2017年7月23日日曜日

石をうたう~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その5~

宮沢賢治は、小学生のころ「石っこ賢さん」と呼ばれていた。

出身地である岩手県の山々に毎週末出かけては、岩石・鉱物・化石などを採集し、それを自分の部屋に持って帰り、コレクションすることに熱を上げていた。

賢治は、単に石だけ集めて満足する人物ではなかった。

岩石だけでなく、それを作り出す成因や、その土壌でもある地質にも広く好奇心を抱き、それが高じて盛岡高等農林学校(岩手大学の前身)では地学を専攻した。

学生時代には、役場から地質図の作成の依頼を受けることもあるほどで、実質に賢治名義の地質図が現存している。
「土壌学、岩石学では並ぶ者のない逸材」と、教授陣からの評価も極めて高かった。

――「いままで勉強してきた岩石鉱物類をこれからも扱いたいと思うけれど、どうもこれらの仕事はみんな山師的であるので最初の職業にするのは気がすすまない」(賢治が父親に当てた当時の手紙より)

宝石研磨商になることを考えた時期もあるようだが、このような苦悩の果てに、賢治は農学校の教諭となり、その後、作家として花開くようになる。

宮沢賢治のパブリックイメージは、岩石と一見結びつかないように見えて、彼の作品の中には、石から着想されたモチーフを見出すことができるという。

――「銀河鉄道の夜」には、黒曜石でできた路線図や、水晶の砂、サファイアとトパーズの珠がくるくる回る観測所など多彩な石が登場する。

――貝オパールを描いた「貝の火」、ダイヤモンドをはじめ色とりどりの鉱物の雨が降る「十力の金剛石」 、ベゴという名前の溶岩餅を主人公にした「気のいい火山弾」、鉱物採集を描いた「台川」、オパールを探しにでかける「楢ノ木大学士の野宿」・・・・・・。賢治がつむぎだす世界では、石は人間のように自らの生涯を回想し、怒り、笑い、病気にもなる。

これらは小説という舞台を借りた、賢治自身の石の哲学であり、人が石を云々する心の発露の一事例と捉えることもできる。

江戸時代に、遊行聖が庶民に、石を人間のように行動させたり、聖人の仏法加護の素材として物語をつけていったと仏教民俗学者の五来重が『石の宗教』で述べていたことを思い出した。

宗教者が石を取り扱う時の心の動きと、賢治の作品作りには相通ずるものを感じるのである。

賢治は最晩年、体調を崩しながらも、砕石工場の技師として働いた。その時の気持ちを推し量ることは難しそうだ。

――作家D・H・ロレンスは書いている。「大地の外につき出た大理石の巨大なかたまりや荒野の原始的風景。(中略)人間たちがどうして石を熱愛するのか手にとるようにわかる。それは石ではないのだ。それは人類以前の時代の強大な大地の神秘的な力の顕現である。」

2017年7月20日木曜日

出雲神社(京都府亀岡市)


京都府亀岡市本梅町井出

出雲神社

出雲神社

境内に巨岩があり、現在の社殿が建てられる前から、「出雲大明神」を称する祠が巨岩の傍らにあったと社伝にある。
神社鎮座以前からのまつり場とされるが、詳細は不明。

西山(数掛山)の南東山裾に鎮座。
西山の山中にも数多の巨岩群が存在するというが、全容が公にされたことを見聞きしたことはない。

出雲神社
西山

廣峯神社(京都府亀岡市)


京都府亀岡市本梅町中野

かつて牛頭天王と称していたが、明治時代に廣峯神社に名を改め、祭神も須佐男之命とする。

正嘉元年(1259年)の棟札が残る。

現社殿の向かって右の道を100m進むと、元宮と呼ばれる場所がある。

廣峯神社

廣峯神社

廣峯神社

元宮は、岩坐と呼ばれる。

小型の石窟・岩屋・石室とでも言うべき人為構造物で、内部に小祠と諸々の奉献物を供える。

周囲には大小の自然石が苔むしていて、一帯を包括して神域が構成されていると言えるだろう。


宮川神社(京都府亀岡市)



京都府亀岡市宮前町宮川

宮川神社

『延喜式神名帳』記載の神野神社とされる。
祭神は伊賀古夜姫命・誉田別命。

神社は神尾山の山裾にあるが、かつては神尾山の山上にあったという。

天正5年(1577年)の戦火により社殿焼失し、現社地に遷座し宮川神社に名を改めたと伝えられる。

本殿の背後崖面には巨岩が露出しており、遷座以前から祭祀場だった可能性もある。

宮川神社
社殿背後の巨岩

宮川神社
巨岩を斜面上から撮影

また、そこから北へ100mほど進んだ山道の脇に沿って、数十個の岩石が並べ置かれた列石がある。

宮川神社
列石(一部)

宮川神社
列石(一部)

神野山は金輪寺や神尾山城が築かれ山中各所に石垣などが残るため、城郭施設・寺院施設の一種の可能性もあるが、いずれの説もl確証はない。

2017年7月4日火曜日

与喜山―山の力と、山と人との距離感の変遷―

雑誌『宗教民俗研究』第26号に論文を発表しました。

日本宗教民俗学会が発行する年会誌で、2016年度分がこの6月に刊行されました。



奈良県桜井市の長谷寺に隣りあう与喜山について掘り下げた論考となります。
2002年から足掛け15年、断続的ではありますが調べ続けたフィールドワークの結果を、紙幅の限り詰め込みました。
いま書いておかないと忘れられてしまう情報を、いくつか後世に残すことができたと安堵しています。

ただ、専門誌ですので、目にする機会は少ないかと思います。

もし本稿に興味のある方がいらっしゃったら、本ブログ最下部の「お問い合わせ」フォームから、メールアドレスを添えて「与喜山論文希望」の旨をお教えください。

論文のpdfを、記入されたアドレスまでお送りしたいと思います。
一人でも多くの方に関心を持っていただけたら著者として光栄です。


2017年6月30日金曜日

石に語らせる~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その4~

心理学者のC・G・ユングには「私の石」があった。

遊び場のほら穴の前に坂道があり、そこに埋まる1個の石をそう呼んでいた。
ユングはしばしばこの石に腰かけ、考えごとをすることが多かった。

――私の石の上に坐ると、奇妙にも安心し、気持が鎮まった。ともかく、そうすると私のあらゆる疑念が晴れたのである。自分が石だと考えた時はいつでも、葛藤は止んだ。"石は不確かさも、意志を伝えようという強い衝動も持っていず、しかも数千年にわたって永久にまったく同じものである"が、"一方私はといえば、すばやく燃え上り、その後急速に消え失せていく炎のように、突然あらゆる種類の情動をどっと爆発させるつかのまの現われにすぎない"のだった。私が私の情動の総体であるにすぎないのに対し、私の中に存する他人は、永久・不滅の石だったのである

ユングは、キリスト教的価値観に基づいた上で、石を次のように考えた。

人間を含めた動物は、創造主が創った「神の小片」ではあるが、神の意思からは独立し、自分たちの意思で動き回り、選択ができる存在になっていた。

それに対して、植物は同じく神の小片であるが、動物と違って場所を動くことはなく一つどころにとどまるため、それはすなわち神が意図する「神の世界」の美しさや思想を表現する装飾物のようなものであった。

では、石もそうかというと、そうではない。
石には、意味のある石と意味のない石が混在している。その造形や外見も時には機械的に見えるものもあればそうとも言えないものもあり、一言で言えば「混乱」している。

石には底知れないものを感じる。
それをユングは「神性」と評し、石は「霊の具現」を含んでいるとみた。

人はつかのまの存在で、石は永久不滅の存在である。
そんな相反する存在同士が惹かれあう理由は、生きている存在と死んでいる存在のいずれにも神性があるからだとユングは考えた。

ユングは、人が生きていて、石が死んでいるとみなしたようだが、私はそこまでシンプルな構図でもない気がする。
人は必ず死を迎えるのだから、人は死の性質を持つ存在であり、石は人が死んだ後も居続けられるから、それを生の性質と表現することもできる。

そうすると、人と石は、ともに「生と死の両方の性質を備えた存在」と汎化することができる。
そこに、ユング自身が石と類似していると感じさせる要素があったのかもしれない。


ところで、ユングは、中世ヨーロッパで流行していた錬金術も、石に神性を認めた一つの例と捉えていた。

数々の錬金術師の残した考えでは、石には霊が宿っており、石を割り砕いて、中に入っている霊を取り出すことで、金以外の物質を金に転化することができると信じていた。
このことからわかるように、霊は創造主的な神そのものではなく、その神がこの地上世界の各所に姿形を変えて散りばめた"神の意思の一片"としての霊である。
本地垂迹的な考え方にも似ているかもしれない。

石に、他の物質を救済できる霊が住まうと信じられていた論理は何か。

ユングによれば、それは石自体が固い物質であることに基づくと理解した。
石の中に霊が入っているということは、霊とは、石という固いものを貫く存在なのだから、他のあらゆる物体の中にも浸透し、その物質の性質を神聖化(=錬金化)できるのではないか、錬金術師はそう考えたのではないかと説明する。


ユングは、極めて石に対する愛しかたが"介入的"だったと私は感じる。

石を見て受動的に何かを感じるというより、石に対して自分から何かしらの働きかけをしないと気がすまなかったのだろうと察する。

たとえば、ユングは48歳の時に石で塔の家を建てている。
その理由を次のように述べている。

――私は自分の内奥の想いとか、私のえた知識を、石に何らかの表現をしなければならない、いいかえれば、石に信仰告白をしなければならなくなっていた。

さらに、ユングは75歳の時、その塔の家の庭に石碑をつくりたいという衝動にかられた。
三角石を注文したが、手違いによるものか、なぜか四角の石塊が運ばれてきたという。
しかし、ユングはその石塊を見てこう言う。

―― 一目みただけで、それは私に全くぴったりしたものであり、その石で何かしたいと思った

石の表面に目のようなものが見えたので、実際にユングは目を刻み、周りに小人の像を彫り、石自身の言葉としてユングが創った詩文を刻んだ。
彫刻を自ら行うため、ユングは実際に石工の組合に入り、石工の服装をして、喜んでノミをふるったという。

ユングの、石に対する付き合い方の根っこの部分が明らかとなるエピソードである。
「石に語らせよう」とユングは思ってのことだったが、その行動の発露は人によって千差万別。

"石ぐるい"の形もさまざま。

待っていても、もどかしい石の"静"に対して、ユングは人間として積極的に"動"の愛しかたを石へ表しにいったと言える。

2017年6月26日月曜日

元伊勢内宮皇大神社・天岩戸神社・日室ヶ嶽(京都府福知山市)


京都府福知山市大江町内宮

元伊勢三社

元伊勢伝承地「吉佐宮(よさのみや)」の比定地。

ただし、吉佐宮の比定地としては他に京都府宮津市の籠神社があり、むしろ籠神社の方が支持する人が多いのが一般的で、当社はやや陰に隠れている。

かつてより地元では「大神宮(ダイジング)さん」と呼ばれ信仰を集めていたという。

当社は、麻呂子親王の伝説を伝えている。
麻呂子親王は用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟にあたる人物。
麻呂子親王が大江山の鬼退治に赴いた時、戦勝祈願のために伊勢神宮の神々を祭る内宮・外宮を勧請したということから、当社はいわゆる「天照大神の元伊勢」と違うところから発祥したという説もある(大江町誌編纂委員会編『大江町誌』通史編上巻、大江町、1983年)。

また、『延喜式神名帳』によればこの辺りに不甲神社という延喜式内社が鎮座していた。不甲神社の名は今に伝わっておらず、比定地の一つとしてそれを当社が挙げられている(村上政市『神と鬼の棲む山-元伊勢と大江山-』日本の鬼の交流博物館、1994年)。


2017年6月18日日曜日

石に踊る~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その3~

ここで徳井氏は、石と岩石と鉱物の3つの概念について整理している。

石は、岩石と鉱物を含めた包括的な概念とする。

石垣・石臼などの具体的な用語に冠せられるだけでなく、石頭や「石の上にも三年」などの抽象的な言葉にも使われるのが「石」であるため、学術的には「石」という言葉を使用することは漠然で難しいとしている。

岩石と鉱物は"群衆と個人"にたとえられるという。
鉱物学者の益富寿之助の考えによるものらしいが、いわく、

「岩石は何の秩序もなく集まっている群衆のようなものである。」
「鉱物はただ一人ポツンといる人間のようなものである。」

この場合における「群衆」とは、あまり肯定的な意味を持っていない。
石もなく、個性もないといった意味で、群衆といった言葉が使われている。無秩序が、マイナスイメージで理解されている。

一方の「個人」は、自立していて、のびのびと自らの個性を出しているという、プラスの意味で使われている。
個人主義へのあこがれが強かった時代背景も、あるかもしれない。

このイメージ付けに正解はないと思うけれど、私は、輝かしい価値を皆が感じる「鉱物」よりも、一顧だにされない「岩石」のカオスに惹かれる。

――自分が採った石はね、ひとつひとつに思い出が詰まっとります。

――自分の石見てるとね、日記つけてないけど、ついとるんです。

鉱石が採れる滋賀県田上山に、休日をつぶして年間50日通う"石ぐるい"、小林進さんのインタビューである。

――宝石屋の石を見ると、ちょっと淋しい気がするね。完全に加工してあって、僕らにはガラスか何かわからへんもん。見た目では同じのがいっぱいある。

宝石が無個性なら、"鉱物は個人" という先の論理からはズレてしまうが、つまりは論理ではないのだろう。
群衆と個人は、時代背景色濃い後天的な哲学と感じる。

同様に、宝石に価値を持つ"石ぐるい"も否定されるものではなく、どちらもいて当然と言える。
だから、石を通して人が見える。

――これはね、腐らへんのですわ。いつまでもなんの手入れもしなくても、九十九パーセントの石は、僕がもってるあいだなら原形を保っていてくれる。

石の永遠性。
同時に、人の非永遠性がコントラストであぶりだされてくる気がする。

人は、石を踊らせることはできない。いつも、人は石に踊らされる立場でしかない。
無常感は人に不安感や悲壮感を連れてくるが、石という不安も悲壮もなく踊らされることもない存在に出会うことで、人は心を踊らされる。

石を見つめることで、人が不安定で小さな存在であることを自覚する。
そう内省することで、ある人は謙虚な面持ちになり、ある人は自然へのまなざしを変え、ある人はそれに抗おうと自らを成長させるのかもしれない。

――人間の永遠に生きたい、という気持ちとつながっているのかもしれませんね。

小林さんが言及する哲学的な部分。
本来は、意識していなかったのではないか。
インタビュアーに聞かれたから、言葉を探してきたまでで。

言語というのは、本心と必ずしも一致しないのに、言葉に乗ると話者を離れて独り歩きするパワーがある。
研究者としては、他山の石としたい記述だった。

――僕はグチャグチャとした粘土のような石が嫌いです。直線のある石、透明度のある石に惹かれるんです。

"石ぐるい"にもいろいろいて。

私は、石を集めることはしないけれど、グチャグチャとした粘土のような石、好きです。


2017年6月11日日曜日

いちべ神社

職場に届く四日市プラトンホテルのチラシ

5月の表紙


そりゃあ反応しますよね。

どこだこれ。


鳥羽市のホテルマリテーム海幸園の敷地内にある「いちべ神社」だそうです。

「抱きつき聖石」のパワースポットとして、名所になっているとのこと。

歴史的経緯を知らないので、私はそっち目線で気になってしまいます。


2017年6月8日木曜日

石に落ちる~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その2~

――石ぐるいの圧倒的多数は、どういうわけか男性である。

巨石ガールという名前がかつて作られたように、本当か?と思う。

よく読むと、この石ぐるいは「石を集める」ほうの石ぐるいに限った話だった。

でも、宝石を好むのは女性というイメージがある。
いずれにしても、「石を訪ねる」ほうの石ぐるいについて照準が当てられていないのは残念だ。

――石ぐるいに半端でない憑かれかたをしている人が多いのは、たぶん石の性質によるところが大きいように思われる。あるいは石には独占欲の強い女のようなところがあって、すべてを捧げられないなら、いっそさっさと荷物をまとめて去ってしまおうという薄情なところがあるのにちがいない。

江戸時代、石集めに人生の大半を捧げた木内石亭に対する徳井氏の評の一つである。

女性の性質に例える辺りが女性らしい視点で新鮮だが、山の神の女性信仰にも通ずるところがある。
石の性質を人に例えるのも、中近世に遊行して庶民に仏法を分かりやすく説いた聖たちと同じアプローチに感じる。

石の性質は、人に通じるのだろうか。

――私は何人かの石ぐるいたちに同じ問いを投げてみたことがある。誰もが長いあいだ考えこみ、ぼそぼそと言葉少なに語られた答は、きわめて漠然としたものだった。「美しいから」「永遠だから」「同じものがひとつもないから」・・・・・・。どの答もあとから思いついた言いわけのように聞こえるのだった。

「石集め」の石ぐるいの話ではあるが、「石訪ね」に興じる私に問われても、こんな感じである。

昔から言っているが、人に石の魅力を語る時が、いまでも一番難しい。
そんなの、もう見てください、という気持ちでいっぱいいっぱい。
でも、無理矢理見せても共感性は得られないので、そもそも魅力を口に出したり、薦めたくもないという考えも湧きたつ。

自分から動いて出会った人にだけ、同じ気持ちが抱けるのではないか。

もう1つ言うと、同好の士と石の話をしたとしても、結局、私はあまり石の魅力を語ったことがないし、語れる力量を持っていない気がする。

口に出した瞬間、石の魅力の10分の1も語れていない自分を自覚しているので、石に対して失礼という感情が勝るのである。
だから、石ぐるいは黙るんじゃないかなあ。
少なくとも、私はそうです。

徳井氏はここから、石にのめりこむ理由などないのだと断じるが――もちろん後付的、理屈的な理解であれば無意味であるが――、それでは納得しない自分もいるので、今しばらくあがいてみたい。

2017年6月6日火曜日

岩上神社(京都府舞鶴市)


京都府舞鶴市寺田

岩上神社(舞鶴市)

寺田地区の産土神。

岩上神社(舞鶴市)

石垣を積んでいるというわけではなく、自然の石灰岩の上に社殿を建て、階段を敷設している。

岩上神社(舞鶴市)

岩上神社(舞鶴市)

京都新聞の記事『岩石と語らう 133 岩上神社』(1999.6.22)で当社が特集されている。

同記事によれば、2億年以上前の石灰岩層が露出した大きな岩塊の上に社殿を建てたのが岩上神社で、由来は不詳ながらも、一説には神社の裏山に中世築かれたという寺田城の守護神だったともいわれる。

ほかにも、大事なものをなくした時に神頼みをすると必ず見つかったという話(いわゆる民俗学でいわれる膳貸し伝説)や、産後の乳の出を祈願する信仰があったと伝えられる。
石灰岩という白乳色でふくらみをもつ岩質が、乳の出の信仰につながるのだろうか。

二つの川の合流点近くに立地するという山裾の自然環境も、信仰の要素とは無縁ではないと思う。


2017年5月28日日曜日

石の履歴 ~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その1~

作者の徳井いつこ氏はアメリカ在住のフリーライターで、アメリカ文化・インディアン文化の著作を手掛けている。

その徳井氏が、古今東西の「石ぐるい」たちを取り上げた石の本が『ミステリーストーン』(筑摩書房、1997年)である。
スピリチュアルや超常現象の本ではない。

読後の感想としては、石の本というより、石に魅せられた人の物語集を読んだかのようである。

石を目の前にした人の価値観の広さがそこにあった。
石に関心を持たない常人には、文章の意味は分かるが、理解の及ばない世界である。

石は、人間研究と言っていいのではないか。
私でさえも、視野を広げてもらったような気がする。

そのような感慨を抱きながら、本書を紹介していきたい。

――石ころの何が私を惹きつけていたのかはわからない。

まずは、作者自身の「石ぐるい」の経歴から話は始まる。

小学生の時、クッキーの空き缶に自分の色々なコレクションを入れていて、その中にたくさんの石ころが詰まっていたそうだ。

――おそらく子どもの私は石をさわりながら世界の手触りをたしかめていたのだ。(中略)世界を所有しているように感じていたのかもしれない。

石を通して、世界を知るということ。
世界の知り方の具体例として、下記を思い出している。

  • 石を集めている感覚は、カラスが光りものを巣に集めるような感覚に通じる。
  • 真夏に日陰の石に触れると、冷たさを感じられる。
  • 水につけると色が変わる。
  • 石はひとつとして同じものがなく、ロールシャッハテストの絵のようだ。
  • おままごとの道具に使っても、その見立てがどれだけ勝手気ままでも黙ってつきあってくれる。
  • 投げても蹴飛ばしても文句を言わない。

その極致は、この石ころたちは、缶ごと、どこに行ってしまったか作者自身覚えていないということ。
石はどれだけ文句を言わないのか。世界を所有できているのかということである。


いったん石を忘れた作者だったが、大人になり「石がふたたび私の視野のなかに入ってきた」。

鼻煙壺(びえんこ)という、18世紀のフランスで流行した嗅ぎタバコの小道具を店頭で見かけたのだという。
壺の材質は金属からガラス・磁器・象牙など千差万別だったが、ほとんどは人の手で加工された素材だった。

その中に、電気石の結晶を切り出した、石の自然の模様を素材にした壺があり、作者の言葉を借りれば「ひとり超然とした美しさで立っていた」。

この石を見て、作者が次に感じたのは、人のドラマだった。

――これを所持していたのはどんな男だったのだろう

石を見ながら感じるのは、石そのものだけではなく、まさに「石の履歴」である。
石を美しいと感じると同時に、石を美しいと感じて、それを壺に仕上げた人間、そしてそれを所有した人間について、思いをはせるのである。

――もしかすると、私は石そのものではない何かに惹かれはじめていたのだろうか。


2017年5月26日金曜日

大岩神社(京都府福知山市)



京都府福知山市大江町毛原

毛原地区の氏神である。

元不甲道(もとふこうどう。元普甲道)という、丹波の大江から丹後の宮津に通じる古道があり、大江山越えをする際の主要道として、古くより数多の人の往来があったとされる。

単なる街道としてだけではなく、中世には普甲寺という一大山岳仏教寺院が栄え、その参詣道としても盛んに利用された。
現在、その場所は不明ながら、普甲寺の近くには延喜式内社の不甲神社もあったと推測されている。

その元不甲道の途上、毛原峠の南に鎮座するのが大岩神社である。
社号の由来となった岩塊が燈籠・鳥居と共にまつられており、「岩神さん」と呼ばれている。

周辺はよく擦り減った石畳の道が残っており、鬱蒼とした峠道の雰囲気とあいまって、中近世当時とほぼ変わらないであろう空気感を今に伝えている。

大岩神社(毛原)


大岩神社(毛原)

2017年5月22日月曜日

岩石にまつわる随筆・エッセイ

『日本の名随筆 石』を読了し、次の宿主を探しに行きます。

ブログ「石と在る」
http://makabekt.cocolog-nifty.com/makabekt/

10年以上前から知っているブログです。

2008年を最後に更新が止まってしまいましたが、今頃になって、とうとうこのブログ主の方の関心事と響き合うことができた気がします。

このブログで取り上げられている文献量を一瞥するだけで、境地の高さを感じとることができます。

今更ながら、教えを乞いたいものです。

「石と在る」で紹介された数々の文献を手掛かりに、岩石の哲学をさらに深めていきたいと思います。

題名だけ見て引かれたのは、まず下記の文献。
紹介されている中の、僅か一部です。


石の神秘力  別冊歴史読本 特別増刊 野村敏晴
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ミステリーストーン (ちくまプリマーブックス) 徳井 いつこ
ミステリーストーン (ちくまプリマーブックス)
徳井 いつこ
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悠久の時の彼方に誕生した石たちは、遥かに送れて地球に登場した人類を魅了し続けてきた。人間は石とどのようにつき合ってきたのか。想いがけない石たちの素顔と人間の想像力があやなす、石の博物誌。

石のはなし 白水 晴雄
石のはなし
白水 晴雄
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石の世界は、探ってみると思いのほか広大で多様です。その中で、最もふつうの石に焦点をあて、野外の自然景観をつくっている石、建築石材、庭園の庭石を中心に、人工の石、化石、宇宙の石なども加えて編まれた石の話。

石ころの話 (地人選書 17) R.V.ディートリック
石ころの話 (地人選書 17)
R.V.ディートリック
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機関誌「高梁川」38号 特集「石」
http://takahashiryuiki.sakura.ne.jp/program/takahashigawa/
-葬制と石     佐藤米司     p.40
-石の文化     岸加四郎     p.50
-阿智神社と天津磐境     小野一臣     p.80
-天王山の磐座・磐境     武遣臣夫     p.84
-石の妖怪     水木しげる     p.104
-石をめぐる故事と諺     青山忠一     p.126
-石の子     宇佐見英治     p.128
-石の連想     壺阪輝代     p.132
-石とレンガ     岡田幸二     p.152
-石には季節がない     寺田武弘     p.170

石の世界は狭そうに見えて、広い。

時間を作って、1冊ずつ読んでいきたいと思います。
ブログは私にとって備忘録代わりであり、定期的に岩石を勉強するための仕組みでもあります。

個人的には、海外視点や後天的な環境によるものを除外し、先天的ないし汎世界的な視点で、岩石へまなざしを向けた本に出会いたいです。

2017年5月16日火曜日

生駒山寶山寺の般若窟(奈良県生駒市)


奈良県生駒市門前町1-1

生駒聖天

通称、生駒聖天として知られる生駒山寶山寺は、伊勢国出身の湛海律師の開山によって、貞享5年(1688年)に初めて本堂が建立された。

ここに寺を開山した理由は、寺伝によると本堂裏にある朝日嶽の般若窟にあると伝えられる。

生駒聖天

般若窟は、由緒書によれば「中生代、古瀬内火山に属する一火山の噴火口類」とされる自然の岩屋である。

この窟は、役行者が修行して大般若経を納めたと伝えられる聖跡で、また、若かりし頃の弘法大師が修行したという伝承も付帯していたことから、それを聞いた湛海律師が「ここで弘法大師と共に弥勒菩薩下生の時を待つ」と語り、寺を開いたと伝えられる。

実際のところは不明であるが、湛海律師が入山した時、般若窟の頂上で古い五輪塔がすでにあるのを見たという。
般若窟の平坦地でも、弘安5年(1282年)の銘が入った石塔が発見されている。

また、般若窟に以前からまつられていたとされる神として、岩船明神と弁財天がいる。
湛海律師が入山まもなく、まだ般若窟を見つけていない頃、深夜に怪物に抱きしめられ、後日、その怪物に似た「ごつごつとした岩」を般若窟の岩船明神社で見かけた。
さらに、ある弟子の顔が弁財天に見えた時があり、麓にあった弁財天社が「お山に帰してほしい」と言い出したため、元の場所といわれる般若窟に戻したのだといういわれがある。

生駒聖天

般若窟は上写真の通り、立入禁止となっているが、窟の奥に見えるのが岩船明神社と弁財天社である。

このように、伝承上であるが寺院開山以前からの神々や聖跡を宿す岩窟であることがわかる。

<参考文献>
『生駒山寶山寺 寶山寺資料』 寺務所にて購入

2017年5月12日金曜日

猿田彦神社の賽の神(奈良市)


奈良県奈良市今御門町1番地

道祖神社(奈良市)

奈良市の中心繁華街「ならまち」の街角にある神社。

道祖神社(奈良市)

看板の通り、巨石は「賽の神」として勝負の守護神として信仰されたとあるが、道祖神の名から分かる通り、元々は「塞の神」(境界の神)として出発したものだろう。




2017年5月7日日曜日

矢内原伊作「石との対話」 ~『日本の名随筆 石』を読む その15~

――石の家に住まぬ日本人は、それだけかえって石に特別の思いをよせ、石によってさまざまな感情を養ってきたのである。

古墳の石室に葬られた被葬者は、石の家に住んでいるとみなされるだろうか。
石の家に住む者が人ならざるものを示すとするなら、被葬者が祖霊となり、磐座に宿るものが神となるのもうなずける。
――石をたてることは自然に対して抵抗することである。

『作庭記』の、まず石をたてることが肝要とする旨を思い出す。
作庭という行為は自然のままを是とせず、人から見た自然の創造となる。
自然への抵抗を恐れるから、禁忌が多いのだろうか。
こう考えていくと、「作庭」と「祭祀」の境界線がないような気がする。
――われわれが一つの石を見て感動するのは、その自然の造形の背後にある地水火風の力を感じるからである。

たとえば、石が川水の浸食で丸い石となるところに水の力を感じ、 長年の風化で凹凸を生じた岩崖に風の力を感じる。
山頂の地表面に露出した岩盤を見て、その地中深くにまで根を張る山の基盤を想像することもあるだろう。
石そのものを見てどうこうというだけではなく、石が通ってきたストーリーを想像することで、石に自然の偉大な力が帯びてくる。
――石という呪術的信仰の対象を美意識の対象に転ずることによって、竜安寺(京都)の石庭をはじめ、多くのみごとな庭園ができたのだった。(中略)造形の美ではなく、実は自然の霊力といったものではないだろうか。

神聖なものと美しいものの違い(差)は、岩石に限らない大きなテーマである。
信仰の対象を美意識の対象に転ずる、とは簡単に言うが、どのような心の転化なのだろうか?
信仰には信仰対象の尊重からしばしば祭祀行為の中で自己犠牲が伴うが、美しさの認定は必ずしもそうではなく、自己本位的な価値判断ですむ。鑑賞するだけでいいのだから。
祭祀行為の有無がこの二者の区別と見ることもできるし、祭祀行為がなくなり観賞の対象となる中で、信仰対象主体の考え方から、人間主体の考え方に移行している心の移り変わりも感じとれる。
――かたくつめたい石はきびしく声明を拒否している。しかし、それだけにかえって、無言の石は、動物や植物以上に自然の力を強く感じさせるのである。

以前、「墓石や石のことわざも岩石信仰なんですか?」で石のことわざに触れたが、石を冷徹で正規のないものと表す言葉があることは確かである。
一方で、それだけでないことわざがあるのも指摘したとおりであり、石に対する人々のイメージが一面的ではなく多面的であることを示している。
石の哲学も、作者それぞれのイメージから発露されるものであり、多くの哲学の渉猟が必要である。
――人類がはじめてつくったもの、それはいうまでもなく石器である。石は自然に抵抗する自然だとわたしはいったが、その石を用いることによって人類は自然に抵抗し、さらには自然を支配することを知ったのだった。

宇佐美英治「殺生石」でも同様のことが語られていた。
人類がはじめてつくったものが石器とは限らないが・・・。
考古学では、石が無機物で残りやすいから資料として目立つということは半ば共通認識なので、土になってしまった有機物に対するまなざしは必要だ。
当時の人々にとって言語化されていない理屈があっただろうから、それを言語化することが、歴史に対する正しい研究法なのかもよく考えないといけない。

2017年5月4日木曜日

ひかる石(三重県いなべ市北勢町)


三重県いなべ市北勢町皷

皷地区の薬師堂にケヤキの木がそびえている。

光る石

ケヤキの幹に、石が刺さっているのがわかるだろうか。

光る石

光る石

光りかがやくことから「ひかる石」の名がある。

かつて、ある庄屋がこの石を自宅の庭に移したが、日を追うごとに光が弱まり、ある夜、「さじべえ(薬師堂のこと)行きたい」と泣き声を上げたことから、驚いた庄屋は元の場所に戻したそうである。

その後、ひかる石は泣き声を止めて、再び光を戻したそうだ。

<参考文献>
員弁郡国語サークル編 『国民教育シリーズ32 いなべの民話』 員弁郡教職員組合 1985年

土生神社の三つ石(三重県いなべ市大安町)


三重県いなべ市大安町梅戸字三ッ石

土生神社の三つ石
土生神社境内。注連縄が巻かれた三体の石が参道の両脇に見える。

土生神社の三つ石

土生神社の三つ石

土生神社の三つ石

当地を梅戸井といい、かつて三つの村があった。

この三つの村の堺にあったとされるのがこの石で、「三郷の堺石」とも呼ばれていた。

願い事を叶えてくれる石として、地元の人々がよくお参りした。
石を揺らすと雨を降らせたり、オコリなどの病気を治したりと万能の霊石だったようだ。

このような民話がある。

ある時、梅さんと竹さんという二人の村人が、この石を自分たちだけのものにしようとして、一番軽そうな石を掘り出そうとした。
しかし、掘れども掘れども終わりは見えず、やがて二人は石化して亡くなったという祟り伝説を持っている。

この石の存在から、梅戸井郷の一称として三石郷の名がある。

<参考文献>
大安町教育委員会編 『大安町史 第1巻』 大安町 1986年
員弁郡国語サークル編 『国民教育シリーズ32 いなべの民話』 員弁郡教職員組合 1985年

2017年5月3日水曜日

しゃごさんの石/しゃごんさんの石(三重県員弁郡東員町)


三重県員弁郡東員町大木字南条屋敷

個人宅敷地内に現存。
所有者の方に許可を得て拝見した。

しゃごさん


しゃごさん

文化・文政年間(1804年~1830年)に著された松宮周節『伊勢輯雑記』に、神石としてこの石の記述がある。

元はこの地に赤口神社(社護神社)があり、久那斗神を祭神としていた(現在は大木神社に合祀)。

大木の八幡神社(これも現在は大木神社に合祀)の御旅所で、歳迎えの宮とも呼んだ。

御神体は金の鳥で、この金鳥のおかげで当地は雷が落ちても火災に見舞われることはなかったという。
(なお、当地の近辺には秋葉姓を名乗る方が多く、火伏の秋葉信仰との関連性が強い)

その金鳥が降りた石といい、石自体も神聖視された。
石に触ると「ネブト」(腫物)ができ、足を乗せると足に病が出て歩けなくなると信じられた。

しゃごさんの石(『いなべの民話』によれば しゃごんさんの石)として、東員町を代表する民話の1つとして各種郷土資料にも収録されている。

とある旅の男がこの石に腰を掛け、隣に咲いていた山つつじの枝を折って自分のわらじをはらい、そのわらじを石の上に置いた。
一休みしてから歩き始めたものの、歩くごとに足が重くなり、しびれるような痛みがさしてきた。
その時、「先ほどの石まで戻れ」とどこからか声が聞こえ、石まで戻ると、石の上にはわらじの土がくっついていて、山つつじの枝も石の周りに散らばっていた。
これが原因と恥じ入り、石の上の土を掃除して、枝も石の周りの土にさしてお詫びをしたところ、足の痛みは引いていった。
のちに、旅の男はこの時の声の主に感謝の気持ちとして、鈴鹿の山裾の村に祠をまつったという。

しゃごさんの名は、赤口神・社護神すなわちシャグジとしての石神に通じ、シャグジは境界の神と目されるが、詳細は不明である。

当地を案内していただいた地元の方によれば、本石と同じような青石を御神体に用いる神社が近辺に多いとのことである。


<参考文献>

員弁郡国語サークル編 『国民教育シリーズ32 いなべの民話』 員弁郡教職員組合 1985年
東員町史編さん委員会編 『東員町史 下巻』 東員町教育委員会 1989年

ゆうれい石(三重県四日市市)


三重県四日市市西坂部町御館

個人宅敷地内に現存。
所有者の方に許可を得て拝見した。

ゆうれい石

ゆうれい石

ゆうれい石

ゆうれい石

この場所を「そうれん墓地」とも呼ぶ。

高さ50㎝程の、手で持って運べるような大きさの、何の変哲もない石である。

が、この石を家に持って帰ると、寝ている時に女中装束の女のゆうれいが現われるという。
きまって、畳をほうきで掃くようなしぐさを見せるという。

真偽を確かめるため、複数の人がこの石を持ち帰ったが、晩になって例外なくゆうれいが枕元に立ったため、皆おびえてその石を元の場所に戻したという逸話も付帯している。

『みえの民話』の考察によれば、菰野の千種城主の愛姫がこの地で家臣に殺され、その怨念が宿った石ではないかとされている。
根拠として、遍照院の名僧が供養で読経したところ、千種家の紋である笹龍胆が石の上にボオッと浮かんだと語ったとある。

このように聞くと、忌避される存在のような石だが、次のような話もある。

所有者の方の話によると、この石は足の病にご利益があると信じる人がいて、かつては願掛けに来る方もいたという(なお、近くには日本武尊の足洗池がある。関連性は不明)。
今はもう、ゆうれい石を訪れる人も絶えて久しいとのこと。

数十年後には、ゆうれい石の存在も風前の灯かもしれない。

<参考文献>
四日市市三重長寿会 編・発行 『みえの民話』 1977年

2017年4月25日火曜日

能勢七面山の岩神(大阪府豊能郡能勢町)


大阪府豊能郡能勢町倉垣

概要

能勢町と京都府亀岡市の境にそびえる釈迦ヶ嶽(標高512m)。
その南西に伸びる尾根一峰(標高470m)を七面山と言うようだ。

この山は、七面山七寶寺、能勢の高燈籠といった、その方面では濃厚な宗教スポットを擁する。
これらに挟まれるように、歌垣神社と石用山涌泉寺がひっそりと佇む。

歌垣神社と涌泉寺は隣接しており、鎮守-宮寺の関係だったらしい。

裏山中腹に巨岩が露頭し、麓からもその姿が確認できる。
かつては、この巨岩を岩神と呼んでまつったのが歌垣神社の起源であるという。

伝えるところでは、康保2年(965年)に初めて苗代祭りを行ない、建久7年(1196年)に神社を現在の山腹に遷座し、嘉永2年(1625年)に牛頭天王が勧請され、明暦元年(1655年)に日蓮宗総本山身延山の七面天女を岩神の旧址にまつり、明治時代に近在の6社を合祀してその時に地名から歌垣神社と名付けられたという。

能勢七面山の岩神

所感

信仰上の画期は、江戸時代における牛頭天王の勧請と日蓮宗の影響である。

牛頭天王勧請以前、この神社が何をまつり神社名が何だったのかということがはっきりしない。
素盞鳴命のままだったかもしれないし、合祀祭神を除いた中で一柱として載っている大山祇命かもしれないし、祭神記録にも残っていないが宇賀御魂命だったという一説もある。

江戸時代、能勢一円における日蓮宗改宗の動きは活発だったようで、涌泉寺もかつては真言宗龍泉寺だったのが日蓮宗となり、山号・所在地も改めたという。
岩神にも法華経を守護する七面天女がまつられ、山の名前も七面山(甲斐国日蓮宗霊山の七面山に由来)と称された。
涌泉寺が掲げる石用山の山号も、山の特徴を表しているような感がある。

岩神への道はなく、歌垣神社の背後の斜面をひたすら登る。
 地図的には、七面山七寶寺の方から登ったほうが近道になるが、七面山七寶寺は登山のための通り抜けを禁止しているため、このルートは推奨しない。

山の斜面を登っていくと、各所に思わせぶりな露岩群が見える。20分ほど登ると視界が開き、高さ10m以上はあると思われる岩神に到着する。

能勢七面山の岩神

岩神は、崖状に落ち込んだ巨大な岩盤の頂面に、斜め上に突き出た立岩状の岩石が乗っかかり、その2つの間に別の岩塊が差し込まれたかのように挟まっている(詳しくは下写真を参照)。
急斜面の立地にあるので、転石に伴う自然の造形と推測されるが、まさに「天然の屋根」である。

能勢七面山の岩神

また、この岩神の西に接して、頂面が平らな平石とその奥に屏風のように立つ岩石があり、まるで祭壇か修行の台座石かのような光景を見せている。これは人工的と言われてもうなずいてしまいそうな構造物である。

能勢七面山の岩神

さらには、岩神の下方に、転石によるであろうドルメン状の構造物があり、その辺りに郵便受けのような金属製の箱が転がっていた。
裏返してみるとそこは空洞になっており、おそらくこれは小祠を中に収納して雨よけ保護していたものだったと思われる。七面天女の祠の名残だったかもしれない。

能勢七面山の岩神