2016年12月9日金曜日

新溝神社(愛知県岩倉市)

所在地




愛知県岩倉市本町宮西

出典

岩倉町史編纂委員会 「新溝古墳」「岩倉と磐座」「新溝神社」 『岩倉町史』 岩倉町 1955年
浅野平雄 『磐座』 岩倉史談会 1978年
中根洋治 「岩倉市」 『愛知発巨石信仰』 愛知磐座研究会 2002年

概要

新溝古墳という円墳の上に建てられている神社。

円墳上には古くから岩石群があったといい、大正初年に社殿を改築した際に岩石群を動かし、一部を拝石としてまつり、一部を石段の台石などに利用したという。

岩倉市の地名の由来になった「いわくら」とされている。



■新溝神社「いわくら」を巡る記録


『岩倉町史』(1955年)には、堀場義馨『愛知県岩倉町巨石文化遺跡の研究』(1934年)という文献が紹介されており、そこに新溝神社改築時の巨石の状態が詳述されている。

  • 改築時に6個の巨石が出土した。
  • 巨石はそれぞれ1m~1m50cmほどの将棋の駒のような形状をしていた。
  • 6個の巨石は境内の庭石や台石になったり、末社牛頭天王社の拝石になった。
  • 氏子総代や古老の話では、地表下には巨石が集積しており、その周囲を取り囲むように駒形の巨石が配置されていて、6個の巨石はその一部だという。

また、岩倉市の文化財保護委員だった浅野平雄氏が著した『磐座』(1978年)によると、新溝神社の磐座について下記の事実も記されている。

  • 改築の時、巨石群の中心と思われる岩石を本殿の東に立てて拝み石とした。
  • 本殿の西にももう1つ岩石を立てた。
  • 他の岩石は全て古墳下の境内に移した。
  •  古墳の地中を1mほど掘ったところ2mほどの平たい岩石が見えたため、これは墓の蓋石であり恐れ多いということで触らず埋め戻した。

以上の情報を総合すると、古墳の埋葬主体には手を付けず、その上にあった駒形の岩石群のうち3つを拝石(本殿東・本殿西・牛頭天王社)とし、他を古墳下の境内に移して庭石や台石に使ったということがわかる。
興味深いのは、これらの岩石群は古墳の石室石材というより、その上部~墳頂に設けられた別の石材だったと可能性があること。
埋葬主体を埋める時に用いられた角礫であったのか、はたまた、墳頂に石材を持って別の施設が構築されたいたのか、他の可能性もあるだろう。
古墳については須恵器杯が1点出土したといわれており、その型式から6世紀の製作ではないかと考えられている。これが本当であれば、新溝古墳は古墳時代後期の築造と推測される。

■現況


本殿の周囲は玉垣(塀)で囲われているため、玉垣内にまつられているという岩石群は、玉垣の合間から目を凝らして見ることしかできない。
柵の合間からは、確かに駒の形をした岩石が、本殿の西と東に立てられている様子が見える。これが現在も認定されている拝石である。
垣内の本殿南東にはもう1つ棒状の立石が立っているが、これまでの文献記述などを読む限り、これは拝石にはなっていないようだ。


2015年11月24日、この新溝神社磐座の特別公開が催され、垣内に入り拝観することができた。
その折、氏子総代の方から下記のお話を伺うことができた。

  • 2014年の天王祭で磐座を初公開していた。これは2度目の公開。
  • 氏子総代の方が中心となり、地元でも知らない人がいるのでPRしようと昨年あたりから公開準備を進めてきた。
  • 伊勢神宮に行かれたとき、神宮の方から「磐座の石に触れることは神様の頭に直接触れるようなものだから恐れ多い」という話を聞いたので、磐座の手前にある立石を「願い石」と名付け、これに触れて磐座にお願いごとをするという作法を考案した。
  • 墳丘上の木々は伊勢湾台風によって枯れてしまった。
  • 前回の公開時に、新溝神社の御朱印はないのかと要望を受けたので、今回から新たに新溝神社の御朱印をつくった。
2016年の正月3が日にも公開されたらしい。
今後も祭礼日や正月などに公開される可能性がある。ぜひ同好の方はこういった機会に拝観されたい。

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2015.11.24 垣内拝観。右奥が拝石で、左手前が願石と名付けられた立石。





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本殿西側の岩石群。これらも拝み石の一部を構成していたと思われる。

また、末社の牛頭天王社(墳丘上の拝殿東にある祠)にも拝石があるとのことだったが、目立つ岩石は見当たらなかった。もしかしたら祠の中に収められているのかもしれない。
古墳下の境内にも人頭大の岩石などが散在しており、移設された岩石群の残骸の可能性もある。

■岩倉の地名考


愛知県岩倉市の「岩倉」の地名は、この新溝神社の「磐座(いわくら)」から由来するのではないかといわれてきた。『岩倉町史』に収められた「岩倉と磐座」の一節でその説が述べられている。

しかし、いざ読んでみると根拠がいささか頼りない。論旨は、「いわくら」は「磐座」という深い意味を持つ言葉だから、たぶん「岩倉」も磐座信仰に基づくものだっただろうというもの。文章の最後の方になると「しなければならない」「信じたい」と信念的な主張が強い。

そもそも「岩倉」という地名は、織田伊勢守が応永年間(1394~1427年)の頃にそれまで新溝と読んでいた地名を岩倉と改称した(あるいは岩倉城の築城時に改称した)という記録が『尾張志』『地理資料(日本地理志料?)』に記されているのが初出だ。
「岩倉」地名が文献記録上中世を遡らないものであるのに対し、「新溝」の地名初出は『延喜式』(927年)諸国駅伝馬条に尾張国の駅(宿場)の1つとして「新溝駅」があり、諸説ありながらもこれが岩倉市新溝地域のことを指すともいわれている。
また、建久3年(1192年)の伊勢神宮の御厨(神領)一覧の中に「新溝御厨」の名があり、現に岩倉市新溝地域は鳥羽天皇が奉献した神領の名残として神明大一社の存在が伝えられている。
新溝神社は江戸時代まで今宮天王社と呼ばれており牛頭天王をまつってきたが、『尾張国神名帳集説』(1707年)には「従三位新溝天神」の名で記されており、神社が鎮座する地名の小字も新溝廻間と呼ぶ。

このように、「岩倉」地名が僅少なのに比べて、「新溝」地名は平安・鎌倉時代の頃から少なくとも文献で確認できる。
江戸~明治時代の地名考証で「新溝→岩倉」とみなしていた過去の蓄積に対して、『岩倉町史』は、磐座は古い言葉なんだから「岩倉→新溝」でなければならない、そう信じるという強引な論理で押し通している。
歴史学的なアプローチに立つ限り、岩倉よりも新溝の方が由来は古いのであり、思っていたよりも「岩倉=磐座」とする根拠は弱いという思いに至らざるを得ない。

確かに、「岩倉」という地名は岩倉城築城の頃から突如出現し、その理由は明らかにされていない。その語源を「磐座」に持っていきたくなる気持ちも分からなくない。
しかし、新溝神社の岩石群を「磐座」と呼んでまつったのは、大正初年の改築以後の話だということに注意しなければいけない。それ以前に、これらの岩石群をまつっていたという確たる記録・伝承はない。
しかも、これらの新しくまつられた岩石でさえ、呼び方は「拝み石」「拝石」だった様子が端々からうかがえる。「磐座」という表記では記録されていないのである。これらを「磐座」という言葉で表現するようになったのは、大正~昭和戦前期に熱を帯び始めた巨石文化研究者たちによるものではなかったか。そのような論点も提起しておきたい。

「岩倉」地名が仮に磐座祭祀に基づくものであったとしても、それは必ずしも新溝神社の岩石群を指していたとは言い切れない。ただ、岩倉市は沖積平野であまり露岩の目立たない地形のため、他に「磐座」候補を探すのも難しいかも。
1つ言えるのは、新溝神社は古墳の上に建つ神社である以上、磐座祭祀があったとしても、それは古墳祭祀より後であったということ。古墳築造後、後世に磐座祭祀に再利用された可能性は今後の研究しだいで見出せるだろう。

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