2016年4月7日木曜日

本居宣長『菅笠日記』(1772年)と厳樫家古文書(年代不明)の比較検討

■『菅笠日記』解題

明和9年(1772年)、本居宣長が伊勢から大和へ旅行へ行った時に記していた日記が『菅笠日記』である。
 全10日の行程のうち、第3日目に初瀬の地を宣長は訪れている。

 本書の原文については本居宣長記念館のホームページ内に専用コーナーが設けられており、旅程の全貌もつかみやすい。
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/norinaga2/2gakumon10_2.html

 また、帝京短期大学教授の諏訪邦夫氏がクリエイティブコモンズで現代語訳を広く提供している。
http://book.geocities.jp/kunio_suwa/Sugagasa.pdf(2011年公開)

 本項では、初瀬に関わる部分のみ時系列に沿って引用しよう。

けはひ坂とて。さがしき坂をすこしくだる。此坂路より。はつせの寺も里も。目のまへにちかく。

 化粧坂の地名が登場する。化粧坂から初瀬の里に入ったことがわかる。

よきの天神と申す御社のまへに。くだりつきて。

 化粧坂から与喜天神(与喜天満神社)に下った様子がわかる。

たがことかはしらねど。だうみやうの塔とて。右の方にあり。

 これは長谷寺参詣時に「誰のことかは知らないが、道明の塔というのが右側にある」ということを書き留めている。道明と言えば長谷寺創建の祖であるが、宣長は長谷寺についてはそこまで詳しくなかったようだ。

巳の時とて。貝ふき鐘つくなり。

 午前10時に貝吹き鐘つきがあったという記述で、長谷寺参詣が午前中であったことがわかる。

すべて此はつせに。そのあとかの跡とて。あまたある。みなまことしからぬ中にも。この玉かづらこそ。いともいともをかしけれ。

 「初瀬の地には“あれはあの跡”と称される場所が数多あるが、すべてが真実とは限らない中、この玉蔓庵についてはとても趣深いものがある」
 宣長は、初瀬の旧跡についてこのような所感を述べている。長谷寺境内で藤原定家の墓と呼ばれる石塔を見ているが、最近の作のようで感心しないと記している。こういったことを踏まえての感想だろう。

又牛頭天王の社。そのかたはらに。苔の下水といふもあり。

 牛頭天王の社とは、すなわち現・素戔雄神社である。松本俊吉「堝倉神社」(式内社研究会編『式内社調査報告 第三巻 京畿内3』皇學館大學出版部、1982年)によれば、この牛頭天王の社は山中から遷座してきた堝倉神社の通称だった可能性もある。

よきの天神にまうづ。社の山のはらに。やゝたひらなる所にたゝせ給へり。長谷山口坐神社と申せるはこれなどにもやおはすらん。されど今は。なべてさる事しれる人しなければ。わづらはしさに。たづねもとはず。大かたいにしへ名ありける御社ども。いづくのも。今の世には。すべて八幡天神。さては牛頭天王などにのみ成給へるぞかし。

 与喜天満神社は、長谷山口坐神社だったのではないかという宣長の推測がここに書かれている。現社地にある長谷山口坐神社は手力雄社となっており、それを延喜式内社の同社とみなさず、与喜山の懐に抱かれる与喜天満神社こそが延喜式内社の鎮座地にふさわしいと思ったのだろう。
 しかしこれについては『菅神初瀬山影向記』(室町時代)において述べたように、『長谷寺縁起文』などの古文献で、東山には大きな松があり、その下に天神は鎮座すべきという記述がある。松という自然物だけが記されている限り、そこには前身となる延喜式内社はなく、与喜天満神社という新たな神の鎮座地が初めてそこに用意されたと見るのが素直な解釈となるだろう。

あなたよりいる口に。いと大きなるあけの鳥居たてり。

 当時、初瀬の門前町入口に存在したといわれる大鳥居に関する記述である。

■『厳樫家古文書』の作者は本居宣長なのか


 『厳樫家古文書』とは、岡田杲師「豊山長谷寺の地主神(鎮守)に就て(其一・其二・其三)」(『豊山学報』第四号・第五号・第六号、1958年・1959年・1960年)で紹介した著者不明・制作年不明の厳樫家所蔵の文書である(現在は行方不明で、写真のみ残る)。
 岡田杲師は、初瀬の森町の関東屋に本居宣長の残した筆跡があり、それとこの古文書の筆跡とよく似ていることから、古文書の作者を本居宣長と推定している。

 古文書には、このように書かれている。

おのれ此初瀬里の鍵屋某の厳橿氏と名のり給ふことを見いててより鍵屋の叟に尋ねて古跡を探覓めぬれは闇夜に燈を得たるが如く明らかに実地を得たり。厳香斯之本の左右に手力雄命豊秋津姫命のましますも大神宮儀式帳と符合して古を今のうつつに見る心地こそすれ。

  厳樫家の当主に尋ねて、古跡を探し求めたところ、闇夜に灯を得たかのように、元伊勢伝承地である磯城厳樫本宮の実地を確認したのだと書いてある。
 また、厳香斯之本の左右に手力雄社・豊秋津姫社があるのも、『皇大神宮儀式帳』に記された天照大神・手力雄命・豊秋津姫命の配置と符合して、神話のことを今に伝えている心地がすると記している。
 この書き方から考えると、実地というのは厳香斯之本であることを確信した場所そのもののことであり、左右に手力雄命(長谷山口坐神社)・豊秋津姫命(両部山)があると書いていることから、その中心に位置するのはまさに与喜山の一帯である。
 しかも、厳樫家の当主に訪ね、古跡を探し、実地を確認する時間があったということも表している。

 ここでポイントとなるのが『菅笠日記』である。厳樫家古文書の作者が宣長ならば、書いたのは宣長が初瀬を訪れたこの時ということになる。
 日記の時間軸で考えると、第3日目は榛原から出発して多武峰という距離を歩く中での中継地が初瀬であり、初瀬に滞在していたのは おそらく朝9時~午後3時までの5~6時間といったところである。少なくともこの間に長谷寺境内各所・牛頭天王社・玉蔓庵・与喜天満神社などを巡っている。現地を訪れた私の感覚だと、早足の見学でもこれで3時間はかかるだろう。
 残り3時間足らずで、厳樫家を尋ね、道案内を受け、厳香斯之本を見つけ、さらにその例として厳樫家にこの文書を書き残すという一連の作業ができたのだろうか。

 しかも気になるのは、『菅笠日記』にはこの厳香斯之本について気にしている様子が1つも書かれていないことだ。長谷寺を巡り、与喜天満神社が延喜式の長谷山口坐神社だったのではないかということは書いているが、元伊勢伝承地に思いを巡らす一文がない。厳樫家古文書の中で貫かれている厳香斯之本への追究熱との間に差を感じざるをえない。
 さらに、宣長は初瀬の旧跡すべてが真実とは限らないという立場で冷静に初瀬を見ており、これも厳樫家古文書の中で書かれる盲目的な書き方とはややギャップを感じる。

 まだ気になる事が1つある。
 厳樫家古文書の作者は、 厳香斯之本の左右に手力雄命・豊秋津姫命があることに感銘を受けている。
 一方、『菅笠日記』の宣長は、手力雄命がまつられている手力雄社、つまり現・長谷山口坐神社を延喜式内社のそれと認めておらず、与喜天満神社こそが元来の長谷山口坐神社だったとみなしている。
 そうすると、厳樫家古文書において手力雄命の存在を重視している姿勢と矛盾を感じる部分がある。

 ただし、これについては逆に、与喜天満神社こそが厳香斯之本=延喜式の長谷山口坐神社とみなすことで、手力雄社は長谷山口坐神社ではなく天照大神の左右の一翼を担う社だったと認識していたことにもなるので、その意味では厳樫家古文書の主張と通ずるものもある。
 この点についてはどちらとも解釈できるのだ。

 岡田杲師は森町の関東屋の筆跡との類似を説いているが、この肝心の森町の関東屋というのが今のどこのことなのか特定できない。宣長の筆跡もどのようなものなのか岡田論文で写真などで触れられていないのではっきりしない。似ている、似ていないの判断基準も具体的には書かれていない。
 この筆跡だけで判断するのではなく、宣長の他の著作から厳樫家古文書を比較することはできないものだろうか。この筆跡比較については専門家の判断を得たいと考えている。

 このように、現時点で厳樫家古文書の作者が本居宣長でよいかどうかについては、上記の疑問点と不明点があるため、断言することはできないという評価を出しておきたい。


 その議論とは別に、古文書の作者が厳香斯之本と確信した場所とははたして何だったのかということに対して、最後私見を述べておきたい。

 たとえば、厳香斯之本の字義でたどるならば、厳樫の本(もと)ということで、神聖な樫の木の下である。まさか『長谷寺霊験記』に記された「東の山の大松」ではあるまい。松と樫では木の種類が違う。

 あるいは鎌倉時代の『長谷寺縁起文』に「天照大神影向し彼の石の上に坐す」と記された鵝形石を案内されて、確信したのか。
 鵝形石は嘉永6年(1853年)の『西國三十三名所圖會』にて、現在地と同じ社殿前の境内に描かれている。宣長が旅した時期と約80年の開きがあるが、鵝形石自体が鎌倉時代の文献に記され、三玉石として藤原氏の影響を受けて完成した磐座跡であることから考えると、宣長が訪れた時にはすでに名所旧跡の1つとして知られていた可能性は十分にある。
 そして、鵝形石であれば初瀬滞在時の宣長でも、与喜天満神社を訪れていることが『菅笠日記』に明記してあるわけだから辻褄が合うし、初瀬の半日滞在でも探訪可能である。地元の人から「この石は天照大神が降臨したと伝えられている」と聞けば、何も知らない宣長が元伊勢伝承地の証拠として肯いたのも自然であろう。
 厳樫家古文書の作者が宣長だった場合、私はこの可能性を支持したい。

 ただ宣長以外が作者の場合は、 時間が限られていないため、たとえば与喜山中など時間のかかる奥地で厳香斯之本を確信したという可能性も否定しない。

 ちなみに、厳樫家古文書を保有していた厳樫家のホームページが残っている。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/itsukashi/

 2014年に亡くなられた奥様が営んでいた「お抹茶いつかし」のホームページで、同店は奥様の逝去とともに営業を終了したため、このホームページもいつ消えてもおかしくない。
 「いつかしのいわれ」というページの中で、厳樫家の人にしかわからないであろう情報が書かれていたため、それをそのまま引用しておきたい。

 当家には、 長谷寺第三十二代能化法住僧正の書いた「厳樫大明神」の掛け軸が伝わっております。
 平たく言いかえるならば、
 天照大神(今のお伊勢さん)が伊勢にたどり着かれる以前、 今の大阪府内より順を追って東へとそのお祀りの地を遷して行かれたことは、 永年の研究により明らかであります。
 その過程で、この初瀬(はせ)の地で一時期お祀りされていたようで、 これが「いづかしのもと」と呼ばれていたようです。 (「磯城」というのは、今も奈良県田原本町付近で使われている当地方の呼び名です。)
 当家は、その社家(神主)であったとされており、 江戸後期より厳樫(いつかし)姓を名乗るものとなったと思われます。

 厳樫家は磯城厳樫本宮の社家の末裔と伝えられ、江戸後期から厳樫の姓を名乗ったと書かれている。他で見られない情報で、かつ、当事者が伝える情報は貴重のためここに記録保存しておく。

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