2016年4月8日金曜日

道明「長谷寺銅板法華説相図」(688~722年頃 諸説あり)

解題

長谷寺に保管されていた銅板である。表面に宝塔・仏像と273文字からなる銘文が刻まれており、美術的価値・歴史的価値のいずれも高い資料として国宝指定されている。
 この銅板については制作年代・原位置・制作目的について、江戸時代から数多の学者による研究史がある。最新の研究では新潟産業大学教授の片岡直樹による一連の論文が実証的である(いずれもリポジトリ化されている)。

・「長谷寺銅板の道明について」(2008年)
http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/31392/1/h20-y1.pdf

・「長谷寺銅板の原所在地について : 迹驚淵の伝承をめぐって」(2010年)
http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/22291/1/21_5-35.pdf

・「長谷寺銅板法華説相図の銘文について : 校訂・解釈・彫刻技法」(2012年)
http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/36008/1/40_1-17.pdf

 本項は、上記論文の業績から勉強させていただき、そこから得られた知見をまとめておくものである。詳細の論証は上記論文を参照されたい。


■銅版の制作年代

朱鳥元年(686年)説、文武2年(698年)説、和銅3年(710年)説、養老6年(722年)説などが様々な研究者によって出されてきたが、片岡論文では検討の結果、文武2年(698年)説が最も妥当と結論付けている。
 長谷寺の創建年代もはっきりしていないが、現在の研究では養老・神亀年間(717~729年)と考えられており、すると銅板は長谷寺の創建とは本来切り離すべき遺物ということになる。

■作者の道明の出自について

道明は長谷寺の創始者として知られる。従来、生没年不明で同時代史料に彼の事跡を記録する文献はないと思われたが、天平勝宝4年(752年)『正倉院塵芥文書 雑張第一冊』において東大寺大仏開眼会参列者に「道明」の名があることを片岡論文が初めて指摘した。
 各資料の検討の結果、道明は渡来系の六人部氏出身で飛鳥・川原寺の僧となり、25歳~30歳頃にこの銅板を制作し、80歳前後に東大寺大仏開眼会に参列したという事跡を描き出した。

■銅板の本来の奉納地

『日本書紀』天武天皇8年(679年)条に、迹驚淵(とどろきのふち)において、天武天皇が宴を開いたという記述があり、また、桜井市白河にある「龗山(りょうさん)の池」が迹驚淵で、ここにかつて本長谷寺の銅板を安置する堂があったという地元の伝承がある。
 検討の結果、この地元の伝承の元は新しくとも室町時代中期まで遡れ、史実を伝えている可能性が高く、銅板は元々長谷寺とは別の場所で奉納されたものであり、したがって銅板はなおのこと長谷寺創建伝承とは無関係の遺物として扱うべきものと考えられる。
 ただし、迹驚淵が白河にあったことまでは認めつつも、龗山の池がそれだったかについては別資料で別場所を示唆する記述も見つけているので、片岡論文では判断保留としている。

■銅板銘文に登場する「天皇」とは誰のことか

天武天皇説と持統天皇説に分かれていたが、片岡論文では文武2年(698年)説をとることから、686年に亡くなった天武ではなく、自ずと持統のことを指すことになる。
 迹驚淵には持統も天武の皇后として随行していた可能性が高く、また、持統11年(697年)に持統が病気にかかったことから(だから文武天皇に譲位した)、銘文にある「天皇(の病気平癒)のためにこの銅板を奉納した」という内容と一致する。

■本長谷寺・後長谷寺伝承は銅板の再発見によって創作された

以上の点から、銅板は持統天皇の病気平癒のために、文武2年(698年)、道明が持統に縁のある迹驚淵に奉納したという歴史が復元できる。
 長谷寺が伝える「本長谷寺・後長谷寺」の伝承は、鎌倉時代(13世紀)に編纂された『長谷寺縁起文』以降に突如登場する。
 一方、長谷寺の縁起記録で最古の永観2年(984年)『三宝絵』から、永万元年(1165年)までに成立した『七大寺年表』においては、長谷寺を本と後に分ける記述は一貫して登場しない。
 このことから、12世紀から13世紀にかけて、長谷寺の縁起が変容していることが指摘でき、これを研究史上では『長谷寺縁起文』以降は「新縁起」、それより前を「古縁起」と分ける。
 長谷寺の縁起が変容した理由が、この銅板だと片岡は指摘する。12世紀の間に、長谷寺に移設されたこの銅板が「再発見」され、銘文に「千佛多寳佛塔を造る」に書いてあったことから、これを長谷寺の本来の寺院創建記録だと当時の長谷寺がみなし、銅板に記された道明による長谷寺を本長谷寺と呼び、弟子の徳道が十一面観音を造立した今の長谷寺を後長谷寺と呼ぶように、縁起を改変させたのだと理解できるのである。
 実際は、銅板にある「千佛多寳佛塔」とは銅板自体に刻まれた宝塔・諸仏の彫刻のことを指す。本長谷寺という存在は『長谷寺縁起文』以降の新縁起が創作した伝承上の存在であり、長谷寺の創始は徳道による十一面観音からという流れになる。

所感

以上見てきたように、本銅板は長谷寺の創建を記すものではなく、長谷寺以前の初瀬の歴史を伝える別系統の資料と評価することができる。もちろん、銅板が長谷寺に移設されることで、長谷寺自身が銅板の存在を利用し、自らの縁起を変容させたという意味で、長谷寺の歴史にとって欠かせない存在ともなっている。
 与喜山を研究する私から見ると、本項で最も注目したい情報は、銅板が奉納された白河の迹驚淵である。ここは天武天皇が宴を催した場所で、片岡論文の結論によれば、持統天皇の病気を快復させるために宝塔・諸仏・願文を刻んだ銅板を捧げるに値する霊地だったということを示す。
 これはすなわち、長谷寺創建以前の霊地ということである。泊瀬川を境にして、東方(北方)に与喜山という霊地があるように、西方に位置する白河にも迹驚淵という、天皇に縁ある霊地があった。
 すでに天武天皇2年(673年)、天武天皇皇女の大来皇女が「泊瀬斎宮」に滞在したという記録が『日本書紀』にある。泊瀬斎宮の候補地は初瀬北方の小夫の天神社という伝承や与喜山南麓の化粧坂という伝承があるがいずれも確証に欠ける。ただいずれにせよ言えるのは、長谷山口坐神社の存在もあるように、長谷寺以前の初瀬地域にはすでに天皇の影響色濃い霊地が複数箇所存在したというということだ。

 長谷山口坐神社・泊瀬斎宮・迹驚淵といった霊地が、天皇によって創られた霊地だったのか、それともそれ以前から在地の人びとから霊地と信じられていた場所に天皇の影響がプラスされたものなのか。いずれも自然物との関係色濃い旧跡だけに関心事である。
 これはひいては、与喜山に残る在地的な旧跡(磐座群)の評価にも関わることだと思って注視している。

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