インタビュー掲載(2024.2.7)

2017年12月29日金曜日

山上隆志「リーディング・ソースへの警鐘」~『石の神秘力』を読む その4~

リーディングは、オカルト分野では有名な用語として知られる。

通俗的には、霊的な能力者が人や物に触れたり透視するだけで、「高次のレベルの情報」を読み取ること。これをリーディングと呼ぶ。

さまざまなリーディングの担い手がいて、彼らが残した文献や発言を山上隆志氏はリーディング・ソースと呼んでいる。

このソースの取り扱い方について警鐘を鳴らしながら、その例として石を取り上げている。

たとえば、トルコ石の場合はこうだ。
古今東西の能力者のリーディング・ソースを下に要約する。

レノーラ・ヒュエット「ある特定の人にだけ、治療の石として効能があるが、治療能力がない人にとっては無意味な石だ。」

ジュリア・ロルッソ「トルコ石は昔流行った遊びで、今の時代には効果がない。」

ラマ・シング「トルコ石は治療石以上の作用がある。全員に作用する。」

さて、どのリーディング・ソースを信じようか?

全てのソースを信じると矛盾が発生するし、どれか一つのリーディングを信じる根拠をどこに置くのか。

むしろ、一つのリーディング・ソースしか知らない人は、このようなことがあるから危険なのではないか?

このような、ソースに関する知識の狭さや特定のものだけしか知らないことがいかに危険であるかと、山上氏は警鐘しているのである。

人によってリーディング結果が異なる理由として、山上氏は3点を提示している。

1.効果はその人によって異なるので、各リーディング・ソースが想定していた個々人が違うから効果も変わるのではないか。

2.頭の中で石をイメージしただけのリーディングと、実際に石を目の前にしたり手にしたりしたリーディングでは、感じ方が違うのではないか。また、石の個体ごとの純度によって作用が変わるのではないか。

3.リーディングをした人の問題。石に知識がない、リーディングできなかったから他の理屈から引用したなど。

ものは言いようで、もはや何でもありなような気がするが、山上氏がさらに考慮すべきなのはプラシーボ効果(思い込み効果)だという。

――ストーンパワーがあると確信して使うならば、プラシーボ効果によって、石の力はその人に発揮される可能性は、かなり高いと考えられる。

これは信仰の領域であり、石を別の事物に置きかえても広く通用する、人間に備わった心性ではないだろうか。
人間に備わっている性質であるなら、意図せず利用される側ではなく、意図的に上手に利用したいものである。

山上氏は、気に入ったリーディングならどれでも正解だし、気に入ったリーディングがないなら古い文献から探してみるのもいいし、オリジナルのパワーストーン・チャートを作ってもいいとまで述べる。

最終的には、自然の石を見てピンときたら、理屈など不要で、その石があなたにとってのパワーストーンなのだという結論にも行きついている。

山上氏が言いたいのは、リーディング・ソースを盲信して、ソースに見合った石を探すという付き合い方をしていると、自分の目や感性を曇らせてしまい、自分にとってぴったりの効果が得られなくなってしまうということだ。

恐ろしいほどになんでもありな話となってしまった感があるが、スピリチュアルな人の物事の考え方の一端を理解できた気がする。
けっして批判的に言っているのではなく、 信仰当事者である能力者の価値観も、このように自身の五感が異常に確立されていて、そこに周囲の他者が影響する余地はないということだろう。

いわゆるリーダーと呼ばれる人間に共通する価値観と捉えれば、これは信仰や宗教という枠組をもっと普遍的に広げられる、人心の概念とまで言える。

一方、石そのものについてはより一層わからなくなってしまった。
私は、まだ石を知りたい。

2017年12月14日木曜日

礫石(三重県松阪市飯高町)



紀州街道の珍布峠に接して櫛田川が流れ、川中に礫石がある。
天照大神が伊勢外山との国境を決めるために川に投げ入れた石と伝えられる。
詳細は以下の現地看板が詳しい。

礫石

礫石

礫石

礫石

礫石

礫石

礫石

2017年12月7日木曜日

倉石忠彦「石のイメージ―石神と道祖神―」紹介

岩石信仰に関する新たな論考が世に出されました。

民俗学者の倉石忠彦氏が『長野県民俗の会会報』第40号(2017年11月刊)に発表された「石のイメージ―石神と道祖神―」です。

同好のみなさまに向けて、当論考の概要を節ごとに紹介いたします。
岩石信仰の深みを知る一つの書として、広く知られれば幸いです。長文となりましたので、ご関心のある方はお時間のある時にお読みください。

一 問題の所在


倉石氏は長年、道祖神について研究を続けてきた。
その中で、道祖神が石の形で表されるケースに出会う。

ただし、道祖神=石ではないのと同様に、石=道祖神でもないことは承知の上で、道祖神と石神という2つの信仰はどのように相互影響しあって、現在のように境界線を引きにくい混然一体の存在となったのか。

道祖神研究の専門家である倉石氏が、道祖神なるものをさらに追究するため、石に対して日本人がいかなる心性をもって付き合ってきたかという「石のイメージ」について取り上げたのが本稿である。

二 「石」の認識


倉石氏は、ここで興味深い前提をのべている。

石は地球上に偏在しているからこそ、人が石を意識することは逆に少ない。いわゆる空気のような存在ということである。
「意識しない=生活世界において存在しない」という図式を提示している。

石に意識することが、石へのイメージの始まりということになる。
石をイメージすることで、石に対してあらゆる感情が生まれる。
石への信仰も、そういった感情のうちの一つとして把握することである。

倉石氏は、門外の考古学はあえて省いて、文献上で日本人が石を始めて意識した記述を取り上げていく。

その最初は『古事記』となる。
イザナギとイザナミの国造り神話において、国々を産んだ後に生まれた石土毘古神と石巣比賣神の二柱。

物語順としては、これが石を意識化した初出である。

少なくとも、『古事記』編纂時点では「石・土」「石・砂」という組み合わせで、生活世界の中で意識されていたことは疑いない。

ここで倉石氏は、一つの私見を提示している。

――「ここに認識されている『石』は、具体的な機能や形を持った存在としてではなく、無機物として遍在する風景の一部としてであり、いわば景観としての存在だった。」

一つの考えとして理解できるが、そうとも限らないのではないだろうか。
石土毘古神・石巣比賣神という神名として登場するのであれば、単なる風景や景観のイメージではなく、神格化されたモチーフに石が使われていることに他ならないのではないだろうか。

また、物語順としてはこれが初出かのように思えるが、『古事記』は「記述された順=時代制作順」という理屈と証明されるものではなく、記述が冒頭だろうと最後の方だろうと、基本的には時代の先後順は不詳であり、同時期として一括すべき性質のものだろう。

現に、倉石氏はそのすぐ後で、同じ『古事記』の「湯津石村」「石折神」、それに対応する『日本書紀』の「草木・沙石の自づからに火を含む縁なり」といった記述を紹介し、神話の中で石が火と結びつき、石が火の神のイメージを含むことを指摘している。

そうであれば、『記紀』における石の記述は、風景・景観のイメージとしても、神格化したモチーフのイメージとしても扱われているという理解で良いと思う。

なぜ、石を結びついたのはあえて火だったかは議論の余地があろう。
倉石氏は「生活に欠くことが出来ない火」と表現したが、それがなぜ石で代表されるのか、単にこれまでの民俗学の蓄積による竈神的な発想、性神的な発想などの中だけで可能性を狭めたくはない。

三 遮る「石」


『記紀』の黄泉国神話に登場する「千引の石」。
黄泉の国とこの世の境界を塞いだ石である。

これは「道返之大神」「黄泉戸大神」と神格化されていることから、石は「返」「戸」の性格を有し、遮る機能を持った石として、単なる景観を超えたイメージを込めていると言える。

記紀神話には同様の用例として天岩戸があり、ここで傾聴すべきなのは大舘真晴氏の研究(同氏「いわと」『万葉集神事語辞典』2008年)を引用して、『万葉集』の「岩戸」の用例は ①高天原の出入り口にある戸 ②墳墓の出入口にある戸 の2種類があることを指摘したことである。

黄泉国神話の千引の石に通ずる、生者の世界と死者の世界を分かつ扉としての石のイメージ。
重い石だからという単なる戸としてだけではなく、ここには、重さという石本来のイメージからは離れた聖俗の結界のイメージが読み取れる。
天岩戸の高天原の出入口ということも考え合わせれば、正確に言えばあの世だけではなく、異界・他界との境を担う働きを帯びていると認識した方がより適切だろう。

一方、宗教的なイメージとしての石ばかりを取り上げるのは、一面的に過ぎる。

倉石氏は『万葉集』や『祝詞』『出雲国風土記』『日本霊異記』などの文献のなかで、旅の道中や開墾の中で大きな石が障害となって難儀している旨の記述を複数紹介している。

景観としての岩石が、何かしらの作業の途上で「障害物」となった場合、景観としての存在を超えた意識の対象となることを指摘している。

元々は重く大きいという石の性質から由来する「障害物」という性質なのかもしれない。
しかし、小さい石でも「遮る」「塞ぐ」という用途を持つ記述として、神功皇后の鎮懐石伝承にも言及されている。
鎮懐石は、腰にしのばせるほどの小さな石だが、これで陣痛を鎮め出産を「遮った」機能を持つ。
石の大小からは解き放たれた次元でのイメージが、当時すでに進んでいたことが示されているとみて良いだろう。

四 モノとしての「石」


倉石氏は『広辞苑』を引きながら、石の概念について次のように規定している。

  • 巌(磐石):石の大きなもの。その中でも、それ自体に関心があるわけではないが、風景の中で意識されている岩のことを特に巌と呼ぶ。
  • 岩:石の大きなものという意味では上の巌と同義だが、風景としての巌から一歩進んで、特定の意識・関心の対象となったものを指す。
  • 石:岩より小さく、砂より大きい塊。
  • 礫 :小さい石。
  • 砂:細かい岩石の集合。

当然ながら、倉石氏もこの分類は数値化できるものではないということを承知の上で述べている。
倉石分類の特筆すべきところは、巌と岩の区別を意識の段階で分類できたという点である。
管見では初めて見る着眼点で、確かに有用な差であると目が開いた思いがした。

倉石氏は、さらに注意深く、風景・景観に溶け込むものは巌だけではなく、石や礫においても歌や記述の中で景色のモチーフとして取り上げられていることを紹介している。

このような石は、目に入ったり歩いたりする中で目に入る景観として意識され、無意識化からは浮上する存在だが、あくまでも無機物のモノ(物体)の一部としてあるにすぎないと、意識の段階について注意を促している。

これについては、私は個人的には「景観=無感情」とは思いにくく、歌で詠まれるなどは美的観賞の価値観が入り交ざっているのではないかと思う。
倉石氏が先述した「障害物」として登場する石たちも、それが宗教的感情と相通ずる「塞ぐ]意識の一例として聖と俗の狭間に立つのだとしたら、それはもうすでに単なるモノを超えている意識なのではないかとも思うのである。

倉石氏が指摘するような、いわゆる本当の風景・景観とは、おそらく文献に記述されないレベルでの無意識であり、文献研究からは追えないような段階のものではないかと考えるが、いかがだろうか。

また、倉石氏は巌・岩・石・礫までをいわゆる石の範囲としているが、砂を紹介しながらなぜか砂を除外している。
かつて野本寛一氏が砂は石の極小と表現したことを取り上げるまでもなく、砂はそれ単体のイメージだけではなく、立砂の存在や砂を用いた神事があるように、砂を集合させて石に類する造形で祭祀物にも昇化している。そこに、砂と石との差はないはずだ。

五 コトとしての岩石


ここから、本稿のメインとも言うべき「モノ」と「コト」の概念がさらに深化する。
誤解がないように、倉石氏の記述をそのまま引用する。

――「モノとしての石が、コト(行為)によって、特定の役割を果たしたり、意味を持ったりすることがある。」

これを以て、モノとしての石はコト化するというのが本稿で展開される核心部である。

倉石氏はその例として、井戸や墓や城などの構造物をつくろう(=コト)とした時に、モノだった石が建材としてコトになるとみなす。

構造物の建材は人工でなくても、自然石の中でもたとえば天皇や貴人が伝説・祭祀の中で立つ「お立ち石」があるという。

石に立ったり上ったりするという人間の行為(コト)が、なぜか儀礼的な行為や象徴的な行為として登場する。
神の来臨する磐座のようなものも、同じく神の行為(コト)があって、モノとしての石が宗教性や重要性を帯びる。
これらをコトとしての石としている。

六 コトとモノとしての「石」


動物や生活用具などの事物に形が似ている石が、過去の伝説や色々な事物に擬せられることがある。

『出雲国風土記』に登場する猪石の伝説や、神や貴人の食べ物の粒が小石になって残るという記述、星が地上に落ちて石となったという話は、石が過去のコト(行為)に関わる記憶と結びつけられることで、モノを超えた意識対象となった。

これらについては、私もかつて岩石祭祀の分類で「聖跡型」として規定したグループの事例と重なるところがあるが、倉石氏はこれらをモノとコトという2つの位相で把握を試みている所に新しさがある。

七 ココロとしての「石」


さらに、ここでモノとコトに次ぐ次の位相として「ココロ」の概念を倉石氏は取りあげる。

整理すると、モノは景観の一部としてとけこむもの、コトは行為の対象となったもの、ココロは人の感情・精神に作用する存在となった石である。

たとえば日本神話の石長比賣は、「命長かれ」と祈って差し出された存在であることから、石を恒久不変の力を持つ存在としてまで特別視した例とされている。

君が代のさざれ石や、長野県玉依比売神社の児玉石神事、全国各地の石成長譚なども、石が成長したり新しい命を生みだしたりするという点で、石の持つ性質がとうとう人の感情の領域まで影響したココロの事例である。

それの最終的な姿が、石神である。
ここでいよいよ、道祖神との比較で取り上げられた石神信仰が登場する。
人にとっての精神的なよりどころとしての影響を最大限に放つ石神というイメージは、まさに石のイメージがもっともココロの領域に進んだ存在なのだということを、倉石氏は示したかったのではないか。

第三節の「遮る石」 で登場した宗教的な石たちも、論文の最初の方で登場したから混乱しやすいが、人の感情に働きかける力を持っているという点でココロに昇化している石も入っていると言えるだろう。

八 石と民俗文化


ここで考察の方向は変わり、これまでの民俗学研究の中での石を概観する節を挟む。

柳田國男・折口信夫ほか民俗学の大家たちの研究を引きながらも、倉石氏が提言する重要な問題提起とは、「その関心は、信仰的な側面に引かれがちであった」という一文に集約されている。

信仰だけが、伝承や文化を代表するものではない。
生活文化のあらゆる事象の中の一つに、信仰という世界があり、 石も生活文化全体の中で改めて調査・研究され、それを経た上で信仰の石も位置づけられるべきではないか、と警告するのが倉石氏の問題提起だ。

これについて、私も深く同意する。
信仰を研究するために、信仰のことだけを追い続けるのは早計である。
信仰以外のあらゆる解釈可能性を認知していないと、信仰と信仰でないものの違いを正確につかむことは難しいのではないかと、私も2005年に書いた論考の中で触れたことがある。

私の2011年の拙著も、倉石氏にそのような文脈で「『石』一般の中に信仰対象の『石』を位置づけているところに、従来の研究にはなかった新しい視点」が見られると評価をいただいたが、私自身、いまだ信仰を研究するために信仰分野から手を広げた生活文化全体に調査を広げられていないのが実情である。いまだ理念だけ先走っているのである。
それほどに、信仰研究は遠回りしないと難しい。
(私が現在、石の哲学を追いかけているのはこの考えの下にある)

また、私を取り沙汰するまでもなく、このような生活文化全体で位置づけようとした石へのまなざしは、すでに野本寛一氏『石と日本人』(樹石社、1982年)の中に見つけることができる。
私も指摘したが、倉石氏が指摘するように野本氏の石に対する記述の時々には、信仰ありきで引きずられた飛躍が見られることは否定できないが、それは半ば時代的制約のようなものとみなせる。野本氏の最大の関心は信仰心にあったが、石へのまなざしは生活用具まで抜け目なく網羅し、それこそ石どころか砂までおよんでいた一面も伝えておきたい。

いずれにしても、生活全体の中で「石」を位置づけなおす取り組みを始めなければいけない。
倉石氏はその位置付けを次のようにまとめた。

――「『石』は、人の外界に対するモノ・コト・ココロという三様の認識の仕方によって、異なる様相を呈するのである。それは三つの様態が、入れ子状に認識されるのではない。「石」には三様の様態が内在し、認識の仕方によって三様の様態の内のいずれかの様態が、人との関わり方によってその都度顕在化するのである。」

実際の論文には、これを図解した「石」のイメージ関係図が掲載されている。

わかりやすい例として、倉石氏は「祭りにおいては神として祭祀対象とされる『石』が、普段は景観としても認識されず、モノでもなく、コトともかかわらない」ケースを挙げている。
私も、この現象をどのように説明すべきかを考え、拙著で岩石の認識段階と機能分類のなかで、それが複数の要素を持ったり時期ごとで変遷したりする旨を述べた。

入れ子状に石の認識を規定したのも私だった。
私の構造の課題で言うと、私は発展段階的な図式で述べたため、一度その石が神聖視の領域に入ると、もうそこで固定化され、神聖視以外の領域に移ることができないかのような錯覚が確かに起こる。
私の文章化できていなかったところの思いとしては、その認識段階は人によって違うだろうし、時代ごと、時期ごと、もっと言えば時間ごとに変動して良い(つまり、時間と人という2つの基準を変えれば認識や類型は変化して良い)という考えではあったが、類型分類をしてしまう以上、極めて固定化されやすい危険をはらんでいたことは否定できない。

倉石氏のこの認識法は、柔軟性が増したものと理解することができる。
1つの石が、時代ごとや人ごとによって認識が異なるというような大きな括りだけではなく、たとえばある特定の一人の人の中でも、祭祀中と祭祀していないときで石への意識が異なる、朝と夜では意識が異なる、目に見えている時と見えていないときでは意識が異なるという、極めて微細な人と石の関わりが図式化できるのである。

これは、リアルタイムな人の感情の動き合いを表現できるモデルとなっている。
石を他の題材に変えても、通用する考え方だろう。

しかし、この尺度を用いて1つ1つの岩石の事例を総当たりしていったら、現状ではとりあえず私の手には負えるものではないことも付言しておきたい。まさに人の数だけ、時間の数だけ類型分類できるというパンドラの箱である。
(だから、私は無意識的に限界を感じ、発展段階的な入れ子の図式で考えたのかもしれない)

まずは、一つの事例を掘り下げて考察する時に、倉石氏のこのイメージモデルを私も参考にしていきたい。

九 石神と道祖神


第一節で問題提起した道祖神と石神の問題が、この最終節で帰結する。

道祖神となった石は、倉石氏に言わせればその時点でまずココロにかかわる石であったということになる。
特に、丸玉や性石・奇石の形をした道祖神は、祭礼がない平常時においても景観の中に埋没しにくく、ココロに関わる信仰が色濃いからだと指摘する。

像容碑や神名碑の形をとる道祖神も、本来形の見えない「たま(魂)」を顕在化するための一つの手段だった。
景観としての石を、どうにかこうにかして人が顕在化することで、人のココロの中に入ってくる。道祖神は、その傾向が高い存在なのかもしれない。

倉石氏はその一例として、石祠を道祖神としてまつる例にも触れている。
祠は資材であるので、祠は祭祀施設でその中に内在する「たま」が信仰対象であると捉えるのは私も同感なのだが、当事者は実際そこまで分けて考えていたのだろうかという疑問もある。
石に神名を刻んでその石を信仰対象として顕在化させたように、祠も神名や神仏図像と同じく「神が顕在化した形」の一つのあり方と直感的に信仰者が意識せず受けとめていたならば、祠も信仰対象の姿として認めることが、より実情に即しているのかもしれないとも思う(物品が擬人化されるような心理で)。

これは少し議論の方向が違う話なので、もう一度本筋に戻す。

倉石氏は、道祖神碑と自然石が並祀されている例をいくつか挙げ、岩石信仰由来の石と道祖神信仰由来の石がある段階で複合化・重層化し、道祖神は顕在化しているからずっと道祖神としての信仰を歩みつつも、自然石の岩石信仰的なココロがすべて失われたわけでもなく、道祖神信仰の中で併存しつづけてきたとまとめている。

石神信仰における自然石、道祖神信仰における自然石は、そういう意味ではどうにかこうにかして人が顕在化させようとした石というより、いやでも顕在化されてしまった石なのか。
自然物でも、巨石や奇岩、立地的な特徴があれば、まだ理由に説明はつく。嫌でも顕在化されてしまうからだ。

そうすると、最終的に謎が残るのは、ある人から見たら意識もしないような景観的な自然石が、なぜか特定の人にはいやでも顕在化され、ココロの対象となっている事例だ。
特定の人と言い切れる理由は、その人々がいなくなると、あっという間にただの石と化してしまうケースに多く出会ってきたことからも言える。
(忘れ去られた信仰、なくなった石などはその典型)

折口信夫が言うところの「巫呪者」の感覚がココロ化する瞬間についても、常人であるはずの研究者がもっと歩み寄っていく必要がある。

信仰の当事者、特に信仰の発起人は、大多数の人が見落とす、岩石の何かしらの側面に"過敏に"ココロを影響していると思うのである。

本稿で学んだモノ・コト・ココロという視点から、宗教者だけでなく、哲学者、文学者、芸術家たちの「常ならざるココロ」を探究することで、岩石信仰に近づいていきたい。

2017年11月17日金曜日

新屋山神社奥宮のストーンサークル(山梨県富士吉田市)



もう2年も前に訪れた場所ですが、今は撤去されたと聞いたので紹介します。

船井総研の船井幸雄氏オススメの神社として、経済界では人気を博したという通称・金運神社。

という経緯もあり、仕事の関連で、ここに参拝する機会がありました。

まずは麓にある新屋山神社から。

CIMG8022

新屋にある山神社だから、新屋 山神社。

元は天文3年(1534年)に創建されたという山の神をまつる神社の一つだったはずが、なぜかここまで尾ひれの付く場所となったわけです。

独自の宗教法人格も持っているようです。

写真は撮っていませんが、社殿内に「お伺い石(御神石とも)」があり、いわゆる重軽石の祭祀で吉凶を占うもの。

気持ちを納める必要があります。

CIMG8028

さて、こちらは新屋山神社の奥宮とされる場所。

場所は離れて、富士山の2合目に位置しています。
(googleマップはこちらを表示しています)

見てのとおり綺麗に整備された社がありますが、ここにストーンサークル(環帯状列石)と名付けられた石組みがありました。

CIMG8031

綺麗な人工物です。

由来は不明。古そうな感じの由緒を匂わせつつも、明確には書いていないという、絶妙ないわれを纏っていました。

当時は、ストーンサークルの周りを3回周り、1回まわるたびに拝礼する旨の解説板が付けられていました。


このストーンサークルが2016年に撤去されたという記事をネットで見つけました。
富士山世界遺産登録による山梨県からの指示に従ったものだそうです。
今は、玉砂利などの人工設備を撤収しているようですが、今は「石の社」という名前に変えているよう。


私は、これについて何かしらの立場に立つものではありませんが、石がある時は崇めたてられ、ルールも指定され、由来もよく分からず集まる人びと。と思えば、今は神社によって取り除かれ、名前も変えられる。

めまぐるしく変わる人間の事情と、石。

いくつかのネット記事も見ましたが、撤去された後のこの場所に、いまだ強烈なパワーを感じるという人もいれば、原形が失われて嘆く人もいる。

人に翻弄された石に、どんなパワーを感じとれるのか?

原形とは、いつの時代の何を指すのだろうか?


石を通して、人間の持つさまざまな感情を見ることができませんか。

2017年11月9日木曜日

入道ヶ嶽(三重県鈴鹿市)を北尾根ルートから登る

三重県鈴鹿市の入道ヶ嶽(標高906m)に登りました。

かつて遠山正雄氏が「『いはくら』について」(『皇学』第4巻2号、1936年)で、数々の「磐座」があることを紹介した山です。

知り合いに誘われたので、珍しく 単独行ではなくグループ登山となりました。

事前の下調べによれば、入道ヶ嶽には下記のルート上にそれぞれ「磐座」が散在している模様。

■井戸谷ルート
いしぐらの磐座(俗称天狗の遊び場)
いしがみのいわくら(通称ふじ社)

■オオハゲ
主坐のいわくら

■不明(おそらく北尾根と二本松の間にある尾根)
いしごうのいわくら

■イワクラ尾根ルート
重ね石のいわくら
奥の院いわくら(俗称ほとけ石)
たていわくら式のもの

■二本松尾根ルート
しめかけ石のいわくら(俗称天狗の腰掛石)

※名称はすべて遠山正雄氏命名のものを使用。

1回でこれをすべて見るのはあきらめて、何回か登ることでコンプリートしたいところです。
当初の登山計画では、井戸谷ルートで登ることを予定していたので「いしぐらの磐座」と「いしがみのいわくら」は見られそう。

さて、登山口にて。


はい、井戸谷は台風で現在通行禁止(苦笑)

事前にインターネットで情報入手していたので想定済みでしたが、まあ・・・残念ですよね。

天気はすこぶる快晴で、これ以上ない天候です。
私、けっこう晴れ男なのです。


そこで、本日は北尾根ルートから登り、下りは二本松ルートで下山の計画。

北尾根には「磐座」なし!

あ、でも石は露出していましたよ。


北尾根ルートは、距離は長いが、傾斜は比較的緩やかなルートだそう。
それでも、もう久しく登山をしていなかったので、へとへと。
体がなまっています。
休み休み登らさせてもらいました。


6合目くらいまでは見晴らしのない樹林帯をひたすら登りますが・・・


7合目あたりから、だんだん樹木が減ってきて・・・


山頂一帯は、笹一面の草原!


到着!
登り始めは暑くてシャツだけでじゅうぶんですが、山頂は強い風が吹き付け、晴れてても寒い。
上着をバッグから出してちょうどいいくらい。


石仲間との登山ではないので、山頂ではピクニック休憩を楽しみました。
登山のイロハ的なものも、勉強させてもらいました。


椿大神社の奥宮。
ここが本当の山頂とのこと。
見晴らしは、なし。
最高点だから無理やりお宮を建てたような感じ。



山頂ではないこの場所の方が、人が集まっていました。
やはり眺望と立地に勝るものはなし。


さて、二本松ルートから下山を開始します。
この写真の下に一つ尾根があり、それに沿って大崩落の崖があるらしく、それを「オホハゲ(おおはげ?)」と遠山氏は書いています。
ここには「主坐のいわくら」があるということで、崖の一大巨岩を含めての名称でしょう。

そして、尾根上に「イシゴウ」と呼ばれる「磐座」もあるらしいですが、どうやらその尾根は現在ルートとして消失している様子。
(たぶん25000分の1地図上で、点線表示されている尾根)


二本松尾根を下ってすぐ、9合目あたりでふりかえればオホハゲの一部を望むことができます。
あれを踏査することは死を意味します。


唯一見ることのできた「磐座」。
二本松尾根の「しめかけ石のいわくら(俗称天狗の腰掛石)」。

他のメンバー、反応薄い(苦笑)
今日一番のテンションで全方位から写真を撮る私。

「天狗の腰掛」「しめかけ石」「七五三岩(しめかけいわ)」などの名称があり、山の天狗がここで腰掛けた石といいます。
また、ここから上は神の住処なので不浄の者はこれ以上登ってはいけない、という目印のために注連縄を掛けた石だと伝えられているそう。

これが本当に天狗の腰掛石と確定していいかは分かりませんが、他に候補となる石は確かに見あたりません。


あとは下山。
9時から登り始め、下山は14時頃という行程でした。

これで入道ヶ嶽のだいたいの肌感覚は分かったので、時機が来れば今度は井戸谷ルートでの登山をしてみたいと思います。

2017年10月31日火曜日

TV番組「日本人と石の物語」が放送されます

石に関するTV番組の紹介です。

――――――

11月3日(金)

9:55~10:53

朝日放送(関西地区のみで放送)

「日本人と石の物語 ~voice of stone~ 世界文化遺産と天下人と祈り」

リンク:朝日放送番組表

――――――

番組制作初期、ネタ出しの段階で僅かですが協力しました。

どんな番組にできあがっているのか、私もわかりません。

私自身、見られるエリアに住んでいないので、友人に録画を頼みました。

関西地区にお住まいの方は、日本で数少ない「石の番組」ですので、ご覧になってはいかがでしょうか。

2017年10月28日土曜日

「さがごこち」巨石パークインタビュー

佐賀県の魅力を発信するウェブサイト「さがごこち」に、私のインタビューが掲載されたのでお知らせします。

http://www.sagagocochi.jp/1933/


「『石』の研究者 吉川宗明さんに巨石パークのことを聞いてみた!(前編)」


『石』の研究者 吉川宗明さんに巨石パークのことを聞いてみた!(前編) | さがごこち

後編はこちら


『石』の研究者 吉川宗明さんに巨石パークのことを聞いてみた!(後編) | さがごこち



佐賀市にある巨石パークと言えば、このブログをご覧の皆さまでしたらご存知でしょうか?

私、巨石パークには10年前に一度行って以来の今回頂いたお話で、けっして巨石パークの専門家として適任という訳ではありませんが、でも、石を俯瞰してきた者の一人として、あまり他に誰も触れないような視点を一つでも多く語るように意識しました。

「さがごこち」では、これから巨石パークの謎にいろんな方向からアプローチしていくようですので、私自身も巨石パークを勉強させていただくつもりです。

前後編に分かれておりますので、お時間のある時にどうぞご覧ください。

2017年10月19日木曜日

北山耕平「石の不思議な力の輪(メディスン・ホイール)」(【石の時代】石のように考える)~『石の神秘力』を読む その3~

――こうやって石で手すさみする癖がなかったら、自分はあそこで死んでいた。私は石に助けられて生きているのだ。

こう語るのは、江戸時代の「石の長者」木内石亭である。

理由はわかっていないが、石亭は妻とともに三年間牢に入れられていた。

夫妻は、朝起きてから夜寝るまで、石玩びをひたすら楽しむ三年間だったという。

周囲の者が獄中生活で病んでいくなか、夫妻はいささかの悩みもなく、健やかに過ごすことができた。

本当かどうかは、石亭自身が「自分が牢屋で死ななかったのは石のおかげである」と公言している以上は、信じるしかないだろう。


このように、石に救われる人々が一定数いる。

石が持つ力について、メディスン・ホイールの概念から説明するのが、ネイティブアメリカン北シャイアン一族出身のヘメヨースト・ストーム『セブンアローズ』である。
http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeBookPhoto/SevenArrows.htm
(「インディアンの伝記や物語を記した文献」より)

メディスン・ホイールとは、石の輪のことである。

形態的には、環状列石と同じものを指す。
が、していることは「世界の見方を学ぶこと」である。

――たとえば、目の前二メートルほどのところに石をひとつ置いて眺めている。その石を中心にして、直径二メートルの円を描くように周囲を移動し、いろいろな点からその石をじっくりと見てみる。そうやって石の周りを一周し、石のいろいろな面を克明に見ていくのだ。一周したら目を閉じてその石を今度は心の目で見、その後、目を開けてもう一度その石を見てみる。そのとき、最初に見たときとその石は同じに見えているだろうか?石はまったく違う見え方をしているはずだ。石が変わったのではなく、それを見る方が変化したのだ。

シャイアン一族の子供たちは、こうやって石から学ぶのだそうである。

ここで、北山氏はメディスン・ホイールの造り方を指南してくれている。
要旨をまとめて、ここで紹介したい。
石から学びを得たい方は、試されてはいかが。

日程と場所の設定

  • メディスン・ホイールを造る「特別な日」を設定する。
  • メディスン・ホイールは一人で造らなければいけない。
  • 沈黙のうちに造ること。
  • 見晴らしの良い場所に造る。
  • あまり他の人に見つからないような場所が良い。
  • 変化の激しい場所は望ましくない。

石の選びかた

  • 握りこぶし大の石を15個と、それより一回り大きい石を12個用意する(選んだその場所にあると良い)
  • すべて自然石を選ぶこと。石の大きさはそろっていた方が良い。
  • 石の個数は、造りたいメディスン・ホイールの大きさに応じて、多少前後しても良い。
  • 運んだ石の総重量は、あなたのカルマ(業)の大きさと言える。

メディスン・ホイールの造りかた

  • 握りこぶし大の石7個を使って、石の輪を作る。
  • 輪の中心に、人が一人座れるスペースを取っておく。それくらいの輪の大きさにする。
  • 次に、握りこぶし大より一回り大きい石を使って、先ほどの石の輪の外側にもう一つ輪を造る。
  • 最初の1個目は、北に置く。
  • 右回りに30cmほどの間隔で2個目、3個目、4個目を置いていき、4個目が東にくるようにする。
  • 今度は1個目から左回りに、5個目、6個目、7個目を置いていき、7個目が西に来るようにする。
  • 4個目と7個目を起点にして、南へ向かって石を合計5個並べる。
  • 5個の中心がちょうど南に来るように配置する。
  • 中心の輪の東西南北の石を起点にして、それぞれさらに外側へ等間隔に、握りこぶし大の石で4本のスポークをつきだし、スポークの先端に大きい石がくるようにする。


メディスン・ホイールの観察方法

  • 完成したら、まずはしばらくメディスン・ホイールを観察する。
  • メディスン・ホイールは、あなたの人生そのものをあらわしている。見る角度、方角には、それぞれ一人一人に異なる意味がある。
  • 東の石から、西の石から、南の石から、北の石から、ホイール全体を見渡してみる。
  • いろいろな角度から、石を見る。
  • メディスン・ホイールの周りを回り、いくつのかの場所を決めて、座り込んで、見る。
  • 座り込んだ場所のどこかに「自分にとっての旅の起点となる最初の場所」がある。それを見つける。
  • 「最初の場所」を見つけたら、そこから見えるメディスン・ホイールは「自分がはじめて見た世界」である。
  • しかし、それは世界の見方のほんの一面にしか過ぎないことを理解すること。
  • 「最初の場所」以外から見える見方は、世界の別の見方となる。様々な世界の見え方を、メディスン・ホイールを通して学ぶこと。
  • メディスン・ホイールの多様な見方を学べた時、そこはあなたにとって、何度も訪れることになる生涯の特別な場所になる。


ラッテ・ストーンをもらった



グアムのお土産をいただきました。

これです↓

Chamuro National Park

初見ですぐ気づけませんでした。

中身は塩味の聞いたチョコクッキーで、よろしいです。

2017年10月12日木曜日

北山耕平「石のように考える」(【石の時代】石のように考える)~『石の神秘力』を読む その2~

――彼(女)らはその植物のどういう成分がその病に効くのかということにはまったく興味も関心もない。「そんなものはたいして重要ではない」とさえ言う人もいる。彼(女)らの生きている世界では、病気を治すものはあくまでもその植物のスピリットであり、そのスピリットの力を借り受けることで、癒しは達成されるのである。
彼(女)らとは、シャーマンのことを指す。
シャーマンのことを「メディスンマン」と呼ぶことがある。

ネイティブアメリカンのシャーマンに対してそう呼ばれることがあるのだが、北山氏によると、この場合の「メディスン」は単に「薬」を意味するのではなく、「不思議な力を持つもの」という意味合いを込めているのだという。

不思議な力には、良い面と悪い面の両面がある。
メディスンマンとは、メディスンの良いスピリットと悪いスピリットを見極められる人を指すのであり、薬の場合なら、その植物のスピリットとコミュニケートできるのがシャーマンということになる。

何にとって良い/悪いのかと言えば、あくまでも救いを求めに来る患者や祈願者の内容にとって、であろう。
したがって、ある人には良いスピリットは、ある人には悪いスピリットになりうる。
二面性の価値観は、常に逆転し合う。

――彼(女)らの用いていた薬草から、現在わたしたちが使う「薬剤」のいかに多くが抽出されているかを知れば、そうした知識がたんなるまやかしの類ではないことに気がつくはずである。

スピリットのコミュニケーターであるシャーマン自身も、ある人は良いシャーマンであり、ある人にとっては悪いシャーマンとなるだろう。

善悪の価値観というものは、 人の数だけ逆転する可能性のあるものとして理解しておくことが、いらぬ勘違いを生まないために必要な学びではないだろうか?

極端な事実を言えば、偽の信仰で救われる人もいる。
大多数から見れば悪と見えることも、身内の中では善となる。その事実自体は性質上、否定できるものではない。

一般的には、多数の人々が悪(あるいは無関心)とみなすことが多い世界であるからこそ、シャーマニズムを含めた「宗教」なる世界は「まやかし」に映るのだと理解したい。

10000人の人のなかで、1人にだけ響いたものを「まやかし」と捉えるのかどうかが、捉える側に試されている。

個人宅でまつられている岩石など、その最たるものの一例だと私は考えている。

――石は「世界で一番の年寄りだ」とアメリカ・インディアンの人たちは教えてくれる。むりやりこちらの意志を押しつければ、相手だって沈黙する。そんなのは尊敬をもった接し方ではない。即座に反応を返してくるものばかりとは限らないし、それにこちらの尋ねたいことだけを聞いて、相手の言いたいことには耳を貸さないのでは、相手もすぐには秘密を教えてはくれまい。なによりも尊敬すること。(中略)どうかそのことだけは忘れないでください。

北山氏は、石を理解しようとするためには、石とコミュニケートしなくてはいけないと述べる。

そのコミュニケーションに必要なのが、敬意を払えるかどうかということ。
石でなくても、ここは相手が人でも動物でも同じで、石を通して人生の学びにつながっている。

石を理解しようという表現自体が、相手にとっては不遜な態度かもしれない。

同様に、石とコミュニケートすることは、石を所有することと同義ではないはずだ。

動物と違うのは、石は「相手の言いたいこと」に耳を貸したくても、声にして発してくれないことで、コミュニケートしようと思ったら、難しさは格段にレベルが高い。

人は声を出して、石は声を出さない時点で、コミュニケーションは同等ではない。
この差を、人が上で石は下とみなすか、石を「世界で一番の年寄り」と考えて石を上位に置いて敬意的な接し方を選択するかが試されている。

また、敬意を持つことで、石がきっちり反応を返してくれるということをあらかじめ信じられるかどうか。
「ないもの」を「あるもの」と信じられるか、が分かれ目かもしれない。

正直に言えば、私は、まだ「ないもの」をあらかじめ信じることができない。
信じないが、私は「ないもの」を「見えないもの」と言いかえたい。
見えないものはわからないので、わからないことがあると認めることで、 石を「得体のしれないもの」という対象として敬意を持つように、自分を落ち着けている。

北山氏の意図する敬意とは異なるものになっていると思うが、これが自分に嘘をつかず、石にも失礼のない態度をとるための、現段階の精一杯の表現である。

――人がどんな石に惹かれるかはさまざまである。ある人はターコイズ(トルコ石)の入った指輪に関心を示すかと思えば、別の人はアメジストのペンダントに異様な興味をもったり、真珠のイヤリングを忘れると落ち着かない人もいる。かと思えば、そうした値の張る石などには一切目もくれずに、たまたま道端に落ちていた奇妙な形の石ころを拾い上げて、これを後生大事に袋に入れて身に付ける人もあるかもしれない。

北山氏はこれを、石が発する周波数の違いだと説明する。
宝石が貴重なものとされた理由は、とりわけ周波数の違いがよく分かる石だったからだという。

「水晶(クオーツ・クリスタル)の結晶構造は、サファイアを含んだ鉱物とはまったく異なる波長を送り出していることぐらい、二つを前にしてみれば、たちどころに理解できよう。」と北山氏は述べるが、すみません、これは私にはわからない。

実際的な効果があるのなら、ぜひ岩石ごとでの周波数の違いを研究された成果を見てみたい。
科学的な方法で見られる性質のものなのかという点が、疑り深い人間としては気になるところである。

あまり、岩石に対してわかったようにものする態度も、失礼だと私は考えているからだ。

――覚えておかなくてはならないことは、どんなものであれあなたが石を見つけるのではなく、石のほうがあなたを見つけるのだということである。あなたが石を選ぶのではなく、石があなたを選ぶのだ。まあ、へたに宝石などは人からもらわないほうがよい。もちろん、そうやってありがたく引き継いだ石が、自分にとってぴったりの場合もないわけではないところが、そもそも石の不思議なところではあるのだが。

北山氏がネイティブ・アメリカンのナバホ族部族保留地にあるターコイズ専門店から聞いた話によると、現地のナバホ族は皺だらけの模様が入ったターコイズを好むが、たとえば日本からくる石のバイヤーたちは皺のない真っ青なブルーのターコイズを好むらしい。

これを、後天的な文化的影響の違いによるものと見るかどうか。

その時、合わないと思った石が、年を経ると、合うようになるのであれば、後天的な影響によるものだろう。

これに対し、本来、先天的なものであるはずの、岩石が持つ周波数の違いがどう噛みあうことになるのか。
良いスピリットは、悪いスピリットになりうるし、その逆もあるという冒頭の話と共鳴する。

とりあえず疑問を呈したいのは、 ダイヤモンドなら○○の効果があり、メノウなら○○の効果がある、といった紋切りかつ一問一答な診断が、まったく当てにならないこと。

北山氏に言わせれば「すべての石は独自の傾向と波長」があり、「この宇宙には同じ石など二つとない」のだそうだ。
石の露出のしかたや、切り出され方で、石の波長が変わると言っていることに他ならない。

これは、周波数という科学的な概念の中で、説明できるのか?

縄文時代の日本では翡翠が珍重されたと考古学は言うが、ならば、それは石の持つ先天的な周波数によるものなのか、当時の人々が育てた後天的文化の影響によるものか。

人というものはえてして周りの人から影響を受けやすい生き物だから、石の持つ性質とは別個で、人が人から受ける心理変化もあったのではないかと思うが、それが「時代」という後天的の最たるものである。

石を知るためには、たえず時代ごとの人の後天的影響に考えをおよぼさなくてはいけない。

――相手は地球で最長老のグランドファーザーなのだ。そのことを忘れてはいけない。とんでもなくわがままで、取っ付きにくい相手かもしれないが、こちらがその気難しさを含むすべてを愛情をもって受け入れることができなければ、およそ本当のことなど教えてくれるものではない。

私にとっては、グランドファーザーの石に向き合う前に、有象無象の人間の感情が前にそびえ立っている気がしてならない。

2017年10月5日木曜日

北山耕平「だから石は生きている」(【石の時代】石のように考える)~『石の神秘力』を読む その1~

■ 『石の神秘力』について


『石の神秘力』は、新人物往来社が発刊していた別冊歴史読本の、特別増刊シリーズ第32弾の特集タイトルである。1994年発行。

編集後記にはこう書かれている。

――日本には、欧米のように、ストーン・ヒーリングの歴史やミネラルを楽しむ趣味はなかったといいますが、それでも、神社のご神体の多くが石であるように、日本人と石は古来切っても切れない関係にあります。(中略)本誌の特集で石の魅力に少しでも触れていただければ幸いです。

当時は、日本で心霊・オカルトやニューエイジ系の空気もまだ活発さを残していた時代で、本誌は当時のパワーストーンブームやストーン・ハンティング(宝石・鉱物採集)の動きの中で、特集が組まれたものだと推測される。

こういう意味では、2017年現在のほうが、石にとっては陽の目を見ない時代かもしれない。

 ―目次―
  • ストーン・ヒーリングの世界 井村宏次
  • 石がもたらす「癒し」という果実 井村宏次
  • 鉱物の魅力と楽しみ方の七章 堀秀道
  • 【石の時代】石のように考える 北山耕平
  • 幻の水晶王国アトランティスの秘技 諏訪見殿雄
  • リーディング・ソースへの警鐘 山上隆志
  • 「賢者の石」を求めて 石渡鉄雄
  • 占星術で読む宝石の記憶 山内雅夫
  • 誕生石物語 足立岳
  • 古神道の"玉"が秘める霊的パワー 竹内睦泰
  • 石と"話"をするO氏の話 綾部霞作
  • <ダウザー>ビル・コックスによる鉱物エネルギー場の測定 編集部
  • 太古の隕石"モルダヴァイド"は聖杯の原料か? 越智道雄
  • 呪力を秘めたハワイの石 中村薫子
  • オーストラリアの大地でオパール・フォセキングを楽しむ 寺本不二子
  • 「ストーン・ハンティング」入門 本郷俊介
  • 石を巡るブックガイド 足立岳

よくもまあ、岩石というテーマでこれだけの多岐にわたる著者を連れてきたものだと感心する。

オカルト系半分、それ以外半分というヤミ鍋のような構成である。
石のテーマと言っても、どういう方向に持っていくか、さぞ編集方針に苦労したことに違いない。

この中から、北山耕平が題する「【石の時代】石のように考える」が40ページにわたって異彩を放っていたので、まずはここから始めたい。

■ 誰も石からは逃げることなどできない


刺激的な見出しから北山の文章は始まる。

それは「石がなければ、現在の私たちの暮らしは成り立たない」からだとする。

人類にとって、最初の道具となったのは石で、その「石の時代」は、「もはや想像すらつかないくらい遥か遠い過去の話」になった。

それでも、石は今でも私たちの周りを取り囲んでいるし、石を利用し続けている。

人類にとって石は、唯一の道具ではなくなったからこそ「石の時代」として象徴していないだけで、底流には「母なる地球と私たちをつないでいた装置」でありつづけているという。

北山は、さらにこう念押す。

――今生まれようとしている新しい人間にとって「最後の知恵」をもたらすものでもある

この「最後の知恵」を検証する取り組みが本稿なのだという。

■ どんな石でも石は石であるということ


宝石・貴石・化石・金銀など、特定の鉱物だけを持ち上げてきた欲望は「この二〇〇〇年の歴史をドライブさせてきた原動力」と表現されている。

現代人のパワーストーンブームも、水晶や研磨加工など、特定の石に対する関心への現われである。

北山はこれを「新たなる石の差別化」に陥っていると警告する。

「どこにでも転がっている普通の石ころ」まで、石に含んで視野に入れておかないといけないと述べるのが北山の立場である。

それによって、自然・環境・世界を認識できるのだという。

そうであるならば、この論旨と翻って、『石の神秘力』の冒頭で約100ページにわたりカラー図版で貴石の特集が組まれているのは、もはや壮大な皮肉と言うしかない。


■ わたしたちの遠い祖先にとっての石

――いわゆる禅寺の「石庭」と呼ばれているものも、当初は、瞑想状態において意識を高める場所として考案された石や岩のパワーを引き出す置き方であり、いうならば「ないものを見せる」という、当時最先端のヴァーチャル・リアリティ・テクノロジー(仮想現実技術)だった

「ないものを見せる」ことが「石の声」を聞く方法の一つと考えるのが北山の論である。

だから、「これみよがし」は駄目だそうである。

禅寺を傍流的な文化として取り入れ、権力者が道楽とした水石や盆石は、領地と等価値の「これみよがしの様」となった。茶器と同様に。

特定の石をありがたがるところに、「ないもの」はないのである。
そこから、石の声を聞こうという純粋な方法は見えてこない。
理屈と世俗的な欲求に覆われすぎており、石の声などどうでもいいのである。

一方で、石神をまつる神社の中には「ないものを見せない」ものもあると北山は指摘する。
――石たちの多くは縄で結わかれて牢屋に入れられてしまっている。石は沈黙した。
あまりこのように石を見る意見は聞かない。
石に注連縄が巻かれていたら、ありがたがる人も多いのではないか?

本殿の中や社殿下に秘匿されることになった岩石祭祀事例も、確かに多く見受けられる。

隠されることで神秘性が増すという話とは別次元で、石はそもそも石の姿が見えていないと、石を語ろうにも理屈だけの話となることは間違いない。

その石がそもそも信仰された理由は、石自身が持つ物質的想像力に帰結することは言うまでもないからだ。

しかし、歴史の流れの中で、石は原初の姿とは違う「置かれ方」をする。
現代の私たちにとっては、始めから石が隠されていたら、石が持つ想像力の出しようがなく、その石の本来の力たるものを考えることは、もはやすべて的外れの議論になってしまうだろう。

このように、歴史の経過によって、石は当初の姿形を"人間によって"変えられ、石の声は聞こえなくなる。

――かくして石が生きて、感じて、考えて、記憶していることを、二〇〇〇年かけて人々は忘れていく。

石の声は、石が見てきた歴史であり、それを人々が忘れていくのを危惧したのが北山であり、歴史の経過と人間の欲望というものは生来そういう性質のものであるから、なかば諦めているのは私の受け取り方である。

諦めるのは、そこにこだわらなくすることであり、それによって残された時間を、別の方法で対策できると考えているからだ。

――石や、岩や、地球は、そこで起こっていることを、良いことも悪いこともすべて波長として記憶する。そして考えている。自分の石をひとつ持って見れば、そのことがきっと理解できるだろう。それは、人間と同じように、一種の生命コンピュータである。

私は、まだ自分の石を持っていない。
石を理解するために、自分の石を持つことから始めないといけないのかもしれない、とは思わされた。

ただ、私は、石を1つあずかることはおこがましい行いだと、生理的な部分で感じている。
石を理解するために、石を所有するという解法しかないとは思わない立場である。
石を自分だけのものにした時点で、何かが変節している気がする。

石をとらずに見に行くだけで、自分の石としていいのなら、捉え方はまた変わってくる。

北山はこう述べる。

――爆破され、切りだされ、研磨され、値段を付けられ、無数の人たちの手から手へと旅し、取り引きされ、カウンターに並べられて売られているその間に関わった良いヴァイブレーションも悪いヴァイブレーションも、人間の欲も、全部石は記憶する。石をひとつ手に入れるのにも、そうしたエネルギーの流れのすべてを引き受けることを忘れてはなるまい。宝石などは論外である。

石ひとつを手にすることは、本当に恐ろしいことだ。
善悪についての是非は、私には分からない。

2017年9月22日金曜日

石に暮らす~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その10(終)~

――現在、日本には、鉱物の顔を見て「どこの何である」と正しく答えられる人はほとんどいない。これは鉱物学における分類学、同定学といわれる分野だが、いまや古典のジャンルとなってしまい。「鉱物をやる」といえば物性学や結晶学を意味するようになっているのだ。

岩石全般についても、同じことが言える。

私も学生時代に岩石図鑑を買ったが、それを手に、地表に現われた岩石の姿を見ても、どこの何であると自信を持って言えるようにはならなかった。

その岩石を少しスライスしただけで、まったく違う表情になる。

辞典や図鑑、机上の定義は、私の場合、目の前の岩石の前では、何の役にも立たなかった。

そんな岩石を、我が意を得たりという顔で判別・特定できる人は、まさに尊敬すべき石ぐるいの極致、か、ペテン師だ。

分類学の視点から離れて、歴史学的な視点で考えれば、現代人の分類と江戸時代の分類は異なる。
見えているものが違う。

科学的だから正しいという話とはまた別の話で。

これはどちらの分類が正しいという性質のものではなく、石をどう見るかという多様性の問題だ。

――鉱物のむずかしさは、植物や昆虫のように図鑑を片手に、単純な絵合わせでは判別できないところにある。(略)鉱物のプロたちが鉱物を見なくなり、鉱物を見るアマチュアは知識の煩雑さに阻まれて正しい情報にたどりつけないとなると、結局、ほんとうの意味で鉱物を知っている人はいなくなる。鉱物は、いわば「謎の物体」になりつつあるのだ。

徳井氏の場合は結論部から鉱物に岩石の極致を見出すのに対し、たとえば私はそこから漏れた雑色の岩石に極致を見たい(まだ見えていない)

私自身の感性を問いただしてみれば、岩石の定義を学び、岩石の領域が広がるほど、岩石は自分の心と乖離していく。
私が感じる岩石とは違う存在も岩石なのだ。

ビスケットのなかの絹雲母は、まさにそういうものである。

現代人の間でさえ、岩石の見方は異なるわけで、現代人の一人である私でさえこうなのだから、縄文時代の人の岩石の理解を推し量ることは、恐ろしくてできないはずである。

――石の体験と呼べるものがあるとすれば、現代は、それがもっとも痩せ細っている時代かもしれない。(略)ダイヤモンドの指輪は知っていても、黒いキンバレー岩に宿った朝露のような輝きを見ることができない。こうした石の産状を知っていれば、いにしえの人々が抱いた「石が植物のように生きている」というイメージも、けっして荒唐無稽でないことが理解できるだろう。

岩石が生きている存在として、本当の意味で無理なく認識されていた時代があった。

知識としてそれを理解しても、生理的に受け付けられなければ、他者理解も歴史認識もほど遠い。

歴史を語ることの重みを、岩石から感じさせられる。

本来、石の体験など、現代においてはまちがいなく、しなくても生きていられることの一つである。

岩石の朝夕の変化から、一生の中での変化まで、変化に接しられた人は岩石を生き物と感じるし、接しなかった人は岩石を死んだものと感じる。

太古、サルからヒトへ進化する時代においては、岩石に目を向ける時間が膨大にあった。
もう少し話を広げれば、当時は岩石に限らずあらゆる自然物を、事前知識なしで体感していた時代で、その体感時間は現代とは比較にならないだろう。

尾崎放哉は随筆「石」の中で、「石工の人々にためしに聞いて御覧なさい。必ず異口同音に答へるでせう。石は生きて居ります」と記した。
今思えば、これが、石に接する時間の違いがなせる境地と考えられるのである。職業病は信仰心に通じてくる。

岩石信仰が原始の時代からの遺伝子レベルでの感情であると仮定するなら、ある時期までは人々の大方の共通認識であり、ある時期からは一部の人々の趣味であり、ある時期からは部外者による学問の対象となった。
人類から遺伝子レベルの感情として継承されなくなる(なった)のは、いつからだろうか。

――この本の紙にさえ、滑石が混じっている。紙に重みと滑りをもたらすためだ。(略)どこもかしこも石だらけだ。(略)石は空にも飛んでいる。姿を変えたチタン鉄鉱だ。(略)いったい自分を運んでいるものが何であるのか、一度くらい調べてみてもよいのではないだろうか。

2017年9月17日日曜日

内部の「なぞの石神」 第1次調査

私は四日市出身ですが、34年生きてきて、地元で新たに岩石信仰の事例を知ることができました。

地元でこんな体たらくですから、全国の岩石信仰を知っているなどとは決して言えるわけもなく、死ぬまでに全貌の何分の一を知ることができるのかという、暗澹たる気持ちしか芽生えません。

日々精進ですね。


■ 調査のきっかけ


さて、新しく知った岩石信仰の場所は、四日市市の内部(うつべ)地区。

知ったきっかけはこの本でした。

うつべ町かど博物館運営委員会編『内部の史跡・旧跡案内 わが町再発見』(2013年)

この中に、1枚の古い地図が収録されていました。

内部郷土史研究会が1985年11月に作成した「内部旧跡案内図」 です。
この地図の番号5に「なぞの石神」と書かれた場所が。


「なぞの」が、とても私の関心を惹きます。特定の名前が、ないんですね。

どこにあるのか。地図を見ると・・・



5が「なぞの石神」の場所。
貝家(かいげ)という字に所在します。アバウトなイラスト風地図です。

実際の地図で見ると、山林と住宅地が入り交ざるエリアで、この地図だけでたどりつくことは不可能でしょう。
かつて、群馬県桐生市賀茂神社裏山の神籠石のアバウト地図を見た時と、まったく一緒の感情が芽生えました。


でも、この地図を掲載した『内部の史跡・旧跡案内 わが町再発見』は、2013年の新しい案内冊子。

この冊子で案内されているものと思いきや・・・、他の場所はおおむね紹介されている中で、なんと、この石神は未収録。

岩石信仰というものは、こういう運命をたどるのですね(泣)

同書によれば、1985年の「内部旧跡案内図」は、今となっては分からなくなっているものが多いため、うつべ町かど博物館が2009年に新たに現況調査をして、実際の地図上にドットを落としたそうです。

その調査の結果、「なぞの石神」がリストから漏れているということは・・・これはまずい。
石神が収録されていない理由も触れられていないため、消滅したということなのか、行方不明になっているのかなど、細かい経緯が分かりません。

市立図書館の郷土資料コーナーでひと通り関連しそうな文献を総当たりしましたが、この「なぞの石神」に関することはついにどこにも見つけることはできませんでした。

たぶん私以外、誰もこれに興味を持っていないでしょう。
なら、やるしかないか・・・。

いや、決して嫌々ではなく、モチベーションは燃え上がるわけですが、いつも思うのは、昔の文献や地図はつくづく罪深い。
もうすこ~しだけ、具体的に書いてくれれば、なくならなかったかもしれないのに・・・。
このようなケースに出会うたびに、私は反面教師にしたいと、いつも思います。

一方で、内部郷土史研究会が「なぞの石神」の一言を書いてくれていなかったら、今頃、もう地球上からこの石神の存在は完全に断絶していたかもしれません。
だから、一言でも歴史をつないだ同会には、むしろ感謝なのです。


■ うつべ町かど博物館へ行く


1985年の「内部旧跡案内図」の現況を2009年に再調査したのが、うつべ町かど博物館です。

であれば、 うつべ町かど博物館を調査の第一歩とするべきです。
さっそく伺ったところ、内部地区の歴史の古今東西を調査され『うつべ歴史覚書』を2017年6月に発表されたばかりの著者・稲垣哲郎さんにお話を聞くことができました。

『うつべ歴史覚書』は内部の最新研究であり大著。私も事前に市立図書館で読んだ本でした。
おそらく、稲垣さんは同博物館でも最も内部の歴史に詳しい方です。これ以上の出会いはないと思います。

単刀直入に伺いました。
「なぞの石神を探しているのですが、なにかご存知でしょうか?」

稲垣さんのお答えは明快なものでした。
「わからない」

「なぞの石神」は、もちろんご存知でした。
が、それが「なくなった」のか「どれのことか分からなかった」のかは、もはや遠い歴史の中。

再調査の時、貝家のことに詳しい地元の方に聞いても、その方が知らなかったので、行方不明のものとして今の史跡・旧跡リストからは省かれたとのこと。

その時の詳しい調査メモが残っているなら、穴があくまで目を通したいものですが、かなわないでしょう。

とりあえず分かったのは、なぞの石神の現況は「分からない」ということ。
「なくなった」と決まったわけでもないのが、ポイントです。

山の神や庚申の石碑と違って、石神は自然石だったのかもしれない、と思わされます。
自然石であるなら、知る人・守る人がいなければ、あっと言う間にただの石と化すからです。
字が刻んであれば、像が彫刻されていれば、守る人がいなくなっても、それが何であるかはわかるのです。
自然石信仰には、それがない。だから、意識を向けなければいけない。

そもそも、1985年当時の時点で「なぞの」と呼ばれる状態なわけですから、これは相当に記憶が埋もれていると想像できます。

■ 現地を歩く


「なぞの石神」は、「内部旧跡案内図」によれば「8 なこの坂」の西に位置。
ただし、他の番号の場所を実際の地図に落とし込むと、方向や位置関係が実際とは違うことも多いため、あまり参考にはなりません。

なこの坂が、おおよその目安となることだけは確かです。

まずは「なこの坂」を目指します。
ここは今も語り継がれている地名です。

稲垣さんに教えていただいた目印「延喜式内 日宮加冨神社」の石柱を目指します。


 写真奥に続く道が、加冨神社の表参道となっており、その途中の坂道が「なこの坂」です。


道を進むとすぐに「なこの坂」が登場。
現状、ただの坂道ですが、稲垣さんによると、近い将来に看板設置予定とも。

なこの坂を上がった西方が「なぞの石神」候補エリアです。
坂の上にかけてしばらく住宅地が広がっており、はっきり言えば、この宅地の全軒にお邪魔して1件1件お伺いできれば本件解決なのですが、それが大変なのは言うまでもありません。迷惑かけますしね。

せめて、外に出られている方にお話を聞ければと思って開始しましたが、タイミング悪く当日は台風の来襲直前。
そのためかどうかはわかりませんが、お会いできた地元の人は1名だけ。
畑で作業されていた年配の男性の方にお話を聞くことができましたが、その方はずっとこの場所に暮らしていた方ではなく、石神はもちろん、なこの坂もご存知ではありませんでした。

天気の良い日に、改めて再訪することを心に決めて、とりあえず今回はエリア内をぐるぐる歩いてみることにしました。


なこの坂を進むと、加冨神社方面に進む道があります。
住宅地が終ると、ちょっともの寂しい雰囲気に。
もちろん誰も歩いていません。

写真向かって左側の山林が未開発のようで、この山林内など気になりますが、足を踏み入れる余地はなし。


道端にゴミが散乱していますが、よく見ると、草むらの下に岩盤が露出していました。
地質的に、岩石が出やすい環境ということが推測できます。


なこの坂から10分ほど歩くと加冨神社に到着します。
高台となった丘の上に鎮座する神社です。


由緒は上写真参照。
歴史的にも集落的にも、重要な神社であることは間違いありません。
神職の方は常住されない社であり、誰もいませんでした。


高台の丘の上を一周して戻れるようになっているので、一周することにしました。
丘の山林は残っている所と開発で削られている所が混在しており、各種農園が経営されています。


広大な高台です。
石神を探すとして、どこにあるのか、まったく取りつく島がない状況。
ここから自力で特定するなど、眩暈ものです。


そもそも、自然石なのかもそうですし、一番大きい石なら石神、と特定して良いはずがありません。
石に出会うためには、石を知っている人に出会うしか正解はないのです。

主観と経験則だけで、それっぽい道に入ってみます。


岩石が固まっている場所があります。
自然に集まっているというより、人為的に一ヶ所に固めた感じです。


こういう岩石が、そこかしこに散らばっています。


畑の中に、丸石が頭を出している場所あり、印象的でした。


一朝一夕で解決する問題ではないことは十分承知しているので、これからアンテナを張りながら、また再訪するつもりです。

また、地元貝家町の方がこのページをご覧になることにも、一縷の望みをかけたいと思います。

私の勝手な類推ですが、1985年にマップにのせられた場所であるなら、貝家町のなかで最低お一人は、この石神のことを知っていると思うのです。
所有者の方ひとりだけが知っていて、隣の家の方はもう知らないという、そんな状況にあると考えています。


【2019.10.7追記】
発見しました!下記事をご覧ください。

内部の「なぞの石神」は現存した(三重県四日市市)

路傍の自然石考―東海道の夫婦石/妻夫石/妋石―




四日市市文化協会の会誌『パッション』61号(2017年9月15日発行)に、「路傍の自然石考」と題した文章を書きました。

『パッション』は、同協会ホームページで全号オンライン公開されています。

そのうち、最新号も掲載されるのではと思いますので、よろしければこちらでご覧ください。


故あって、前・後編の2回に分かれて掲載されます。

オチを次号に回すという大げさな構成ですが、1ページのミニ記事ですので、軽い気持ちで目を通していただければ助かります。


書いた動機を少しだけ。

四日市市の情報誌ですから、四日市市の自然石を取り上げて、その石の歴史に思いをはせようというのがテーマです。

四日市は地元ですが、だからこそ、四日市にはそのような石はないのではと思っていました。

ただ、この1~2年、郷土資料をざっと読んだだけでも、今のところ4例の岩石信仰の事例を数えることができました。
いつものことですが、本当に岩石信仰は身近なところに横たわっているんだなあ、ということを思わされています。


2017年9月14日木曜日

石の薬局~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その9~

――実際のところ、われわれも石を食べている。ビスケットのなかには絹雲母が、薬の錠剤には粘土の一種ベントナイトが入っている。毎日食べる塩も、もとはといえば岩塩という名前の石だ。

石を粉状にすりつぶして飲むことで、病を治したりご利益を得るという信仰は、この日本にもあったし、今もそういう言い伝えを残す場所が存在する。

神奈川県横浜市保土ヶ谷区にある「釜壇の石」などがそうだろう。この石を欠いて粉末にして飲んだり、石に付いた苔を飲めば咳や風邪が治るといい、願果たしの際は酒を入れた竹筒を供えたという。

このような話は極端な例で、常人の感覚では違和感しかない話だが、徳井氏はふだん食べているものに石が含まれていることを指摘し、私たちの固定観念を揺さぶりかける。

石と認識していないものが、石である。
それは、学問的な定義による石と、常識的なイメージでの石との差と言ってしまっても良いかもしれない。

「常人」や「常識」という言葉を使ったが、しょせんそれは現代人が今つくりあげたふわふわした観念であり、50年前、100年前、1000年前の常人と常識は、現代人と対話不能なレベルだったと覚悟しておかないといけない。

「釜壇の石」が登場したとき、はたして「釜壇の石」は「石」という認識だったのか?
名前に「石」を付けた人がいるからそれは石として固定化したのであり、もともとは巨大な薬の塊だったかもしれない。

「釜壇の石」の横に落ちている小石は、粉末にして飲まなかっただろう。
同じ石でありながらこの差があるわけだから、「石」という名前が現代に放つイメージにとらわれていては危険なのである。

――宝石のなかにみとめられた治癒力は、おそらく宝石を護符とみなすことと起源を一にしているだろう。 ヨーロッパにおける「天体の力を封じこめた宝石」への限りない信仰は、科学的思考が人類の範となったあとも、ひそかな伏流水となって流れ続け、一九七〇年代のアメリカでニューエイジ・ムーブメントとなって姿を現した。

宝石が天体とつながっていて、天上界の力を借りられるという信仰は、古代バビロニアからあったという話である。

中世の錬金術師は、石には霊が宿っており、石を割り砕いて、中に入っている霊を取り出すことで、金以外の物質を金に転化することができると考えたという。

石という固いものを貫く存在だから、他のあらゆる物体の中にも浸透し、その物質の性質を錬金化できる。
石の霊とは、そういう存在だった。

この錬金術師の信仰と、天体信仰はどう絡むのか?

天体が象徴化された一片が宝石だったとするなら、天体は創造主の作った一片であるから、その中に閉じこめられたスピリットは、宝石以外の石も同様に位置づけられたのかもしれない。

欧米で火が付いたパワーストーンの概念は、日本に輸入されて久しい。
日本固有の概念ではないものの、一定層に浸透している理由を、人類の先天的な石への心性に求めるべきか、後天的な知識背景に求めるべきかは、ここでは結論を出せない根深いテーマである。

――石から何かを受けとるだけではなく、石に何かを押しつけることでも癒しは成立する。毒や痛み、イボやコブといった歓迎されざるものは、石になすりつけて捨ててしまおうという発想は古くからあった。

日本各地にイボ石と呼ばれる石がある。
イボ石という名前が付いていなくても、イボやコブ、各種病に効くという石がある。
石を直接こすり付ける場合もあれば、石をさすってから自分の体をさする場合や、石からしたたり落ちる水をつける場合など、いくつかの変型がある。

小さい石なら、なすりつけて捨ててしまう使いきりタイプもあっただろうが、大きい石もあり、半永久的に使用されたタイプもあった。
徳井氏は、こういった石を「掃除機」と表現した。ただし、次の条件付きで。

――石が厄介なのは、掃除機のように中身のゴミだけをまとめてポイッ、とはいかないところだ。病やコブはのり移ってしまった。(略)というわけで、治療に使われた石は本当に地中深くに埋められた。(略)石を容易に拾ってはいけない、という俗信は、こうした信仰にも関連していたかもしれない。

石には、私たちにはあずかり知らない経歴がある。

石に霊力を信じることができなくなった現代の私たちは、せめて、石に経歴があることを知って、石を取り扱っていきたい。

石は、掃除機と違って、中を開けて、中に入っているものを見ることができない。

石に込められている力があるのかどうか、知ることができない。

基本的に石の内部も経歴も、目に見えないものだから、得体のしれない存在として石を見る人がいることを、認めても良いだろう。

実際に、戦後日本にも石が薬として売り出されていたことを徳井氏は紹介している。

作家の寿学章子さんが、京都の老舗・鳩居堂で購入した「蛇頂石」がそれである。黒光りした楕円形の小石だが、二個入りで昭和初期50銭の価格。効能書付きである。

蚊やノミから、ムカデ、マムシ、クラゲなど、あらゆる生物に噛まれた時に効く「毒虫の薬石」といい、寿学さんは子供のころムカデにかまれると、親がこの蛇頂石をちょっと濡らして患部に貼ったそうである。
「ただちに痛みはすーっとひき、やがてポロリと石はとれる」。
使用後は、石を水につけると、石からプクプクと泡が出た。
寿学さんは、それを「ムカデの毒をはきだしている」と思った。
泡=毒。
泡が出終ると、石をふいておけば、また再使用できるという「魔法の石」だった。

実際は、この石は人工的に調製された石であったが、鳩居堂はこの蛇頂石を今は販売していない。
"科学的には"効能なしと判断されたのだろう。

寿学さんは、大人になった今でも1個だけが手元に残っていて、「これがなくなったらどうしようとノイローゼになりそう」とのことで、次のように嘆息する。

――こんないいものをなぜ現代の医学は(西洋のでも東洋のでも、何でもいい)作ってくれぬのか。科学はある点で後退しているとしか思えないではないか。

石の見えない力への信仰は、遠い昔の、現代とは無関係の話ではない。

むしろ、科学技術が発達する近代化の歴史の中でも、そのつど新たな岩石信仰は生まれた。
「貫通石」はその一例である。

――かつて鉱山はなやかなりしころ、「貫通石」なるものが流行したことがあった。坑道をつくる際、両方向から掘り始め、貫通する直前に最後の石が残る。これは安産のお守りと信じられ、鉱夫たちの垂涎の的となった。

これは、石そのものの成分や外形というより、シチュエーションがなせる業かもしれない。

ストーリーを持つ石である、ストーリーも、結局は目に見えないし経歴をたどれないから、得体のしれなさが増す。

鉱山においては、最もステータスの高い石が鉱石であることは自明のはずなのに、鉱石を採る前の掘った道の残滓に、霊的な力が求められるのだから変な話である。

鉱石自体は、産業従事者の中で宗教的存在にまではならなかったが、神格化されない石の信仰が、別にあった。
鉱石に対しては、何が信じられたか。次のとおりである。

――「成長する石」のイメージは、しばしば植物の姿を伴っていた。採掘で鉱石が減少すれば、鉱山を再び土で覆い、植物的成長にまかせれば鉱山は蘇り、以前にも増して多くの鉱石を生みだすようになるとする考えは、古くからあった。プリニウスは、実際に「再生した」というスペインの方鉛鉱の鉱山を紹介している。

岩石の植物化。

ユングに言わせれば、石と植物は面白い対比関係がある。
キリスト教世界観の中では、創造主がつくった創造物のうち、植物は場所が動くことはない、神の世界を表現する装飾物。
生物は神の意思から離れて動き回れる神の小片。
そして石は、意図や規格性を感じるものもあれば、そう感じさせないものが混在する、カオスな存在。

ユングは、そのカオスさに心惹かれ、石を愛したといわれる。

今回の「鉱石の成長」信仰は、一見、ユングの価値観とは別系統に属しているように見える。

石自体が植物化して、人の意思どおりに石が増殖するわけであるから、石はカオスでも得体のしれないものでもなく、産業従事者にとって石は従順な存在である。

石と植物は異なる位相ではなく、同じ位相の中に位置付けられたわけである。
石を管理したい人間による、新たな岩石信仰と捉えることもできるのではないか。

ガストン・バシュラールに言わせれば、石を植物の比喩で語る文学者もいたわけなので、岩石は大地を象徴するもので、自ずから大地に根ざした植物が岩石と同質化されることも、ありうるのである。

大地が不動のように見えて不動ではないように、大地の象徴である岩石も、不動性と動性の両面を持っていておかしくない。
二面性や、相反する性質を両方内包する存在であるなら、そもそもその性質自体が動的と評価でき、石の堅固性や不変性の側面に惹かれる人もいれば、石に成長性を感じとる人も出てくるのだろう。

それが、岩石信仰を一言でまとめることをできなくしている理由ではないだろうか。

――石が子どもを産む、石が鳴く、石が動く・・・・・・といった現代の科学には笑止そのものの話を、人は驚くべき執着をもって、何十世紀ものあいだつくり続けてきた。ある朝、誰かが思いついたといった類の話ではないことは明らかだ。

江戸時代の「石の長者」木内石亭は、「子産石」という奇石を所蔵していた。

丸い石だが、ときどき、小豆のように石を産むのだという。
石を産んだあと、産み穴などは子産石には空いておらず、いくつもの粒が産まれているというのに、元の母石の重さは変わっていないのだという。
石亭は、自らの目で「たしかに見ゆることなり」「奇というべし」と記している。

石亭は、奇人なのか?
(石が好きな時点で奇人というのは禁止で・・・)

彼が著した『雲根志』に掲載されたたくさんの奇石のうち、迷信が付帯している石も多く収録されているが、そのいくつかに石亭は「はたなだ信用しがたし」「下品の雑石なり」と語る冷徹な一面がある。
石を愛するがあまり、石に厳しい審美眼を持ったのだろう。

そんな石亭が、なぜ子産石には籠絡されたのか?

――これまで奇譚の類に「弄石家の尋ね需むべきことにあらず」などと冷淡を見せてきた石亭も、今度ばかりは真面目になった。なにしろ他人の体験ではない、自分が目撃したのだ。孕んでいる石のからだが透けてきて、次第に子どもの石があらわれる――。石の変化の描写を読むと、石亭はなにかの卵ととりちがえたのではないかと思えてくる。

2017年9月10日日曜日

天河大辨財天社の天石(奈良県吉野郡天川村)


奈良県吉野郡天川村坪内107

「鎮守の杜、琵琶山の磐座に辨財天が鎮まり、古より多くの歴史を有す」(社頭掲示より)

天河大辨財天社の天石

社殿は小高い丘の上に建つ。
これが琵琶山で磐座と見立てたものだろうか。

当社には「天石」と呼ばれる四つの石がある。

「この地は『四石三水八ツの杜』と言われ、四つの天から降った石、三つの湧き出る水、八つの杜に囲まれし処とされ、神域をあらわす。その内三つの天石(一つ石階段右・二つ五社殿前・三つ裏参道下行者堂左)を境内に祀る。」(社頭掲示より)

チェリーさんの「神社参拝記」によると、天石の名前は「イノコ石、玉石、ダムダ石、もう一つは不詳」 、もう一つの説として「イノコ石、ダムダ石、天石、名称不詳」という(「大峰本宮天河大弁財天社」より)。

瀬藤禎祥さんの「神奈備にようこそ」によれば、弁天橋の下に「ダムダ石」(通称ムシロ岩)があるといい(「天河大弁財天社(天河神社)」より)、ダムダ石については特定ができるが、他の石は名前と場所が一致できない。

天河大辨財天社の天石

一つ石階段右

天河大辨財天社の天石

二つ五社殿前

天河大辨財天社の天石

三つ裏参道下行者堂左

一つめ、二つめとは違い、垣や注連縄の標示がないので特定しにくい。
上写真でいうと左手前の、樹木の陰に隠れ気味の石といわれるが・・・。

天河大辨財天社の天石

上写真のとおり、行者堂の右奥側に小ぶりな三角石もあり、これも怪しいのだが、社頭掲示は「下行者堂左」とあるので、やはりこちらは違うか。

天河大辨財天社の天石

天石の四つめの場所は、社頭掲示では明示されていないが、先述のように弁天橋の下にあるダムダ石のこととされている。

弁天橋の橋の上から眺めてみた写真が下。

天河大辨財天社の天石

どれだろう?

神社ライター・宮家美樹さんによる記事「奈良の神社話その一 神が降る『天石』、四つ目の謎──天川村・天河大弁財天社」によると、「赤い欄干の弁天橋の中心辺りから上流側を見ると、水面から平たい石が顔をのぞかせているのがわかる。本来は2メートル程あるこの石こそが四つ目の天石」とのこと。

しかし、どうしてなのか、肝心の写真が掲載されていないので、照合できない。

天河大辨財天社の天石

あえて絞るなら、これが比較的平たいけれど、裏付けをとれない。

川には他にもいくつか平たい石や大きめの石があり、取り立てて目立つのがどれとも言いにくい状況。
とりあえず、 結論保留のままとしておきたい。

どなたか、この天石についてご存知の方がいらっしゃったらお教えください。