2016年4月26日火曜日

狩野織部佐藤原重頼『長谷寺境内図』(1638年)

解題

長谷寺の境内を描いた絵図は近世~近代にかけて数点の作品が知られるが、私が知る中では与喜山を最も子細に描写した絵図が本作である。
 作者は狩野織部佐藤原重頼。寛永15年(1638年)の制作と判明している。

 2011年、奈良国立博物館の特別陳列「初瀬にますは与喜の神垣―与喜天満神社の秘宝と神像―」の展示で実見する機会を得たが、縦175.2㎝、横180.5㎝ということで人の背丈ほどの大画面である。
 同展示図録から絵図の全景を引用する。

『長谷寺境内図』全景(奈良国立博物館編『特別陳列 初瀬にますは
与喜の神垣―与喜天満神社の秘宝と神像―』2011年) 

 絵図の主題は長谷寺であるが、右手に与喜山の西側を描いており、山中の数ヶ所に興味深い注記がなされている。その部分を下に拡大しよう。


 与喜天満神社の背後にそびえる与喜山に、A~Eの5か所の注記。
 実物では肉薄して観察することができなかったため、奈良国立博物館に後日質問したところ、回答は次の通りである(2011年)。
A:「三■のだけ」。2文字目は虫損のため明確には読み取れませんが、残画からすると、「燈」かもしれません。
B:「大はつせ因曼荼羅胎蔵峯」
C:「北ののぞき」
D:「仙宮のたき」
E:「此所神石あり」

 土居正『白髭神社』(1999年改訂版)には、長谷寺文化財調査室の甲田弘明による同絵図の模写と解説が載せられており、この解説とも一致している。

 AとBは岡田杲師「豊山長谷寺の地主神(鎮守)に就て(其一・其二・其三)」(『豊山学報』第四号・第五号・第六号、1958年・1959年・1960年)で紹介したように、因曼荼羅胎蔵峰・三燈峰はいずれも与喜山の別称である。

 Cは荒々しい岩崖が屹立する様子が描かれ、そこを「北ののぞき」と記している。
 初瀬の地元の方が呼んでいる「のぞき」のことである。
 山中の絵図の通りの場所に、この「のぞき」は現存している。

 この「北ののぞき」の南方・下方に描かれている滝がある。Dである。
 「仙宮のたき(瀧)」と名称がつけられている。
 「仙宮」は、『長谷寺縁起文』において「北谷に又仙宮有り。凡そ不動魔を伏して瀧下に立つ。」と記された仙宮に対応するものであろう。仙宮は神仙の住む霊地であることを示す表現と解釈してよいだろう。瀧下に不動が立つという記述を鵜呑みにするならば、それも聖跡の1つとして挙げられる。

 ただし10回におよぶ踏査をおこなっているが、この絵図に描かれているような滝らしい滝は存在しない。あるのは多数の沢と、その水の通り道にある若干の落差である。

絵図の「仙宮のたき」地点にある沢と落差

 これを滝と呼んでいいのか。
 絵師による想像の産物という考え方はある。絵師が現地を隈なく見聞したとは考えにくく、願主の指示に応じて誇張表現を描いたことは十分に想像できる。

 それを指し示す1つの証左がH地点である。Hの滝は「多羅尾滝」であり、与喜山東麓に現存する。

多羅尾滝

 上写真の通り、この滝も大規模な落差を持っているわけではない。
 しかしそれが、『長谷寺境内図』では壮大な滝として描写されている。
 滝に限らず、与喜寺の下の崖やメインの長谷寺の縮尺など、これは写実だけを目的とした作品ではなく、宗教的誇張があって自然とは言える。
 そう考えるなら、「仙宮のたき」も同様の誇張表現であり、現地の落差が現実と捉えるのが妥当だろう。

 Eの「此所神石あり」の注記が、岩石信仰の跡を直接的に示している。
 絵図の位置関係では、「北ののぞき」の下方で、「仙宮のたき」と同標高でやや西北にあるように見受けられる。ただ、前述のように写実ではない本絵図において、位置を細かく指摘することにどれほど意味があるのかは我ながら疑問である。
 絵図の場所を現地で求めるなら、下写真の2ヶ所が候補である。

仙宮のたきの水源地の1つ。巨岩の裾から水が染み出る。

多数の岩塔がそそりたつかのようにそびえる岩崖

 2ヶ所は現地においてはやや離れているが、絵図的には同ヶ所と言って良い。下写真の方が、より絵図に近い位置である。
 いずれも高さ5mを超える巨岩と呼んでよい規模であり、前者は水が染み出て、後者は不動・神仙群の姿石とみなすこともできる景観を有する。

 絵図では「神石」と記すだけで、具体的な石の名称ではない。
 『長谷寺境内図』に先行する文献で、仙宮があるこの「北の谷」の神石に触れているのは『長谷寺密奏記』のみである。同書によると、
光神(ヒカルカミ) 月弓尊なり。東山の北の谷の石に坐します 上
雨神(アメノシン) 同谷の石に坐します 下
と書いてある二神に相当する。
 推測であるが、『長谷寺境内図』はこの二神のいずれか、あるいは両方を「神石」とまとめて注記したのではないか。これ以上の推測は本項では控えたい。

 最後に、FとGを取り上げる。
 Fは「牛頭天王」、Gは「なべくらの明神」である。
 つまり、延喜式内社の堝倉神社は12~13世紀の『長谷寺密奏記』において「東山の頂」にあると記されていながら、江戸初期の本図においては山麓に遷座し、この場所はいわゆる鍋倉垣内で、鍋倉山であり、鶯墳の存した位置であり、素戔雄神社(牛頭天王社)に合祀される前の姿を描いたものと考えられる。
 同様に、牛頭天王社(素戔雄神社)が江戸初期から鎮座していたことはこの絵図から確定でき、かつ、堝倉神社とは別物としてまつられていたこともわかる。

 このように『長谷寺境内図』は、『長谷寺縁起文』『長谷寺密奏記』で触れられた与喜山の旧跡が、江戸時代に下り断片的・抄訳的ながら情報が継承され、絵図の中に落とし込まれた貴重な記録と理解できるのである。


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インタビュー掲載(2024.2.7)