2016年11月7日月曜日

人間にとって岩石はどういうものなのですか?

「歴史観の形成」の授業でいただいた質問にお応えします。

"今回の授業で人間にとっての「石」というものがどういうものか分からなくなりました。人間は石自体を信仰しているのか、石に内蔵した仏を信仰しているのか、石に彫ったものを信仰しているのかがよく分からなかったのですが、石というものが人にとって特別な力を感じさせるものだということは分かりました。"(1回生の方より)

"祭祀、信仰の対象としての石と祭祀をするための道具としての石ではどのように石に対する考え方や扱い方が違うのか疑問に思いました。"(4回生の方より)

これは嬉しい反応です。

そうなんです。いろいろな岩石を見れば見るほど、こういう疑問が私も湧いてきたのです。
この疑問を多くの人と分かち合いたいと思って、先日の授業の中ではわざと、バラバラな用途や役割を持った岩石信仰の事例をスライドで列挙しました。

「人間にとっての石というものがどういうものか分からなくなった」ということですが、岩石に意味づけを与えるのが人間の心という前提に立つなら、それは自然なことだと思います。
人間の考えていることがみんな一緒ではなく、人間の心とは何?と一言でまとめられるほど単純ではないように、岩石を通した思考パターンも指で数えられるような量には収まりきらないということでしょう。

といったらあまりに投げっぱなしすぎるので、具体的にどれくらいの思考パターンが見出せるか、この辺りは1000例を超える国内の事例に当たって以前調査したことがあります。
その詳しい結果は、自著にまとめた岩石祭祀の機能分類をご覧ください(宣伝。笑)
分類発表後5年たちますが、いまだ改訂の必要性に迫られる事例に出会っていません。 この分類のどれかには当てはまります。


人間が石自体を信仰していた。そういう人もいたと思います。
狭義の岩石信仰とは、これを指しますし、私の興味関心の最終ゴールはこの心理を知ることです。

石に内蔵した仏を信仰した人もいたでしょう。石に彫ったものを信仰した人もいたでしょう。その人にとって、石はただの素材であり道具だった。石に特別な力はなかった。この思考パターンもあると思います。一方、素材や道具でも霊性を認めた人もいたかもしれませんね。

これに通ずる話として、次のようなご質問もありました。

イスラームのカーバ神殿やメデューサの石化も、石に対する畏敬の表れでしょうか。(2回生の方より)

私のフィールドは日本列島なので、海外の岩石信仰は力量を超えてしまい、下手なことは口出すべきではありませんが、カーバ神殿の黒石も、石に特別な力を認めるムスリムから、石自体を信仰しているわけではないというムスリムの声もあるとwikipediaに載っていたので(出典wikipediaですみません)、黒石に対する思考パターンにも幅が出ているようです。
私が思うに、文字で明文化されていない部分に、人間のグラデーションが出るのでしょう。そこに宗派や教派というものが生まれる余地があります。
むしろこのことから、人の心全体から文字化された部分は、極めて限定的・表層的ということがわかります。

そういう意味では、メデューサの神話も、作者が意図したにせよしなかったにせよ、受け取り手には行間を味わう性質を帯びますから、そこに人間の心の自由さが出ます。

岩石を見るという行動は、言語化・文字化するという行動から最も遠いところにいるのかもしれません。

岩石信仰は、教祖や教典が人の思考を縛る世界観ではなく、人が岩石を通じて自ら発想を生み出していく世界です。
岩石を見ながら個々人の心を見ることができる、とても知的好奇心を刺激されるとりくみだと私は思っています。


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インタビュー掲載(2024.2.7)