2016年4月28日木曜日

祐厳『豊山玉石集』(1760年)

解題

宝暦10年(1760年)、長谷寺の宿坊の1つである月輪院の住職・祐厳の手による文献。題名が示すとおり、豊山長谷寺の多種多様の情報を収載している。
 ありがたいことに、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの中で全文がweb公開されている。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/944211/

 与喜山の旧跡について、貴重な記述が残されているので重要箇所を引用したい。

  
■鵝形石
本縁起に言ふ所 天照太神御影向石なり、天満宮三四間脇に有り、是れ神代より皇太神常鎮の寳石なり。
天照太神此山より出て玉ふ故に一名を日出山といふ、尤深旨あるべきことなり。此石の脇に菅神鎮座し玉ふもまた奇しき事どもなり。豈御同體の義を示し玉ふものか。次に沓形石(ふみかたいし)と稱する兒屋根命天太玉命の影向石有り。
「本縁起」とは『長谷寺縁起文』を指す。『長谷寺縁起文』からの由来を引用する形を取っているため、ここにオリジナリティはない。
 与喜山の一名を日出山と呼ぶというのはこれが初出か。天照大神の影向石ということで深旨ありと重要視していることから、初瀬の地を元伊勢鎮座地とみなす土壌はこの辺りから由来するものと思われる。また、天照大神と菅原天神を同体とする考えも書き残している。
 沓形石は「くつがたいし」という読み方が現在では公式化されているが、『豊山玉石集』では「ふみかたいし」となっている。また、『長谷寺縁起文』では「春日大明神影向石なり」と記され、『長谷寺密奏記』では「天児屋根命御影向の石」と記されている沓形石だが、『豊山玉石集』では兒屋根命天太玉命と二神が併記されている。
 一方、『長谷寺密奏記』に太玉命が坐した石として記載のあった掌石が『豊山玉石集』にはない。『長谷寺縁起文』にもない。掌石は鵝形石・沓形石に比べ登場文献が少なく、存在感が薄い。

■多羅尾瀧
與喜山の東の麓に壱畳ばかりの瀑布有り、其瀧壷の中に不動明王両足の跡の如き穴岩石の上に有り、長さ一尺餘深さ數寸實に凡夫の業にあらず、不思議の聖跡なり。瀧の流細き時、傘などにて流れ落つる水を遮り見れば、歴々として見ゆ。本縁起に所謂不動は魔を降して瀧の下にたつといへるは此處なり。昔日慈覚大師彼蓮華谷の池を三七日廻り慈救呪を誦し玉ひし時、地中より出現し玉ふ所、不動の三尊飛で此に至り玉ひ、長く此に留まりて當山を擁護し、他に去り玉はざるしるしにとて、瀧の流れ落つる岩面に向て雙足の跡を顕し玉ふといふ。其像容は凡夫の眼を以て拝すること能はざれども、今に儼然として此に立せ玉ふこと疑ふべからず。故に本縁起に瀧の下に立つとのたまへり、意を着て見るべし。これ長へに悪魔を降伏して、爰に立せ玉ふなり。彼蓮華谷の池上に石燈籠を置きて、今に毎夜燈火を點じ奉るは此明王に供ずるなりといひ傳ひたり。
『豊山玉石集』では、『長谷寺密奏記』に登場する「此等神石(鵝形石・沓形石)の北谷に又仙宮有り。凡そ不動魔を伏して瀧下に立つ。」を、多羅尾滝に比定しているが、多羅尾滝は鵝形石・沓形石の北の谷にはなく、与喜山の東麓であるため、この比定は間違いである。
 『豊山玉石集』に先行する『長谷寺境内図』には、多羅尾滝とは別に、与喜山の北谷に「仙宮のたき」がはっきりと描かれている。『長谷寺縁起文』が記す滝はこれのことである。

■去來諾尊 陽父 去來册尊 陰母 影向石
山の腰に在り玉葛庵の上川上より與喜社へ登る磴(いしさか)の右の方なり。
朱書貼紙曰
二柱の御神影向石年久しく標柱あることなしもきかず、古老傳へいふ、專譽僧正當山に移り給はぬ己然、荒廃におよびし頃、或石工彼石を割りて物の用にたてんと、鑿を入れしに其人忽ち悶絶せしときき侍りぬとなん。余此集をよみてここに感あり、こたび注連を曳き標柱を立てにきぬ、後哲余が志を添えて其朽ちん頃ほひには必ずかくし玉はんことを乞ひねがふと云。
文久四年甲子年 大仲年預頭歓喜院聖元
其影向石並粧坂の粧石評決の上標柱を立つる者也
  「朱書貼紙曰」以降の部分は、『豊山玉石集』の本文とは別に、時代が下って文久四年(1864年)に、歓喜院聖元が朱書の貼紙を本書に付したものである。
 この影向石に長らく標柱がなく、石工の祟り伝承も付帯するので、今後のために聖元が注連縄と標柱を整備したという内容である。この時、近くにある化粧坂の化粧石にも標柱を立てたことが署名からもわかる。
 この影向石には、去來諾尊(陽父)と去來册尊(陰母)が鎮まるという。
 この記述から思い出すのは、『長谷寺密奏記』に登場する陽神・陰神である(下記)
陽神(ヒナタノシン) 伊弉諾の尊なり。東山腰石に坐します 南
陰神(カケルノシン) 伊弉冉の尊なり。東山腰石に坐します 北
両書に符合する点が多いことから、同一のものを指すと判断して間違いはないだろう。与喜山東山腰の磐座の事例である。
 『長谷寺密奏記』に記された磐座が、時を経て、江戸時代の『豊山玉石集』、そして朱書貼紙が示すように幕末においてもその存在が一部ではまだ知られていたことがわかる。
 だけれども、現在において、この影向石の存在はすっかり忘れ去られており、どこのことか知る者はいなくなってしまった。聖元が設けた注連縄も標柱も朽ちてしまい、その後を継ぐ守り人が現われなかったのも悲劇である。
 再び、存した歴史を復元しなければならない。

 この影向石は、玉葛庵の上にあり、川上(現・川上地区・・・素戔雄神社を氏神とする周辺一帯)から与喜天満神社へ向かう現・裏参道の石坂(石段)の「右」の方にあるという。
 この「右」が曲者である。
 管見の限りでは、裏参道を登る右手は鍋倉垣内となり、堝倉神社が江戸時代~明治初期に鎮座していた辺りとなる。同時に、ここには堝倉神社祭神・大倉姫命の墳墓といわれる鶯墳が存したと伝わる。
  このように歴史が残る場所ではあるのだが、現地を見た限り、影向石と思しき岩石が見当たらない。もちろん、鶯墳と同様、かつてはあったが今は消滅している可能性もある。また、この地点の踏査はまだ甘く、隈なく藪の中、林の中を観察したわけではない。

 もし、石坂(石段)の「左」と書いてくれていたら、話は早かった。左とはすなわち山側であり、斜面を15分ほど登ると「重岩」と、それに接して一大巨岩群が存在している。陰陽の影向石に比定することができるだろう。
 しかし、文献記録上では「右」である。書き間違いの可能性はあるが、それを言い出したらあらゆる文献記述を信用できなくなる。資料主義に基づき、ひとまずは「右」に影向石の可能性を求めたい。これは次回の踏査の課題として新たに設定しておく。

■鍋倉明神社と牛頭天皇社
鍋倉明神社
拝殿在り、延喜式神名帳に鍋倉神社といふ是なり。此神大悲者の應化を助け霊異を施し玉ふ、霊験記に往生出づ、披見すべし。
牛頭天皇社
拝殿あり、川上町の氏神とす。
鍋倉明神社と牛頭天皇社が別々に紹介されており、それぞれに拝殿があると記されていることから、この当時においても、まだ両社は一体になっていなかったことがわかる。すなわち鍋倉明神社の場所が鍋倉垣内にあったことを暗に示す。
 他書にはない特徴としては、鍋倉明神を「大悲者の応化を助け霊異を施す神」と明記していることだ。


■見廻不動尊
小はつせ山東北の尾崎數丈の懸崖の岩に刻む、傳へいふ高祖大師當山に参籠畢て笠山の方へ立ち出でさせ玉ひし時、此處にて回顧し玉ふに兩山相對すといへども、共に縈廻屈曲して二つならず、寔に金胎兩部二而不二、不二而二の深理自然と顕れたる秘密荘厳の霊場なれば、此山に入らん者をして、是より心地を定め堅固の浄心を發さしめんとて、此明王の御形を刻ませ玉ふとなん、誠に不動明王は一切衆生の菩提心の大地を堅固不動ならしめん為に堅固不壊なる須彌山王の上に安座し玉ふなれば、誰も此明王の加護を蒙り心地決定を祈るべき事なり
見廻不動尊は、初瀬ダムに向かい合う小泊瀬山の裾部に今もまつられている。
 同不動尊の由来としては最も古く、また、最もまとまった内容ではないか。現地の由緒板にも同様のことが書かれている。


■粧坂
大日媛命皇大神を戴き奉り、倭国彌和の御室の嶺上宮より、宇多の秋志野宮に御幸し玉ふ時、此坂の上なる石上に水の溜りたるにて粧ひし玉ふ故に坂の名とすといふ。又此坂いかなる由にや古より婚禮の者通らずとなん、此坂伊勢参宮の本道となる。
本書執筆の12年後に、本居宣長が化粧坂を歩いて初瀬を旅している。
 元伊勢伝承において、大日媛(倭姫命)が石上に水がたまっていて化粧をしたという伝承を持つ。また、婚礼者が通らないようにするという一種の禁忌も付帯する。
 元伊勢・磯城厳樫本宮の根拠ともいうべき話である。


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