。
・山中の磐座については詳しそうな様子。「北ののぞき」だけでなく「東ののぞき」なる場所があることを話されていた。初見事項である。
・またの機会にお話をうかがいたい旨を伝えて出直すことにする。

2014.1.5聞き取り情報

 ・「南ののぞき」「東ののぞき」「北ののぞき」という言葉を使っておられた。
古文献・伝承に残っているものなのか、宮司さんが決めた一種の造語なのかは、お話の中では判断できず。少なくとも「北ののぞき」は『長谷寺境内図』に記された名称であり、南と東は「のぞき」という言葉から派生したものと思われる。

・重岩の磐座から東へ50mほど、およそ同じ標高を保ったまま進むと、ワニの背のように突き出た岩が2つある。かなり大きいとのこと。特にまつっていた痕跡はないが磐座の可能性があるとのこと。ここが「南ののぞき」ではないかとおっしゃられる。

・年に1回ぐらいしか登らなくなった。シメジなどのキノコを採るときぐらい。登るときは、神社の裏から登れる道があるらしく、そこから重岩の磐座に行くのは比較的簡単。


・重岩の磐座に灯籠や玉垣を整備したのは、三重県名張市から来た女の人を教祖にした新興宗教。今は活動していない。
杉髙講を指すと思われる。名張市出身という出自が確定した。確かに「北ののぞき」の石鳥居の奉献者は名張市の会社である。地元民ではない女性がこの地に来て、ある程度地元の信者を得て与喜山中に元伊勢の整備を施したという歴史が垣間見える。しかし、なぜ名張からここに来て、与喜山中の旧跡と土地勘に熟知していたのかが分からない。

・重岩の磐座には幽霊が出るという話がある。

・天満神社→重岩の磐座→尾根へ登り切ったところを「箱庭」と呼んでいる。長谷寺を箱庭のように眺められるから。しかし今は木々が邪魔して見れない。

・二股分岐から左へ行き、北の谷へ向かう道はとても危険。与喜山は迷いの山であり、方向感覚がわからなくなる。思っていたのと全然違う方向へ向かうことが多い。迷った時は山頂に向かったほうがよい。山頂も3つの峰があるので間違えやすい。

・狛犬がまつられた場所があるのは知っているが、先述の通り危険な場所なので状況はあまり知らない。北の谷にある磐座は、おそらく下照姫(鍋倉神社祭神)が最初に降臨した磐座で、だんだん麓のほうの磐座に下りてきたのかも。
ただしあくまでも可能性と念を押されていた。いろんな人がいろんな説を出すので、宮司さんは特定の立場には寄らないご様子。



聞き取りから得られた知見

■杉髙講について

杉髙講が与喜山に残した祭祀設備。その寄進者に「但馬」「黒崎」「豊田」など、初瀬の地名ではない場所の字が刻まれていることを散見しており、本当に地元発の講なのかということに対しては批判的に見ていた。

厳樫さん、豊森さん、金子さんのお話を綜合すると、杉髙講は三重県名張市からやってきた講でありながら、初瀬の中で支持者(信者)を増やし、教会主である山本コノヱ氏も地元の人から「カミサン」として呼ばれてきた人物であることがわかった。杉髙講はある程度初瀬に根ざした講であることがほぼ確かとなった。

ただ、杉髙講が与喜山中の旧跡に熟知していた背景がまだ見えてこない。山本コノヱ氏の知識によるものなのか、信者となった地元の識者の導きによるものなのか、それ以外の何かか。
講元として名前が刻まれている故・重走由太郎氏の息子さんとはまだ連絡が取れておらず、講元であることから、息子さんあるいは所蔵資料から新たな情報が得られる可能性は残されている。ぜひ機会を見てお会いしたいと思っている。

■厳樫俊夫氏について

初瀬の地から足跡をたどることがほぼ不可能ということがわかったことが収穫。
初瀬の地に何らかの資料が残されていればとの思いだったが、こちらの方向から与喜山研究を進めるのはあきらめることとする。

後悔しても取り返しはつかないが、私が動くのも10年遅かった感がある。せめて第1次調査の2002年時点で旧宅にお邪魔できていれば。
杉髙講についても同じことが言えるが、与喜山中に石碑を立てた昭和37年からは、時間がたちすぎている。50年前、すでに年配だった方だけが講に参加しているようだからだ(豊森さんのお話より)

俊夫氏の息子さんが橿原市にいるというので、もしお会いできることがあれば、ぜひ氏が遺された資料の処遇についてお尋ねしたいものである。寝かしておくにはあまりにも損失が大きい。

■のぞきについて

與喜天満神社宮司の金子さんが言う「南ののぞき」「東ののぞき」が、文献的に辿れる名称なのか、それとも口碑として辿れるのかは一大関心事である。
『長谷寺密奏記』や『長谷寺境内図』に記された山中の旧跡を補強する可能性があるからである。

文献に記された地名情報はごく僅かである。
山中地名の情報収集は、その言葉を使ってきた地元の方から聞き取りすることが一番なので、今後の聞き取りの際にも注視しておくべきポイントとしておきたい。

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