インタビュー掲載(2024.2.7)

2016年12月17日土曜日

渭伊神社境内遺跡と、いわゆる「天白磐座遺跡」について(静岡県浜松市)


静岡県浜松市北区引佐町井伊谷字天白 渭伊神社境内

参考文献

  • 辰巳和弘・編 『天白磐座遺跡』(引佐町の古墳文化5) 引佐町教育委員会 1992年
  • 辰巳和弘 『シリーズ「遺跡を学ぶ」033 聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』 新泉社 2006年
  • 藤本浩一  『磐座紀行』 向陽書房 1982年

いわゆる「天白磐座遺跡」に対しての警鐘 


渭伊神社の背後に薬師山(標高41.75m)があり、頂上に多数の岩塊が露頭している。
これが渭伊神社境内遺跡である。
頂上の巨岩群の周辺一帯から、古墳時代から鎌倉時代前期まで連続した祭祀遺物・祭祀関係遺物が出土した。

渭伊神社境内遺跡

遺跡発見者であり、発掘調査を主導した辰巳和弘氏は、この遺跡を「天白磐座遺跡」と命名した。
一般にはこの名で有名となった国内の代表的な「磐座」遺跡だが、史跡登録時の正式名称は渭伊神社境内遺跡である。

本遺跡発見より遡ること約10年前、『磐座紀行』著者の藤本浩一氏が当地を訪れ、同書にて磐座の例として紹介した。
現地には、藤本氏の同書に影響を受けたと思われる説明板も立てられている。

藤本浩一氏の記述を元にした現地看板。「天白磐座遺跡」の名はまだない。

この点を踏まえると、藤本氏の紹介以降、当地が「磐座」と呼ばれるようになったようである。
逆に言えば、それ以前、この巨岩群を「磐座」と呼んでいたわけではないことに注意したい。
実際、かつて地元ではこの地を「おがみ所」と呼んでいたという記録が残っている。それが、天白磐座遺跡の名称が広まってからは「おがみ所」の呼称は影をひそめてしまった。

私はこの点を懸念している。
なぜかというと、文字記録がない古墳時代の遺跡に対して、容易に「神が降り立った岩石」という意味合いを持つ「磐座」の用語を断定的に当てはめるのは危険だと考えるからだ。

本遺跡の古墳時代の遺物の出土状況から、特定の岩(報告書中で「岩A」と称されている)をまつった様子は推定できるが、それだけですなわち「磐座」とは即断できないのである。「石神」など、奈良時代の古典には磐座以外の岩石信仰の存在が記されている。
このように磐座以外の岩石信仰の可能性がある現状で、「磐座」という限定的な意味を持つ名称を付することには慎重でありたいし、当地は旧来から「磐座」と呼ばれていたというわけではないことも重視したい。

地元で真に伝承されてきた「磐座」であればよいが、今回のように、外部の人間が持ちこんだ外来語としての「磐座」がないまぜになって、後世に勘違いが起こることを防ぐのは私たちの役目であると思う。

たとえば、露岩群の岩の割れ目より平安~鎌倉時代の経筒外容器が出土していることから、中世に当遺跡は経塚として機能していたことが明らかになっている。
ということはすなわち、本遺跡は年代によってさまざまな性格・役割を有してきた複合遺跡であると言える。
であるならば、本遺跡の名称は古墳時代に偏重しており中世の経塚の性格を切り捨てる「天白磐座遺跡」ではなく、史跡の正式名称であり、あえて言うなら「現代」の状態を忠実に示す「渭伊神社境内遺跡」の名称を私は使用したい。

本遺跡をとおして、「磐座」の用語を濫用することで本来の歴史を改変してしまう問題が全国各地で起こっていることに、せめて読者の方は関心を持っていただければ幸いである。


遺跡の状態


以下、本遺跡の発掘調査報告書でもある辰巳和弘氏『天白磐座遺跡』(引佐町教育委員会、1992年)に基づいて遺跡の状態を紹介しておこう。

薬師山の頂上には「岩A」「岩B」「岩C」(報告書での通し番号)の3体の巨岩がトライアングル状に位置しており、その3体の周囲に大小の岩塊が集中して散布している。

特に「岩A」が遺跡の中で最も巨大な岩であり、幅は南北最大長10.3m、東西最大長6.8m、高さは7.39mを誇る。現在、「岩A」の頂部には小祠が設けられている。

岩A


発掘成果


発掘調査では、1区から5区までの5ヶ所の発掘エリアが設定された。

  • 1区…「岩A」のすぐ西側
  • 2区…1区のすぐ南。「岩A」の張り出している部分。
  • 3区…「岩A」「岩B」「岩C」が織り成すトライアングル区域内の平坦面。
  • 4区…「岩B」の南東部。
  • 5区…岩塊群からやや離れた東側。

ここから発見された遺物を調査地区ごとにまとめておこう。

遺跡調査区と出土遺物のスケッチ

まず、1区のある「岩A」西壁直下付近は、付近の地形が斜面状になっているのに、この部分だけ平坦になっているのが不自然であることから、人為的な地ならしがされている可能性があると辰巳氏は指摘している。周りの斜面と比べると壇状をなしていることから「壇状施設」とも表現されている。現地で見てみた限りではそこまで顕著でもなかったが、発掘面や等高線的には不自然なのだろう。

発掘した結果、1区の至る所から手捏土器が出土。辰巳氏の観察所見では「これらの土器群は同時代に全て作られたものとは考えられず、分布の粗密も、磐座祭祀の継続期間の長さによる所産であろう」と記している。
1区から出土した土師器は最古級のもので、古墳時代前期後葉と考えられている。勾玉は作りが粗く、古墳後期のものとされる。
他にも鉄製の武器・工具など古墳時代中心のバリエーション豊かな遺物構成だが、その後代に当たる奈良時代(8世紀頃)の土馬も出土した。

岩Aとその西側の1区

2区からも手捏土器が出土したが、1区よりは出土点数が少ない。ちなみに1区と2区を合わせて約200~250個体ほどの手捏土器が見つかったとのことである。
2区から出土した鉄矛は、まるで「岩A」に立てかけていたものがペタリと倒れたかのような出土のしかただったというのが注目点である。この解釈が妥当ならば、当時の祭祀具配置の仕方を知る1つのモデルケースとなるだろう。

3区から出土したのは、大別して縄文~弥生時代の土器片、鎌倉時代の経塚関係遺物、江戸時代の古銭類の3種となる。
縄文~弥生時代の土器片の中で、最も新しい時期のものは弥生中期頃で、古墳前期後葉から始まるとされるここの祭祀遺物とは時期がかけ離れているので、これらの土器群は祭祀に関わるものではなく、生活用具の痕跡ではないかと辰巳氏は述べている。

3区の設定目的は経塚の所在を探るところにあったが、経塚は破壊されているようで所在確認はできなかった。ただし経筒外容器の破片は区域全体から出土し、それぞれの破片から経筒外容器が6個体分はあることがわかっている。
これらは円筒形の胴部に蓋が別個付いた容器で、およそ12世紀後半~13世紀初頭に渥美窯で作られたと考えられている。この経筒外容器の破片の約3分の1は「岩A」の割れ目の間から発見されており、「岩A」が経塚そのものとして機能していたことが窺える。

また、寛永通宝・文久通宝・照寧通宝など江戸時代の古銭10枚が出土した。照寧通宝はもともと宋銭だが、これは後代に真似て造られ、江戸時代に日本へ流入したものである。文久通宝5枚は紐が通った状態で出土した。

4区は「岩B」の祭祀状況を判断するために行なわれた調査区だったが、「岩A」ほどの成果は得られず、また「岩A」の1区・2区が古墳時代の資料に満ちているのに対し、「岩B」の4区からは数点の灰柚陶器・山茶碗など、中世の資料が主体を占めた。

最後の5区からは弥生後期の小型壺と思われる底部の破片が1点出土し、同時期の石斧が2点出土した。これも壺・斧の実用的機能上、生活の痕跡と考えられ、辰巳氏は祭祀遺跡成立以前の生活痕とみなしている。したがって、5区からは祭祀に関わる痕跡は見つからなかったということになる。

発掘調査区から外れて、岩A~岩Cの辺りから約15m下った南斜面の巨石裾では、和鏡の破片が採集されている。


山頂から遺物が出土しない意味を考える


こう見ると、古墳時代の遺物が「岩A」の西側~南側だけでしか出土していないのが興味深い事実である。
最も山頂に近い「岩A」「岩B」「岩C」の織り成すトライアングル空間を避けた形で、古墳時代の祭祀遺物は配置されているかのようだ。

特定の岩石の手前「だけ」で出土遺物が偏在し、なおかつ壇上施設という付随設備まで見受けられる以上、古墳時代、「岩A」が祭祀の対象として存在していたことはさすがに疑いない。「岩A」が遺跡中最も巨大な岩だとは言え、ここまではっきり祭祀の対象物が分かる事例も珍しい。

しかし先述したように、「岩A」が当時、石神(神そのもの)として祭祀されていたか、磐座(神が憑依する施設)として祭祀されていたかには検討の余地がある。

個人的には、本遺跡の祭祀構造と類似した事例として福岡県日峰山遺跡を思い出す(梅崎恵司 編『日峰山遺跡-北九州市八幡西区浅川所在の古代祭祀遺跡-』1982年)。
日峰山遺跡では山の頂上からは遺物が見つからず、その山頂直下にある女郎岩と呼ばれる岩の手前から古墳時代後期の土師器群が出土した。山の最高点空間を避け、その手前にある岩の前で祭祀具配置を行なっていることになる。
この祭祀構造と同種のものとして、渭伊神社境内遺跡も最高点やトライアングル空間を避けた上で、その手前にある「岩A」で祭祀具配置をおこなったのかもしれない。

最高地点を不可侵状態にしているということは、そこが信仰対象のテリトリーであると考えれば自然である。ならば、信仰対象のテリトリーの手前にある「岩A」は信仰対象そのものである石神というよりは、磐座の可能性のほうが高いという仮説は成り立つが、これは石神か磐座かの択一に絞った場合の思考実験であり、それら以外の岩石祭祀の可能性も考えられる。
同様に「岩B」や「岩C」は、「岩A」と共に神のテリトリーであるトライアングル空間を形成する結界石として機能していた側面が指摘できるかもしれない。

また、上記の仮説を覆す別の可能性として、古墳時代の祭祀遺物群は、奈良時代以降の祭祀集団によってトライアングル空間の外へ片づけられたという可能性もありうるが、これはある意味「ないことの証明」であり、消極的解釈とも言える。

祭祀場所の移り変わり


古墳時代以降も、本遺跡で考古遺物の出土が続く。
奈良時代の出土遺物は土馬・須恵器となる。土馬は「荒ぶる神を鎮めるために奉献する形代」と考えられており、祭祀の場としての性格が引き継がれたと推測される。
土馬は1区からの出土だったが、須恵器は3区のトライアングル空間内から出土した。この点からは、奈良時代当時ですでに「岩A」限定の祭祀からは離れてきている感が窺える。

中世の経塚祭祀形態になると、祭祀のメイン場所が3区のトライアングル空間に本格的にシフトする。
古墳時代、神のテリトリーであった場所に経塚を築き、埋経したとしたら自然な流れでもあるのかもしれない。仏教の影響により山は不可侵ではなく登りきるものになる流れからも肯けるが、事実はわからない。
「岩A」自身に経筒外容器が差し込まれていた痕跡が見られることから、この当時の「岩A」が経塚施設として機能していたことは確かである。

鎌倉時代以降は目を見張る遺物の出土が途絶えるが、江戸時代に銭貨の投入があったことが今回の出土成果からもわかっているので、岩塊群に対する信仰心は連綿と続いていたことが読み取れる。
生活場所ではない山頂で、しかも渭伊神社の裏山としてすでに神聖視されている場所の中で金銭を落とす理由を考えると、賽銭祈願の痕跡と考えるのが妥当か。

以上の流れから、本遺跡に対する祭祀は、古墳時代の頃から祭祀場所を変え、その性格を変えながらも連綿と続けられてきたと結論づけられる。

付近の岩石祭祀事例


なお、この露岩群から西斜面に下ると、神宮寺川の崖沿いに「鳴岩」と呼ばれる巨岩が存在する。
これは川に面する崖状地形の岩盤の隆起であり、鳴岩付近からも須恵器や灰柚陶器の破片が出土している。

鳴岩

ほかにも旧・引佐町一帯には、本遺跡以外にも岩石祭祀事例がいくつか存在している。そのほとんどを私は未確認だが、わかっている範囲で簡単に紹介しておく。

■幡教寺の巨石
富幕山という引佐町の奥方の山にあるのが幡教寺。詳細不明(竜ヶ石山麓「夢現の岩穴」説明板より)

■浄居院の巨岩群
背山という山にあるのが浄居院。詳細不明(竜ヶ石山麓「夢現の岩穴」説明板より)

■竜ヶ岩
日本有数の総距離を誇る竜ヶ岩鍾乳洞が見つかったのが竜ヶ岩山(標高359m)。その山頂付近に「竜の爪跡が残る」といわれる大岩「竜ヶ岩」があるという(竜ヶ石鍾乳洞出口の説明板より)

■光岩山長楽寺北側の「行者岩」
細江町気賀。岩の頂きから、渥美窯製の経筒外容器の破片が発見されている。経筒奉献が巨岩の上に設けられた岩石祭祀事例(報告書より)

■「夢現の岩穴」
竜ヶ岩山の鍾乳洞観光整備の合間に、新たに発見され神聖視されるようになった岩穴。
現地看板によると、整備の一環で鍾乳洞一帯の清掃をしていた作業員が、たまたまこの岩穴の中に無数の丸石があったのを発見し、これは縁起が良いということで、娘の受験合格をついでに祈っておいたところ、数日後に娘が見事合格したという。そしてそれをきっかけに、この岩穴は「家内安全・合格祈願」の霊験がある場所として整備された。
「縁起がよさげだからついでに祈っておいた」という逸話には、畏れの感情というより「棚からぼたもち」「困った時の神頼み」の感情に近い。畏れを伴わない信仰も成立する。

「夢現の岩穴」現地解説板

夢現の岩穴

竜ヶ岩洞の看板より

光岩山長楽寺の現地看板


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