2016年4月24日日曜日

菅原道真仮託『長谷寺密奏記』(12~13世紀)

解題

『長谷寺密奏記』(以下、密奏記)は、『長谷寺縁起文』(以下、縁起文)と同様に、菅原道真が寛平8年(896年)2月10日に奏上したという署名があるが、『縁起文』と同じく、道真の役職名に誤りが見られることなどから、実際は後世に長谷寺に関わる何者かが道真に仮託して仕上げた文献とみなすのが定説である。
 その成立年代は研究者間でブレがあり、早くて12世紀中、もう1つの有力な説として13世紀後半とみなす考えがある。


 成立年代こそ説の対立はあるが、共通理解として定まっているのは、『密奏記』は『縁起文』とセット関係・相互補完関係で作られた文献ということである。
 というのも、『縁起文』『密奏記』はそれぞれ長谷寺本尊の十一面観音の造仏という共通テーマについて取り上げ、ストーリーも登場人物も基本的に共通しながらも、お互いに記述の細部が重複する箇所はないという特徴がある。
 『縁起文』の記述が長谷寺縁起の表面をなぞる正統派の物語だとしたら、『密奏記』の記述は『縁起文』の記述を細部から補足説明することに終始している。
 つまり、両書を読みあうことで、1つの完成した造仏伝承が仕上がるという、特殊な読み方ができるのである。このことから、両書は同一の作者(あるいは組織)によって意図的に仕立てられた縁起とみることができる。また、『縁起文』ありきで『密奏記』が記されていることから、両書はほぼ同時期の制作あるいは『密奏記』が後行する可能性がある。

 『縁起文』が仏教的色彩にあふれた記述をしているのに対し、『密奏記』は天照大神を始めとする神々にスポットを当てた記述が多く、それを長谷寺の信仰体系に無理に組み込もうとする意図が窺えることから、『密奏記』は『縁起文』の神祇編テキストとも評価されることがある。
 注目したいのは、単に日本神話の神々を本地垂迹説の論理で長谷寺の仏世界に組み込んでいるわけではないという点である。『密奏記』を読む限り、初瀬の在地の神々を後付的に長谷寺論理の中に組み込んだ箇所が見受けられる。
 すなわち、『密奏記』を読むことで、長谷寺の信仰とは本来別体系の初瀬の神々の世界が垣間見えるのである。

 それが顕著なのが、『密奏記』の裏側に後世付け加えられた通称『裏付』と呼ばれている部分である。ここには二十一柱もの神々が、初瀬の地のどの場所に鎮座しているかを具体的に記述している。その中には天照大神などビッグネームから、雨神や宝語神といった、本文献でしかお目にかかれないような、いわゆる謎の神々まで記されている。
 これらの神々が、初瀬の地の聖性を高めるために意図的に創られた神々であった可能性もあるが、私は一部の記述のされかたから、すべてがゼロから創作された「機械的」な神々というわけではないと考えている。

 『密奏記』は全国各地に数々の写本が伝わっており、最古のもので金沢文庫本(正和4年=1315年)があり、後世的な注釈が一切付け加えられていないこともあり、これがおそらくもっとも原本に忠実と目されている。
 もう1つ代表的な写本が、内閣文庫本(応仁元年=1467年)であり、こちらは金沢文庫本にはなかった注釈がいくつか付け足されている。
 この両者の比較から見えてくるものがある。詳細については、また項を改めて考察するつもりである。

 『密奏記』は学術雑誌の論文で翻刻が一部なされているものがあるが、一般公刊されているものではなく、その内容が巷間に公開されているとは言い難い。
 本項では、『密奏記』内閣文庫本に基づき、その現代語訳(意訳)をweb上に紹介することで、本書の内容および特異性を広く周知することに貢献したいと考えている。

現代語訳(意訳) 

<表面> 

 長谷寺司等が謹んで申し上げます。
 勅命により、密かに旧記簡要を抽出してまとめるには、次のような話です。

 徳道聖人が本願を果たすためこの山(豊山)に入り、西岳にいて遥かに山内を見廻ったところ、文武天皇即位9年(705年)乙巳5月8日、金剛法座が顕現し、この峯の地中に光を放っているのを見たのでそこを尋ね行って、光の下で勤行精進していた。傍らに帽冠をした翁が一人あり、聖人にこのように言った。
 「私は手力雄明神である。天照大神尊が天岩戸を開き、私が尊の手を引いたことから祝事が始まった。諸神達がこの霊山に入り、この山に常住し、この山を崇めるようになった。密蔵の本がこの光と地にあり、衆生を仏道に導く。五人の神楽雄、八人の舞童姫を国久しく帝を尊び、天の下にこの地を開拓し、我が国の政が始まった時、この光があった。今この光がないということは異なことだ。天照大神尊は深く震えて、この山は我が本の相応の地であるから、お前が降り立ち仏縁を広げる場としなさいと私に命じたのだ。この瑞祥があって以後はこの山におり、後代に聖人がきたらこの山をともに崇め、この山を治め、邪神を退け義神を祀り、君臣を守り国土を治めようと思ったのだ。私は悉く神勅を奉じ、長くこの山に住み、この期を待っていた。そこで思ったのだが、聖人の前身は役行者ではないか。役行者がこの一代峯で修行していた時、南の頭端においてこの豊山峯に勝地を開拓し、精舎を建立したいと発願したが、行者はそれを果たせず没したと聞く。ついにその願のために、法界からその分身として聖人が来山されたのだ。」
 このように語った後、翁である手力雄明神は忽ち言葉とともに虚空へ消えた。聖人は伽藍をこの地に建てたいと発願したが、まだ本尊がなかった。ひとすらに神の本地仏を顕したいと思った。けれども天照大神尊の本地を顕すには、習うところが頗る多い。聖人はこの本地を顕すため、伊勢国五十鈴河上磯宮へ参籠した。
 百日間の参籠を終え、文武天皇即位10年(706年)丙午9月15日、神宮荒御垣門の外にて、法楽を手向け奉った時、蒼天雲なく月光殊に朗らかだった。そして御宝殿の前に日輪が一つ現われ、その中に十一面観自在菩薩の立像が影向し、光を放ち明るくなる。その像は右手に三相を表し、いわゆる四指を垂らし錫杖をとり、持念誦をする。左手にもまた三相を表し、宝珠を奉じ、瓶を握り華を持つ。その光はまた世間の日光とは異なり、あまねく社壇を照らし、草木山岳四方が影なく見える。数重の御垣も隔てなく映し通っている。日輪の中の像を遥拝したことで、聖人の心は歓喜し、その本地を知ることとなった。
 聖人は重ねて奉拝し、かの権門を見て祈念したところ、常ならざる貴女が来て微笑み、聖人に告げるには「私は、密宗の時は秘密荘厳大日如来です。顕宗の時は報身万徳蘆舎那如来です。諸人を恨み天岩戸を閉じていましたが、法道仏道を広めるために天岩戸を開きました。あなたの心は私と似ています。心はあなたと同じです。あなたが私の本地を知りたいと思うのなら、私の言葉を聞きなさい。」という。そこで、重ねて次の言葉を発せられた。
 「私の本地は秘密大日尊です。大日の日論とは観世音のことです。観音の応化は日天子です。日天の権跡を日神といいます。この世界を救う大慈心です。このことから観世音として現れるのです。」
 聖人は二人の巧匠を得て、この日輪影向の像のことを語ったところ、十一面観世音を造りかかる。その日数は三日を要した。その中日に当たり、卑夫吉躬津麿は仏師の本地を見ることになる(その詳細は縁起にある)。山より帰り家にいると、即時に天から声があり、「我々は児屋根・武雷槌両神である。我々の本地を見たということは、すなわちお前の命を召し取らないといけない。」ということで、津麿は死去した。その体はいつもよりも異常で、顔色は生きているかのようだった。七日が経ち、その死骸は自然と消えた。聖人は後日、手力雄明神の社にて、この津麿の衣装を感得し、彼がこの神だったことを知るのである。
  ここに聖人の本願が達せられ、国主である天照大神尊の本地として、鎮護国家と利益衆生のために、元正天皇の勅許により、聖武天皇の叡願で、この十一面観自在菩薩像を造り奉った。すなわち春日大明神が深く君臣の儀を持ち、聖人の願に共感したからこそ、凡人の形になって、この尊像を造ったのだろう。春日大明神の第一御殿の武雷槌命の本地は不空羂索観自在菩薩である。第三御殿の天児屋根命の本地は地蔵菩薩である。特に一の御殿と三の御殿がこの霊像を造ったということになる。

 深い話でした。その由来を尋ねたのが今回の話です。
 このように、当伽藍は我朝開闢の根元です。天下鎮護の浄場です。期限も古いことから筆を執り記録しました。口伝として残りますが、頗る奥が深いのです。神の思いをただ恐れながら、概要を右の如く申し上げます。
寛平8年(896年)2月10日
寺主法師恵義
別当伝燈大法師位智照
俗別当左大臣従三位藤原朝臣良世

執筆遣唐大使中納言従三位兼行左大弁春宮大夫式部大輔侍従菅原朝臣

<裏面>


 宇多院の御時(897~931年)、詔があり諸寺の霊験を奏上した。その中で当寺は菅丞相が自ら十一巻の旧記を撰出したが、その一首の縁起の中、神明のことは当山の深奥であり、この縁起いわく、神明尊崇の権跡の詳細は別に記して奏上されていたという。菅丞相が当寺の三綱などと併せて、別に奏上した。その秘記がこれである。重ねて、鳥羽院の御時(1123~1156年)、詔によって御前において記された裏付がこれである。深く秘すべきである。もし明らかにする者あれば神慮の恐れがある。
 当寺の神が鎮座されたことについて、寛平年中の勘奏記のほか、勅により重ねて旧記の簡要を抜き、故を記した裏付である。

 天照大神尊は日域に降り、鳳玉を司り、御幸を始め、補佐の臣として天児屋根命と太玉命の二柱の神、ならびに、天手力男の神霊、万幡豊秋津姫命神という陰陽外法を司る二神はじめ、諸神を引率して吉方を定め、勝地を択び、最初に当山へ神幸して以降当山に居した。すなわち東の山の中心に鵝形石がある。これは天照大神御影向の石である。この神石を中において、左に沓形石がある。天児屋根命御影向の石である。右に掌石がある。太玉命が坐した石である。また泊瀬豊山口の東山の尾根の前、大鳥居が東脇にあり、天手力男神が鎮座する。西の山の尾根上に大鳥居が西脇にあり、万幡豊秋津姫命が鎮座する。西の山の中心に、日域大小神達が影向した所がある。これらの神達は常に河に入り身を清めたため、神河浦と号すという。以上、符記による。

 行仁上人記いわく、

瀧蔵(タキノクラノ)大菩薩 当山の本の地主なり。河上に坐します
清瀧(キヨタキノ)神 河上の瀧下に坐します
天照大神御父 陽神(ヒナタノシン) 伊弉諾の尊なり。東山腰石に坐します 南
天照大神母 陰神(カケルノシン) 伊弉冉の尊なり。東山腰石に坐します 北
天照大神弟月イ日神なり 光神(ヒカルカミ) 月弓尊なり。東山の北の谷の石に坐します 上
天照大神蛭イ住子なり 雨神(アメノシン) 同谷の石に坐します 下
鍋倉(ナヘクラ)神 東山の頂に坐します
天満天神 今は和与喜の明神。当寺縁起勘出神今地主なり。東山腰に坐します
三尾(ミヲノ)神 今は云う大河神。御衣木守護の神なり。西の岳頂に坐します
賀茂明神 川中の大石に坐します
冨玉(トミタマノ)大明神 伊勢外宮豊受の神なり。西の山の腰に坐します
気比(ケヒノ)神 十一面堂の東北の石に坐します
気多(ケタノ)神 同方の北の石に坐します
宝憧(ほうとうの)神 十一面堂の西南の石に坐します
宝語(ホウコノ)神 同方の北の石に坐します
鎰司(カヒツカサノ)神 伊勢第一の別宮荒祭の神なり。雲懸橋の脇に坐します

 同記にいわく、
 菅右丞相がこの山に入り、「当山は天照大神隠遁の地である。諸神が冥道を守護している。鳥居を立てて、神明を崇める者は、山内静粛にするべし。」と言った。そこで菅丞相自らの手でその地を示した。昌泰元年戊午歳12月9日に初めて鳥居を立てる。今の大鳥居がこれである。
 概要は右のごとしである。
仁平2年(1152年)7月9日
地主法師正爾
五師大法師仁助
明徳2年(1392年)辛未4月24日、筆を終え朱点を加える
権僧正長懐 年50 戒38

応仁元年(1467年)丁亥7月24日、これを書写する
執筆信承 年23 戒7

信承がこれを書写したとおっしゃる
長谷寺別当前大僧正 尋尊 龍華樹院 大乗院 禅定院

※青字は内閣文庫本に記された注記であり、最古の写本である金沢文庫本には書かれていない。

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