2016年4月6日水曜日

桜井満・上野誠編『泊瀬川の祭りと伝承―古典と民俗学叢書18―』(おうふう、1996年)

解題

「古典と民俗学の会」代表だった國學院大学教授・桜井満の遺作(編集者名義)。桜井満は国文学者でありながら民俗学にも通じ、彼が率いる同会も、いわゆる1つの学問にとらわれず、研究対象を様々な角度から横断的に調べる団体だった。
 本叢書は同会により民俗調査された成果を収めたものであり、その泊瀬川編ともいえるのが本書である。



 泊瀬川を上流・中流・下流に分け、上流で瀧蔵神社、中流で落神六社権現、下流で与喜山について言及している。
 したがって自ずから本書も初瀬の地主神問題(本地主の瀧蔵権現と今地主の与喜天神の歴史的位置付け)について何らかの立場をとらなければならないわけである。
 本書の見解は次の通りである。

  • 泊瀬斎宮・・・隠口の神霊が籠もる場として斎宮が設置されたと考えるよりも、飛鳥から伊勢に至る交通路の要衝にあったことが要因だったのではないか。
  • 瀧蔵権現・・・国史に見えるのが遅く、『延喜式』に登場しないことから、長谷寺創立以前から初瀬でまつられていた神だったのかにはやや不安を感じている。長谷山口神よりも国家祭祀色が薄い神であり、それが却って、本地主として初瀬の神々の根源に置かれるようになった理由ではないか。
  • 長谷山口神・・・画一的な「○○山口神」の1つであることから、在地の神から端を発した可能性を否定はしないが、基本的には国家祭祀によって必要とされた神だったのではないか。
  • 長谷寺に伝わる法華説法図・・・成立年代には諸説あるが文武二年(698年)を支持する。この銅板には神祇に関する記載は全く見られないことに注目している。

 初瀬の地が元から飛鳥と伊勢という二大地点を結ぶ交通の要衝だったからこそ古代からの霊地となったこと、長谷寺創建当時に長谷寺創建主体は初瀬のローカルの神々を言及しない関係性だった可能性があること、瀧蔵権現よりも長谷山口神の方が国家祭祀的性格が強い神であり、先に長谷山口神が長谷寺の支配論理の中に組み込まれ、よりローカルな神として残されていた瀧蔵権現が、最終結果的に初瀬の本地主として重要視されるようになったことなどを、本書では比較的鮮明に描き出している。

 本書の最終章は「泊瀬川の伝説」と題し、同川流域に残る伝承の資料集となっている。
 ただし本書の冒頭でも述べられている通り、悉皆調査ではないため不十分なものではある。それでも、本書は初瀬を「石の伝説」が色濃い地域だと指摘する。掲載されている事例は以下の通り。

  1. 沓形石(初瀬)
  2. 化粧坂のおはぐろ石(初瀬)
  3. おじゃり石(小夫)
  4. 屏風岩(落神)
  5. あまのじゃくのいし(白木)
  6. 泊瀬石(初瀬)
  7. 不動の足形(初瀬)
  8. 切石(初瀬)

 このうち、1・6・7は他文献でより詳しく紹介されているのでここでは触れない。また、3・5は本項の趣旨とはずれる祭祀事例なのでこれも触れない。
 2・4・8はそれぞれ本書ならではの情報を持っているので、該当部分を紹介しておこう。

2.化粧坂のおはぐろ石
伊勢のほうから初瀬に詣でる際、化粧坂のおはぐろ石の所に着くと、長旅によって見苦しくなった身なりを整えるため、衣装替えをしたり化粧をし直したりした。それから与喜天満神社に参ったものだという。また、当地からお伊勢さん参りする時も、このおはぐろ石の所で身づくろいをしたという。(土井ことめさんより聞き取り)

4.屏風石
もと初瀬水力発電所のあった横に、屏風のような岩がある。燈明台をつくって、毎夜燈明をあげられている。昔、武士がここから向かい山にある、口の倉(萱森)の高塚城をおとす時に、岩をつき立てて屏風にし、城取山から進んで高塚城をおとしたという。この屏風岩の近くに、山に三社、川に三社、合わせて六社権現を、岩を神体としてまつってある。牛のたづなを引きながら、ここから谷へまくれても死んだ人がないという。雷も落ちない。落神さまがまもって下さるからだという。現在、川中に、山から落ちたと思われる大石が三個あって、三社をまつってある。(『大和の伝説』増補版)

8.切石
武麻呂が家は、今、銚子屋屋敷といふて、公役赦免の地なり。天神御腰をかけさせたまふ石は、初瀬の町の東頰の北にあり。また天神に三寸を奉りし石は、仁王門の内に今にあり。(『大和名所図会』)

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