2017年4月25日火曜日

能勢七面山の岩神(大阪府豊能郡能勢町)


大阪府豊能郡能勢町倉垣

概要

能勢町と京都府亀岡市の境にそびえる釈迦ヶ嶽(標高512m)。
その南西に伸びる尾根一峰(標高470m)を七面山と言うようだ。

この山は、七面山七寶寺、能勢の高燈籠といった、その方面では濃厚な宗教スポットを擁する。
これらに挟まれるように、歌垣神社と石用山涌泉寺がひっそりと佇む。

歌垣神社と涌泉寺は隣接しており、鎮守-宮寺の関係だったらしい。

裏山中腹に巨岩が露頭し、麓からもその姿が確認できる。
かつては、この巨岩を岩神と呼んでまつったのが歌垣神社の起源であるという。

伝えるところでは、康保2年(965年)に初めて苗代祭りを行ない、建久7年(1196年)に神社を現在の山腹に遷座し、嘉永2年(1625年)に牛頭天王が勧請され、明暦元年(1655年)に日蓮宗総本山身延山の七面天女を岩神の旧址にまつり、明治時代に近在の6社を合祀してその時に地名から歌垣神社と名付けられたという。

能勢七面山の岩神

所感

信仰上の画期は、江戸時代における牛頭天王の勧請と日蓮宗の影響である。

牛頭天王勧請以前、この神社が何をまつり神社名が何だったのかということがはっきりしない。
素盞鳴命のままだったかもしれないし、合祀祭神を除いた中で一柱として載っている大山祇命かもしれないし、祭神記録にも残っていないが宇賀御魂命だったという一説もある。

江戸時代、能勢一円における日蓮宗改宗の動きは活発だったようで、涌泉寺もかつては真言宗龍泉寺だったのが日蓮宗となり、山号・所在地も改めたという。
岩神にも法華経を守護する七面天女がまつられ、山の名前も七面山(甲斐国日蓮宗霊山の七面山に由来)と称された。
涌泉寺が掲げる石用山の山号も、山の特徴を表しているような感がある。

岩神への道はなく、歌垣神社の背後の斜面をひたすら登る。
 地図的には、七面山七寶寺の方から登ったほうが近道になるが、七面山七寶寺は登山のための通り抜けを禁止しているため、このルートは推奨しない。

山の斜面を登っていくと、各所に思わせぶりな露岩群が見える。20分ほど登ると視界が開き、高さ10m以上はあると思われる岩神に到着する。

能勢七面山の岩神

岩神は、崖状に落ち込んだ巨大な岩盤の頂面に、斜め上に突き出た立岩状の岩石が乗っかかり、その2つの間に別の岩塊が差し込まれたかのように挟まっている(詳しくは下写真を参照)。
急斜面の立地にあるので、転石に伴う自然の造形と推測されるが、まさに「天然の屋根」である。

能勢七面山の岩神

また、この岩神の西に接して、頂面が平らな平石とその奥に屏風のように立つ岩石があり、まるで祭壇か修行の台座石かのような光景を見せている。これは人工的と言われてもうなずいてしまいそうな構造物である。

能勢七面山の岩神

さらには、岩神の下方に、転石によるであろうドルメン状の構造物があり、その辺りに郵便受けのような金属製の箱が転がっていた。
裏返してみるとそこは空洞になっており、おそらくこれは小祠を中に収納して雨よけ保護していたものだったと思われる。七面天女の祠の名残だったかもしれない。

能勢七面山の岩神



2017年4月20日木曜日

八つ岩(奈良県天理市)



奈良県天理市長滝町日の谷

参考文献

瀬藤禎祥さん 「日の谷」「八剣神社」「神奈備にようこそ」内)→2010年1月10日アクセス
kokoroさん 「神社による古代史4 石上振神宮略抄より H13.9.17」「神奈備にようこそ」内)→2010年1月10日アクセス
乾健治(1939年原著)・瀬藤禎祥さん(抄訳) 「鳥見山傳称地私考 by 乾健治氏」「神奈備にようこそ」内)→2010年1月10日アクセス
しぇるぱさん 「天理の大国見、奥へ奥へと」「シェルパ散らし踏み」内)→2010年1月10日アクセス

概要

「八ッ岩」と表記する場合もある。スサノオに斬られたヤマタノオロチが神剣になって、あるいは、神剣に付き従って降臨したといわれる岩。


2017年4月13日木曜日

ドラクエと岩石信仰

「ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて」

先日、ドラクエ11の発売日が7月29日と発表されたのを聞きました。

ドラクエ30周年記念作品として、いつもよりもプロモーションや制作に力が入っている模様。

私はドラクエ6までしかプレイしていませんが、今作気になるんですよね。

本作のロゴがドラクエ1の反転だったり、オープニング映像にロトの剣が登場したり、 原点回帰的な内容という噂も聞きます。

かつてロトシリーズに親しんだ身としては、久しぶりにやってみたいという気持ちが沸々。

でも、PS4も3DSも持っていないんですけどね。

ひとまず気を鎮めるべく、ドラクエ11の関連ページを探していたら、こんな記述を発見。

主人公の故郷となるイシの村は,命の大樹が浮かぶ大陸の南にある巨大な岩山近く,渓谷地帯の一角に位置する。この村には,16歳になって成人を迎えた者が,大地の精霊が宿るとされている「神の岩」に登って祈りを捧げるというしきたりがある。

 「4gamer.net」より

「イシの村」で、「神の岩」に「大地の精霊が宿る」かあ・・・。


ドラクエと岩石信仰、来ましたね。

岩石信仰の市民権がさらに広がることは、いいことです。

わたしも自分の趣味を人に伝えやすくなりますし(笑)

ゲーム画面を通して、岩から何かを感じとる、そんなプレイヤーの方が続出してもおかしくないと思います。

私もかつてドラクエのドット絵で、大海原にロマンと想像をたくましくした世代ですから。

ドラクエ11を(ハード的に)プレイするかは分かりませんが、期待しています。

2017年4月12日水曜日

高塚の森(和歌山県東牟婁郡串本町)



和歌山県東牟婁郡串本町潮岬
※潮岬灯台前の有料駐車場の車道挟んだ向かい側の森。見つけにくいが入口に「高塚の森 神武(崇神)天皇郊祀時」の木標あり。

高塚の森

概要

潮岬の突端に鎮座する潮御崎神社の神域とされる森。

森内には円丘状の高まりとそこから露出する岩石があり、地元の伝説では応神天皇の侍従の墓と伝えられ、かつては小祠がまつられていたという(小祠は現存せず)。

昭和40年代、円丘南西側に列石や土堤で整地された平坦地形の存在が指摘され、測量調査が実施される。
また、夏至の日にその平坦地から円丘の露岩上から太陽が上ってくることが確認され、高塚の森は太陽祭祀の場だったとする説が出された。

高塚の森
応神天皇の侍従の墓と伝えられるという土の高まり

所感


現地に案内標識の類が全くないので詳しい場所が分からず、地元の人や近所の人何人かに聞き込みをしましたが誰も知らず。
近くのロッジの方に聞いて「聞いたことはある。行ったことはないがあの森だよ」とやっと教えてもらえました。現地での関心・知名度は絶望的に低いです。
 
森の中は鬱蒼とした雑木林という感じで、真夏に入りたくはない感じ。
しかし森の中には遺跡・遺構であることを示す数々の木標や、歩きやすいように草刈などの整備もされています。
これは地元で高塚の森を長く研究されてこられた「はつくにしらす顕彰会」の木村正治氏の努力によるものと思います。

森の中には、確かに人工的な整地が行なわれていたと言える痕跡が確認できました。
最も明確な人工的痕跡は土堤で、周辺の地形から不自然に盛り上がった堤状・塀状地形が20mほど続いています。
その西に並行して直線状に並んだ列石があり、この列石に90度直交した石列もあり、石列の内と外は段になっています。ここは「斎場」と銘打たれています。

高塚の森
石列の一部

ここから北東方向に進むと「斎庭」と銘打たれた平坦部があり、ここには鏡を夏至日の出方向(北東)に向けた鏡とその支え台が想像たくましく「推定復元」されています。
ここから円丘上から上る日の出を仰ぎ鏡に反射させたということでしょうが、斎庭の平坦面は自然地形の想定内でありこの場所に明確な陣異性は認めがたく、祭祀場であったかどうかには疑問も残ります。

高塚の森

高塚の森

さらに北東に進むと円丘状高まりがあります。
頂部には岩石が見えますが、人工的な石材を置いた古墳・神殿的なものには見えず、土に覆われた岩盤の一部が露出し、風化・浸食によって数個の岩塊に分散したというような露岩の在り方です。従って古墳とは違うと思います。

では祭祀遺跡だったか?というと、ここからは遺物が発見されていないので遺跡の認定はできません。
証明された事実は「斎庭」「斎場」地点から円丘の方向を向くと夏至の日の出が上がるということと、「斎場」地点に人工的な列石・土堤が残るということです。

ここの列石・土堤が「いつ作られたものなのか」「何のために構築されたものなのか」という点も十分な批判的検討を経ているとは思われません。
この森が潮御崎神社の神域で応神天皇の侍従の墓として神聖視されたのがいつの時代からなのか、歴史的な資料の裏付けが求められるところです。
森が神聖視されていない時代に農耕的・土建的な目的で構築された地形改変の跡に過ぎないかもしれませんし、祭祀目的であったとしても古代の設置ではなく、意外と近代以後の設置だったという可能性も残っています。もちろん、他の可能性も・・・。

参考文献


松前健・安井良三「対談 巨石信仰と太陽祭祀」及び北岡賢二「高塚の森」『特集・巨石信仰と太陽祭祀』(東アジアの古代文化 28号) 大和書房 1981年

はつくにしらす顕彰会 木村正治氏のWebサイト「三世紀 古代ロマン 南紀潮岬 謎の巨石遺跡 『高塚の森』=太陽祭祀遺跡研究」 → 2009年8月25日閲覧。現在リンク切れ

(2009年8月25日の旧サイト記事を再掲)

2017年4月5日水曜日

たいち墓/太一墓/加三方磐座遺跡(岡山県)


所在地:岡山県和気郡和気町加三方

金子山中腹の尾根端に立地。
昭和51年に「加三方磐座遺跡」の名称で町指定史跡となっている。

たいち墓
遺跡中心部



遺跡の構造は複雑である。

台座石の上に立石を置いた組石があり、これは人工物と考えられる。
一見すると石碑のようだが、立石に文字などは刻まれていない。
石を立てること自体に意味があったのだと思われるが、その目的・機能ははっきりしない。

たいち墓
組石。三段積みになっており隙間には割石を敷き詰めている。


この組石の北に、8個の細長い岩石が一列に並んでいる。
外見的な印象では、横穴式石室の天井石が露出したようにも見える。

たいち墓
8個の列石。頂面の高さも揃っている。


そして組石の東には1個の丸石があり、その周囲を細長い岩石が3個以上取り囲んでいる。
ここだけ見ると、視覚的には環状列石のような感を呈している。

たいち墓
組石の東に広がる環状列石状構造。 環状に並べられた椅子のようでもある。


さらに組石の南には横穴式石室が1基開口しており、磐座山古墳という名前が付けられている。
径15mの円墳で石室長は8.1m、無袖式という古墳規模から考えて、古墳時代後期の山地帯群集墳の典型例と言える。
金子山には他の尾根筋・谷筋でも複数の古墳が確認されている。

たいち墓
磐座山古墳の石室内部。 古墳は盗掘を受けており出土遺物は確認されていない。


これらの点から考えて、磐座遺跡自体も数基の古墳が1つの尾根に密集したものであり、石室の天井石が露出した姿の可能性がある。
それが後世になって雨乞い祭祀の場になり、石材を再利用して立石の組石を築いたのではないだろうか。

ただ、遺跡北東端に露出する2個の巨石は天井石のように接し合っておらず、自然の岩盤のようにも見える。いずれにせよ開口している1基以外の露岩の地中は調査されていないためこれ以上の判断は保留せざるをえない。

土器片と石包丁が発見されているという情報があるが、詳細な報告書が見当たらず、その点数や発見位置、遺跡及び古墳との関連性は全くの不明である。

ここまでは考古学的な話に終始したが、一方で民俗学的な情報をまとめておきたい。

地元では「たいち墓(太一墓)」と呼ばれ、雨乞いや花見の場所だったといわれている。
磐座という呼び名では語りつがれていなかったことに注意したい。

現地を訪れた際、「たいち墓」までの道を定期的に清掃されている地元の方にお会いすることができた。
その方いわく、かつてはマツタケがよく採れたといい、収穫期には見張りのため地元の人がここで夜通し酒食しながら番をしたという。
しかし、やがてアカマツは枯死し、マツタケは採れなくなったことから、見張りの習慣も今は途絶えているらしい。

また、加三方という地名は、部・三宅・大方という3つの集落名をくっつけた字であり、中心集落は三宅であるが、加三方地区合同の祭事を行なう時に神輿を担げるのは大方だけだそうだ。

「たいち墓(太一墓)」や「雨乞い」というキーワードからは、中国思想(陰陽道・天帝信仰)や天体信仰(北極星・天照信仰)のほか、ここがやはり墓所という認識だったことが読み取れる。
また、花見や酒食の番という風習からは葬送供養時の直会の要素を垣間見ることができる。

以上を綜合すると、立石の組石については墓標の働きがあった可能性と、雨乞いの時の祭祀対象として置かれた可能性があるだろう。

なお、遺跡西北の林道脇に細長い岩石がある。
先述の地元の方の話によると、これを「休み石」と呼び、番をする人が道の途中で腰かけて休むものだったという。
特に祭祀要素はないようだが、他例だと群馬県賀茂神社神籠石の「休め石」などは、祭事に神輿を休めるための岩石として用いられており、全国の類例から考えると当地の「休み石」も元来は祭祀に用いられていた可能性があることを付記しておきたい。

たいち墓
ブッシュで分かりにくいが写真中央が休み石。林道の側溝脇にある。


参考文献

八木敏乗 「加三方」 『岡山の祭祀遺跡』(岡山文庫145) 日本文教出版 1990年

「たいち墓」「磐座山古墳」(奈良文化財研究所「遺跡データベース」検索結果より) →2010年5月30日アクセス。
*上記サイトのたいち墓の座標位置は誤っており、たいち墓と磐座山古墳は隣接しているため磐座山古墳の座標位置が正しい。

2017年3月30日木曜日

与喜山第12次調査(完結)

今日、やっと見つけることができました。
15年間の調査に一段落です。


藤本浩一『磐座紀行』にだけ記録がある通称「三の磐座」です。



狛犬が片方欠けています。

場所は、何度も見たことのあるこの立岩の北斜面下でした。


灯台下暮しで。
「北ののぞき」から尾根を東に徒歩2分です。

『磐座紀行』の記述では、ここにたどりつけませんでした。あの記述では、違うところを捜査してしまいます。信じすぎたな。

立岩から北斜面下を覗き込むと・・・


上の写真の右下に見えますか?
現地にいても、樹林と露岩群に同化されており、気づきませんでした。

今まで、この場所に呼ばれていなかったんですねえ。
でも、だからこそ15年もこの山に何度も来られて虜になったとも言えます。

研究論文としてまとめるところまで来られたのも、まるで何度も足を運び追究せよと、与喜山に導かれたかのようです。



現在、論文の校正待ちでしたが、滑り込みでこの発見を追記修正する必要があります。
(許されるかな?)
いつか発表できればと思っています。

これで唯一残された謎ははっきりし、与喜山の調査は私の中でフィニッシュを迎えることができました。

先日、ブログでこの磐座の情報を募集したところ、情報提供をくださった高橋さん、誠にありがとうございました。日本の広さを実感しました。
(なぜご存知なのかと脱帽しました)


2017年3月22日水曜日

金丸八幡神社の列石(徳島県三好郡東みよし町)


徳島県三好郡東みよし町中庄1187

参考文献    


三加茂町文化財保護委員会(編) 1984 『三加茂町の文化財』 三加茂町教育委員会

田中合 1990 「阿波上郡在方文書集」『風蘭』13号 三加茂町歴史民俗資料館

山梨賢一・薬師寺真・木村和子・村瀬紀子・渡辺威弘(編) 1993 『日本ミステリー・ゾーン・ガイド<愛蔵版>』 学習研究社

三加茂町民話伝説収集委員会(編)・下川清(監) 1986 『手書き 三加茂百話』

三加茂町歴史民俗資料館 展示各資料

概要

正式には八幡神社だが、全国の同名神社と区別するため、金丸八幡神社・中庄八幡神社・三加茂八幡神社などの通称がある。

神社の境内を、387本もの石の列が取り囲んでいる特異な神社として有名である。磐境・皇護石・建石など色々な呼び方が通っているが、本項では列石と表記する。

使われているのは、この地域で取れる緑泥片岩という緑色を帯びた岩石である。
板状に割れる摂理を利用して、そのまま石を板のように立てて境内に並べている。

大きいものは、地表面から高さ1.5m以上、幅1.2m以上、厚さ30cm以上に及ぶものもあり、平均でもおよそ高さ1m前後の板石が多い。。
現在でこそ387本だが、往時はもっと多くの板石が社域を巡っていた可能性がある。

金丸八幡神社の列石
2003年撮影。2016年に隣接するトイレの工事があった時に、列石の一部が破壊されたという話を聞いた。文化財に登録されているというのに・・・。

金丸八幡神社の列石
2003年当時

金丸八幡神社の列石
2003年当時

猪群山(大分県豊後高田市)



概要


大分県豊後高田市(旧真玉町)にそびえる標高458mの山。
山頂は北峰と南峰に分かれ、北峰頂上に「ストーンサークル(環状列石)」があることで知られています。地元でも名所の1つとしてけっこう有名なはず?

面白いネタとしては、作家の松本清張氏と考古学者の斎藤忠氏(静岡県埋蔵文化財調査研究所所長。考古学史の整理作業などで有名)が現地調査をしたという話があります。

その調査報告書『猪群山-山頂巨石群の研究-』(1983年、以下調査報告書と略)まで出ているところが凄い。

猪群山


2017年3月19日日曜日

賀茂神社の神籠石(群馬県桐生市)


所在地:群馬県桐生市広沢町

賀茂神社の祭典の前夜、神籠石で榊に神を降ろし、台待窪で榊を神輿に乗せ、「休め石」に神輿を降ろしながら、神社へ神を迎える神事が明治維新の頃まで行われていたという。
しかし、戦後しばらくして、近年は賀茂神社の神職の方も足を運ぶことがなく、正確な位置もあやふやとなっていた。

この神籠石について、2007年2月に賀茂神社の神職さんへ話を伺った。

・この岩石の読み方は?

 「かわごいし」。しかし神職さんが言うには、元は「かむごいし」ではないかとも。「神が籠る」という意味を重視されていた(つまり「かむご」は神職さんの考えが入っている可能性あり)。
 また「こうごいし」はどうですか?と聞いてみても通用したが、これはいわゆる神籠石の知識があるから通用したのかもしれない。

・なぜ近年は祭祀されず、所在が分からなくなったのか?

 神職さんと連れの年配の方の話によると、昔はちゃんと手入れをしてまつっていたとのこと。
 戦前までは、神籠石の周囲四方に竹を立て、注連縄を張っていた。そして春と秋の2回、赤飯・塩・水(酒だったかも失念)をお供えして祈願祭祀していた。

 それが昭和20年代前半に来た台風により周辺一帯が被害に遭い、その時に神籠石が斜め下に傾き崩れてしまったとのこと。
 この台風により里も大被害を被り、神籠石への道も倒木やら山崩れやらでしばらくの間行けなくなってしまい、そうこうしている間に神籠石への祭りは途絶えてしまったという。

 近年の神籠石が見向きもされなかったのもその延長線上で、年配の方しか神籠石の存在を認識していない状態だった。

・神籠石へのタブー

 タブーは特になかった様子。神職さんも子供の頃は神籠石の上に立ち登ったりして遊んでいたというので、戦前の頃は少なくとも畏怖的というより、親近的な信仰だったのだろう。


そんな神籠石だったが、2007年頃より、楚巒山楽会代表幹事が中心となって山中隈なく探索された結果、2009年3月に土木に半ば埋もれつつあった神籠石を再発見。
往時の神籠石を知る地元の方のお墨付きもあり、神籠石の所在が約60年ぶりに確認された。
神籠石の表面を覆っていた土木は取り除かれ、手前には神籠石を示す看板も設置された。

しかし、神社や地元自治体が定期的な管理をしているわけではない。
管理人が訪れた2010年には、すでに山荒れが進んでおり、道も倒木もひどく多かった。立てられた看板も後に消失したという。

ただ、現在、Googleマップ上にも目印がつけられ、所在地については今後忘れられることはないだろう。
祭祀されない山中の岩石は忘却が進みやすいので、せめて正確な形で記録が語りつがれていくことを祈りたい。

神籠石再発見までの経緯については、2007年以降リアルタイムで書かれてきた下記出典サイト・ブログの各記事を参照されたい。
当サイトもこの神籠石について、2007年以降試行錯誤の踏査や的外れの仮説などの更新を重ねてきたが、あえてその駄文は割愛させていただき、ここに簡潔ながら事実の報告と参考文献・サイトの紹介を永久に記録しておくことで、せめてもの罪滅ぼしとしたい。

なお、桐生市教育委員会文化財保護課・編『桐生市埋蔵文化財分布地図・地名表』(1994年)に史跡登録された「川越石」はこの神籠石と同一物を指すものと思われるが、地図に落とされた位置は全く別の谷間であり、遺跡地図が示す場所が間違っている。後学の方が騙されないようにここにはっきり記しておく。

神籠石
賀茂神社前に掲示された神籠石の位置を示す地図。
この地図だけでは絶対辿りつけないので、Googleマップを頼りに訪れよう。

神籠石
神籠石に取りつくルートは山荒れが激しく、倒木とブッシュに見舞われるので注意。

神籠石
2010年時点での神籠石。2009年に建てられた看板が健在。

神籠石
看板裏に刻まれたメッセージ。いろいろなストーリーがあって立てられた。

神籠石
神籠石近景。元来は頂面が水平で、戦後の台風で斜めに傾いてしまったという。

出典

楚巒山楽会代表幹事・楚巒山楽会代表幹事代行「ヘロコヤシキ」「神籠石/かわご石山」「神籠石発見!」「神籠石最終章」(サイト「やまの町 桐生」内) 2012年11月18日アクセス
すずき@東毛「賀茂神社の『神籠石』 ~ 神様が降臨した石は何処に」「続・賀茂神社の「神籠石」 ~ ついに神籠石を拝す」(ブログ「上州東毛 無軌道庵」内) 2012年11月18日アクセス
山田郡教育会・編 『群馬県山田郡誌』 山田郡教育会 1939年
桐生市史編纂委員会 『桐生市史 上巻』 1958年
島田一郎 『桐生市地名考』 桐生市立図書館 2000年
桐生市教育委員会文化財保護課・編 『桐生市埋蔵文化財分布地図・地名表』 桐生市教育委員会 1994年
吉川宗明 「賀茂神社の神籠石(群馬県桐生市) 忘れ去られつつあった岩石の再発見譚」 『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』 遊タイム出版 2011年

2017年3月16日木曜日

富士河口湖の皮籠石(かわごいし/かあごいし/かむごいし)



所在地

山梨県南都留郡富士河口湖町小立字皮籠石

出典

・古代山城研究会代表 向井一雄氏が現地調査された内容を管理人がうかがって編集

・「富士河口湖町小立土地区画整理組合HP」 2013年8月16日アクセス

情報

・『ふるさとの地名考(河口湖の文化財第5集)』(河口湖町 1986)に当地の「籠石(かむごいし)」の地名が取り上げられており、かつて明治~昭和20年代までは皮籠石の表記だったという。

・「かあごいし」とも音読したといい、当地は岩石が散在する場所だったと記載されている。

・享保年間の古文書に、日蓮上人が法座石・鼻曲石(像鼻石)・硯石・経石・たて石・へび石・かわご石の七ッ石を名付けたと記されているという(未見)。この内のかわご石が当地の皮籠石とされる。

・当地は平成21年頃から土地開発工事が入り(事業開始自体は平成17年からともいう)、現在は商業施設・住宅団地が造成されている。

・富士河口湖町都市整備課の中に、開発前に字皮籠石に岩石があったことを知る方がおり、山林だったところに細い道が通り、その傍らに長さ1m大の平たい岩があったという。一部が盛り上がっており、人が座れるような形状だったという。

・その岩石はかなり風化・摩耗している様子で、開発工事により撤去・処分されたという。特に記録・写真なども残されていない様子なので、本項で皮籠石の歴史を記録保存しておく。

・皮籠石水源として知られる採水地の1つで、岩石と水源の関係を考える1つのケースになるかもしれない。


2017年2月19日日曜日

朝鳥明神(岐阜県揖斐郡揖斐川町)


所在地:岐阜県揖斐郡揖斐川町上野字馬瀬口

1、朝鳥明神の磐境

小島山(標高八六三メートル)と室山(標高三七四メートル)の間には朝鳥谷(浅鳥谷)が形成されており、谷から流れる沢は揖斐川へ接続している。この朝鳥谷の入口に朝鳥明神が鎮座しているが、類を見ない祭祀形態を持つ神社である(一九六七年、朝鳥明神址として揖斐川町指定史跡になっている)。

一の鳥居は、二本の木柱に竹を渡した〆鳥居と呼ばれるものを建てており、奥にある二の鳥居は素木で組んだ神明鳥居である。二の鳥居の背後に、「案」と呼ばれる供物などを捧げるための台があり、木造と石造の二つが置かれている。石造の案の上には、鏡と四手を収納するための小祠が置かれている。

案の後ろの山林は「神山」と呼ばれ、今も禁足地になっている。この禁足地に列石があり、通俗的に磐境と呼ばれている。中に入ることはできないが、草木の間から顔を出す岩石の群れを確認することができる。まず案の背後に四個の列石が横一直線に並び、その奥に注連縄の巻かれた一個の岩石がある。これを取り囲むかのごとく、さらに奥に四個の注連縄の巻かれた岩石が配されている。

この磐境を使って今も定期的に祭祀が行なわれているというが、はたしてどのような内容なのだろうか。
朝鳥明神
写真中央の森の中に朝鳥明神が鎮座する。

朝鳥明神
特異な〆鳥居。奥に見える簡素な祠が朝鳥明神である。

朝鳥明神
祠の前に案が設置されている。

朝鳥明神
祠の裏は神山と呼ばれる禁足地で、その中に磐境が散在している。


2017年2月17日金曜日

昭和京都名所図会 全7巻

高度経済成長期を境に日本の風景は一変したといいます。

風景だけでなく、人々の観察眼や興味関心も様変わりしたように思えます。

この本を読むとそう思わされます。


昭和京都名所図会と名付けられたこのシリーズ。
全7巻14000円のところを5000円以下で見つけたので揃えて買ってしまいました。

京都の名所旧跡を作者お手製の絵図と共に紹介する、今風に言えば観光ガイド。
でも、今の観光ガイドとは目の付け所も取り上げ方も違います。
題名通り、江戸時代からの流れを汲む名所図会の香りで雰囲気は統一されています。

川の淵の名前や逸話など、現代人がスルーする情報が多くのせられています。
ここでしか言及されていない「仙遊石」など、岩石祭祀事例も多数収録。

こういった情報は、今の観光のメインストリームからは完全に除外されています。
除外されているというより、情報と興味関心が次世代に受け継がれず、断絶しているんでしょうね。

私が生まれていない時代の空気を閉じこめているわけで、この本を読むことで、生まれていない時代の歴史を追体験できます。
いま目の前で見ている京都とは違う京都像の視野を広げてくれるという意味で、京都に惹かれる方にお勧めします。

2017年2月13日月曜日

四賀のイワクラ(磐座)

松本市四賀化石館(長野県松本市七嵐85-1)で「四賀のイワクラ(磐座)」と題された写真展が開催されます。

http://matsu-haku.com/shigakaseki/archives/353

期間:平成29年3月3日(金)~3月30日(木)

長野県松本市のイワクラというのは今まで知ることはありませんでした。
初耳の方も多いのではないでしょうか。

でも、昨年はミステリツアーで四賀地区の特異な地層を持つ岩々を巡っているようです。
また開催されるのなら、行きたいですね。

すべてが歴史的ないわれをもつ磐座かどうかは不明ですが、地学的な目線からのピックアップが特徴的です。

2017年2月6日月曜日

【情報募集中】探しています

岩石信仰・岩石祭祀の調査を続ける中で、いくつかの所在地について疑問や謎を残したままになっています。
ここに私が今まで関心を抱き続けてきた不明点をまとめておき、いつか真相を知る地元の方や当事者の方にこのページ上で出会えることを祈ります。

本記事のコメント欄、あるいはページ下部にあるお問合せフォームから、下記の案件に関わる情報をお持ちの方はご投稿いただけると嬉しいです。

■ 猪俣の七石(猪俣の七名石)の正確な所在地


埼玉県児玉郡美里町猪俣にあるという、こぶ石・鏡石・福石・爺石・姥石・唸石・櫃石の七石。
こぶ石の場所は把握していますが、それ以外の六石の正確な所在地、あるいは現況をご存知の方、お教えください。

猪俣の七石の一つ「こぶ石」

■ 八嶽山神社の裏山にある天宮神社と妙見神社の詳細


山梨県山梨市山根に所在。
天宮神社が八嶽山神社の奥の院に当たるのか。妙見神社へのルートと現地に行かれた方の情報をお待ちしています。


→2017.2.10追記 本記事コメント欄にて情報提供をいただきました。ありがとうございます。

■ 尾張本宮山と相澤山に環状列石があったという話について


愛知県犬山市の本宮山頂と相澤山頂には環状列石があり、この石柱を麓の大縣神社に移してまつっていたが永正年間と万治二年の火事により所在不明となったという楽田古文書会の会長の話が、当サイトの掲示板に過去投稿されたことがあります。信憑性は定かではありませんが、他ではまったく見聞きしない話であり興味深いのでここに転載しておき、さらなる詳報を待ちます。

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尾張本宮山   Follow: 244 / No: 243 [返信][削除]
 投稿者:かずゆき。  02/08/26 Mon 22:22:44

    はじめまして。
    相澤山頂と本宮山頂には環状列石があったそうです。
    また大縣神社と本宮山は永正年間および万治二年に
    火事で焼け落ちており、その際に社殿に祀つられていた
    石柱(山頂の列石をおろし神体とした)は不明となって
    しまったそうです。

    元犬山市教育委員
    楽田古文書会 会長 小澤重功氏談

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相澤山の中腹、おそそ洞と呼ばれる場所にある奥宮の御社根磐

■ 小牧山の観音洞にあるという七ッ岩(七つ石)の位置


2010年頃、当サイトの掲示板でチェリーさんと共に、愛知県小牧市の本石の所在地について文献・現地情報収集などをおこないましたが、現時点で特定できていません。
ならびに、小牧山にはストーンサークルがあったという説があり、巨石文化に関心を寄せていた民族学者の鳥居龍蔵博士が言及したこともありましたが、これの情報出所と実体と現況or消滅時期も情報募集中です。
最近、小牧山城から巨石の石列跡が検出され、来場者への示威に用いていたのではないかという説が出ましたが、これとの関連性も気になるところです。

小牧山麓の間々観音に掲示されている七つ石の由緒板(チェリーさん撮影)



■ 真清田弘法について


愛知県名古屋市千種区の覚王山日泰寺の境内にある真清田弘法の中には、今もまだ石がまつられているのかどうか。
この石は、愛知県一宮市の真清田神社の本殿裏に土壇状にまつられていた神体石だったという逸話があります。詳細はリンク先をご参照ください。
日泰寺と真清田神社からかつて頂いた回答は、後世の資料に沿った表面的なものでしたので、今一つ正確性が期待できず、当時を知る話者の方にお会いしたいです。
真清田弘法を定期的にお経をあげにくる世話人の方がいるらしく、その方に一度お話を伺ってみたいと思っています。その方をご存知の方ががいればご紹介ください。

真清田弘法について詳しい方急募

■ 多度山の上冠石と下冠石の違いをご存知の方


三重県桑名市の多度大社の裏山である多度山中には五箇神石という五石があり、その一つである冠石は、上冠石と下冠石の二体に分かれているという説があります。
多くの場合、冠石と一つに包められて話がなされることが多いので、この二体の所在地が特定できておらず、ご存知の方はお教えください。

多度山中にある巨岩の一つ。私は下冠石ではないかと推測していますが未確定。


■ 川上山若宮八幡宮の北方の山中にある燈明石と雨乞社(立岩さん)の所在地


三重県津市美杉町川上。詳細はリンク先で書きました。
web上はもちろん、文献上でもおそらくほぼ出回っていない場所です。
それだけに、記憶の消失が危ぶまれます。
正確なアクセスルート、あるいは、地図上での位置を落とせる方に出会えることを待ちます。

雨乞社(立岩さん)へ取りつく入口と思われる逢神橋


■ 瓦屋寺御坊遺跡の所在地

滋賀県八日市市の瓦屋寺山の坐禅石の前から見つかった古墳時代の祭祀遺跡。
この坐禅石が特定できないため、遺跡の位置も現地で確定できていません。ご存知の方、情報をお待ちしています。


瓦屋寺境内に露出する岩崖。これではないようです。


■ 大岩山銅鐸出土地近くにある「ネコ岩」について


滋賀県野洲市の銅鐸博物館の西に、立岩をまつった場所があり、今も祭り場として手入れが行き届いています。「ネコ岩」という名前がついているという説がありますが、一方でそうではないという地元の方の声もあり、この立岩についての詳細と、ネコ岩が別にあるとしたらその場所をご存知の方を探しています。

ネコ岩?



■ 与喜山(奈良県桜井市)の「三の磐座」の場所をどなたか踏査して発見してください。

藤本浩一『磐座紀行』(向陽書房 1982年)掲載の写真
上の場所を約15年、10回にわたる踏査で探していますがまだ見つかりません。
1人では限界を感じており、合同踏査していただける方、大歓迎です。

→2017.3.30追記 上の場所についてgoogle+上で情報提供をいただき、現地を確認することができました!ありがとうございました。


ならびに、与喜山にかつて整地整備を行った杉髙講という集団の歴史について、記憶・情報をお持ちの方も募集中です。

 

■ のうが高原 情報

広島県廿日市市のうが高原には、多数の奇岩怪石群が存在しており、超古代文明ブームでいくつかの名前も付けられました。
そのために、なにが元々つたわる名称・伝承で、どれが後付けされた名称・創作話なのかが見分けがついていません。巨石群について言及した古文献があるのか、について関心を抱いています。
あわせて、のうが高原が時折、再建に向けて工事をしているなどのうわさが飛んでいますが、一向に復活の兆候がありません。もし関係者の方がいらっしゃいましたら実情をお教えいただけると、私含め全国各地の のうが高原隠れファンが喜びます。


■ 「~の七石」の新情報(全国)


小野寺七石(栃木県栃木市岩舟町小野寺)
吾妻七つ石(群馬県吾妻郡中之条町)
猪俣の七石(埼玉県児玉郡美里町猪俣)
慈光七石(埼玉県比企郡ときがわ町)
三浦七石(神奈川県三浦市)
箱根七石(神奈川県足柄下郡箱根町)
河口湖の七ッ石(山梨県南都留郡富士河口湖町)
諏訪七石(長野県諏訪市・茅野市)
矢ヶ崎村七石(長野県茅野市)
三島七石(静岡県三島市)
那珂七石(岐阜県各務原市)
那智の七石(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)
※加茂七石(京都府京都市)は鴨川で採れる七種類の名石なので若干意味が異なる。

上記箇所の他に、ご当地七石の言い伝えがあればぜひお知らせください。
個人的には、七石文化が東日本に偏り、西日本からほとんど聞かれないのが興味津々です。

2017.2.12追記 堅破山の七奇石三瀑(茨城県日立市)の情報をいただきました。ありがとうございます。


 ※新たな募集事項が出た場合は、本ページに追加いたします。


2017年2月2日木曜日

宇佐美英治「殺生石」~『日本の名随筆 石』を読む その14~

考古学的なテーマを纏った随筆である。

人と石の関わりについて綴る。

人が、他の動物と違い、ヒトとしてこの地球の生態系の頂点に君臨するようになった理由を、宇佐美英治は「石によって身を守り石を武器に、威力の上で人を凌ぐ動物と闘ってきた」ことだと断じている。

ヒトが二足歩行できるようになったことで、手を使い、石をどこかから調達・運搬し、獲物や外敵に石を投げることで、人はまず他の動物に勝ることができたという流れが描かれている。

人は弱いが、石などの道具を使うことで、種としての絶滅を免れ、他の動物を使役する立場に回ることができた。
この点において、石は「人間の最良の伴侶であり、最強の幇助者」だったと評されている。

石器に対しての宇佐美の随想が面白い。
――石器は土器のようにどんなふうにでも形をつけられるものではない。石は石に工作する人間の手に刃向う。(中略)石器はどんなに加工してもなお人間に抵抗し、最後まで石であることをやめない。
人は石を道具として支配しているつもりだが、実は石は最後まで支配されることを抵抗したがっているかのようだ。
石が奴隷ではなく、「伴侶」で「幇助者」であると表現した意味合いが込められているように思える。 あくまでも、石を「味方に引き入れた」までなのである。
――土器については機能が形体を決定するといいうるが、石器は必ずしもそうではない。百万年来、人が石器に見出そうとしたのは、機能というよりは石のもつ絶対的な威力であり、強大な的を傷つけ、その肝をぬきとる魔力である。

ここに、石の一つの性質が哲学されている。

ヒトが始源の時に感じた石の魔力とは、石があらゆる肉を断つという、ヒトの体そのものには備わっていない絶対的な攻撃力にあるという宇佐美の提言である。

宇佐美によれば、この攻撃力が石を霊や神たらしめた岩石信仰の源泉の一つなのだと語る。
あくまでも一つであるというのは、石には他に「無情、冷酷、生気なき無機物を思う中世以後の観念や石を永世と死に結びつける古代帝国以来の記念碑性(モニュメント)の観念」もあり、攻撃性はそれとはまた別個の観念だと言い添えているからだ。

この流れの中で、標題の殺生石が登場する。
殺生石は、栃木県の那須湯本に今もある有名な奇岩である。霊狐・玉藻が石に姿を変え、祟りの石として霊威を放ったものが、最終的には仏法により調伏されるという伝説で知られている。

温泉地による有毒ガスの噴出のため周辺一帯には一木一草もない殺風景が広がっている。
この環境要因が殺生石の伝説を構成している節は否定できないが、宇佐美は、別にこれだけの理由で殺生石の"イマージュ"を強く感じるわけではなく、もっと根深い石そのものの"イマージュ"から来ていると述べる。
――幾十万年来、人間の伴侶であり、無言の庇護者であった石が毒素を吐きつづけ、人を殺しつづけるということはわれわれの存在の基盤にかかわることなので、じっさいの災害以上にこの石が薄気味悪く思われたにちがいない。

信仰や聖なるものが、人によりその思いを強くさせる時は、人に慶福を与える時よりも、災いや予知せぬ禍悪を人に与える時の方が鮮烈に残ると宇佐美は指摘する。
恩恵よりもまず、祟り神を鎮めるための信仰。これはよく聞く話である。

恩恵を与えてくれた石が反逆する、あるいは、人から見たら裏切るように見えた石に対して、二重の畏れを抱いたのではないかと、この殺生石を通して岩石信仰の1つの形が結論付けられている。

最後に取り零したポイントを、本文から引用して終わりたい。
――しかし現代の人間は石の内部にそのような光を見出す霊力を失ってしまった。現実の殺生石はもう人々の眼に見世物同然となり、日ごと風化をつづけている。
――子供たちはボールを投げても石は投げまい。しかし手に握った石ころの独特の重み、形状を感じながら標的を狙って力まかせに投石するさいには(中略)何か生得的な、本能のよろこびに近い快感がある。

2017年1月31日火曜日

中沢けい「ひでちゃんの白い石」~『日本の名随筆 石』を読む その13~

――私はこの子から真っ白く透明感のある石をもらい、学校を変った後にも、大切に持っていた。

小学1年生の時、作者はひでちゃんというクラスメイトから石をもらった。
――男の子の名は、ひでちゃん以外は全部、忘れている。
石が、作者とひでちゃんをつなぐ記憶の装置。
――ただ白い石の記憶だけが、彼がいたんだと教えてくれる。
関連付け記憶だから忘れないというのはよくある話。
でも、なぜ石が主題になりうるのだろうか。
――石はしばらくの間、私の引き出しの中にあった。それからオルゴールの中に移った。そのあとは、金魚鉢の底に沈んでいた。鉢の中でも、その石だけは白く輝いていたが、いつの間にか緑の苔で被われてしまった。
作者にとっての、時期ごとの石の機能の移り変わり。
一人の人間の中での、年単位、月単位、日単位での石への心持ちの変遷。
いざこれが歴史研究になると、個人は捨象され、実体の掴めない"当時の人々"へと統合されていく。
歴史研究とは、これほどに危なっかしい。
――苔を洗い流し、また机の引き出しに戻した私は、何を思ったのか、緑色のサインペンで全部を塗りつぶしてしまった。

「白を緑に変えようとした心持ちは、自分のことながらさっぱり解らない」というが、「男の子が石をくれた理由を三年目か四年目かに気付いた」作者は、「石にではなくひでちゃんに、何かをしたかった」のだという。
自分のことながらさっぱり解らない自分の心理・行動は、石に限らず誰にでもあるだろう。
では、石の存在価値とは?
――ガラス玉のネックレスや夜店で買ってもらった指輪が乱雑に投げ込まれているオルゴールの中を探しても、白い、いや、緑色になってしまった石は見あたらなかった。

――石を見つけられないまま私は再びひでちゃんを忘れてしまった。

ネックレスや指輪は、記憶と共に今も残り、石を緑に塗ったサインペンですら、引き出しの中に残っていた。
石だけが、なくなってしまった。
なぜ石だけがあちらこちらに移動し、作者の意図と逆の結末に至るのだろうか。
どうでもいい時はあり、求めたい時にはないのである。

石が記憶装置であるなら、石がなくなった時からひでちゃんのことも忘れ、この話も書けなかっただろうに、それは書けている。
どうやら石は単なる記憶装置でもないらしい。

自分事だが、私の父が亡くなる前日に偶々この話を読んだことを、今も昨日のように思い出す。
関連付け記憶の1つなのだと思うが、これと何か違うのか。

2017年1月19日木曜日

豊島与志雄「狸石」~『日本の名随筆 石』を読む その12~

「狸石」は、小説家の豊島与志雄による作品。

創作であるが、豊島与志雄という紛れもなく一人の人間が石に抱いた感情の発露である。
作者の意図があっても、読み手によって受け取る反応は違うはず。私も私のアンテナに反応したところをメモしておきたい。

狸石は、戦後間もなく焼け跡の町の片隅に立つ石である。
石の格好に特に目立つ点はなく、通行人で注意を向ける人はほとんどいなかったが、見様によっては狸が空を仰いでいるような風体に見えた。

狸石の周りは丸石で囲われていた。

ある夜、青白い火が灯り、亡くなったとある男が狸石の傍に姿を現す。
男は狸石を溺愛していたようで、狸石に声をかける。
――ほんとは、お前を買ひ取つて家の庭に据ゑたかつたんだ。

――お前も、空襲に堪へて、よくここにじつとしてゐてくれたね。

――無事にここに立つてゐてくれてること、つまりお前の存在が、それだけが、僕には大切なんだ。

そこに、もう一つ青白い火が現われ、死人のような感じの女が現われた。

男と女は目を合わせなかったが、男は狸石の肩にもたれ、女は狸石の根元にしゃがみ、狸石を挟んで会話をし始めた。
――あなたはやつぱり、あたしよりこの石の方を愛していらつしやるのね。

――この狸石に聞いてごらんなさい。

――この石のところまで逃げて来て、あなたが追つかけていらつしやるのを待ちました。けれど、いくら待つても、あなたは追つていらつしやいませんでした。
女は、最後に一、二、三・・・と十を数えはじめ、それを五周繰り返しても男が追いかけてこなかったので、あきらめて立ち去ったのだと男に恨み言を述べる。
男も負けじと言い訳を述べる。
――いや、僕は追つかけて来たんだ。

――お前は早すぎたし、僕が遅すぎたんだ。然し、この石はいつまでも待つてゐてくれた。

――ねえ狸公、お前は待つてゐてくれるね。千回でも万回でも十を数へてくれるね。
 狸石が突然口を開く。
――十を数へるなんて、そんなばかなこと、わしはしないね。

男と女は黙り、月が雲がかり、青白い火がどろどろと燃えたと思うと、二人の姿は消え失せ、狸石だけが立っていた。

その数日後、狸石はだれかにどこかへ撤去され、整地された。やがて家を建てるために。
小説の最後は次の文でしめられる。
――狸石ももう人目にふれず、忘れられてしまふことだらう。

2017年1月16日月曜日

澁澤龍彦「石の夢」~『日本の名随筆 石』を読む その11~

――自然が石の表面に意味のある形象を描くわけはないので、これを意味のある形象として捉えるのは、もっぱら人間の想像力、いわば「類推の魔」であろう。

澁澤龍彦は、極めて理性的である。
批判主義者好みの出だしであるが、ここからどう話を展開するのか。
――あたかもロールシャッハ・テストの図形が、ひとたび私たちの目に「花」として知覚されるや、もうそれ以後、どうしても「花」以外のものにはみえなくなってしまうようなものだ。

でも、これは否定的な意味合いで書かれていない。次にはこう来る。
――こうして、無意味な形象が夢の世界の扉をひらく。

昨今の、様々な人の石に対する見方や意見や仮説を見るかぎり、私にはまったく思いつかない、時には相容れないような価値観に出会うことはしばしばである。
時代のトレンドによって形は変われど、昔も今も石への想像力は衰えていないと感じる。

澁澤は、ローマ帝国時代のプリニウス『博物誌』の石の記述から、中世の学術書や詩にいたるまで、数々の「石の夢」を紹介していく。
――当時の自然哲学的な考え方によれば、石や鉱物は生きているのであり、地下で成長したり、病気になったり、老衰して死んだりするのである。
――パラケルススによれば、長く土中に埋もれていた異教徒の古銭は、だんだんと石に変化してしまう。 

澁澤はこれを、価値のある金属が土中という"適切ではない環境"に置かれることで、"石"という"価値のないもの"に悪化したと解釈している。
「異教徒の古銭」という立ち位置が、他の解釈も夢想させるあたり、石の夢は果てしない。
「異教徒の古銭」に、価値はあるのだろうか。変化した「石」は、悪化ではなく、浄化かもしれない。あくまでも敵にとっては。

ここから、澁澤は数々の石の夢想家の例を著述する。



2017年1月15日日曜日

小黒田谷不動尊(三重県津市)


三重県津市美杉町

小黒田谷不動尊
情報収集不足につき詳細は不明。

小黒田谷不動尊
かつては石壇の上に祠があったらしい。
今は撤去されているが、祠の裏の露岩が剥き出しになっている。

小黒田谷不動尊
隣接して滝があり、行場としての清浄性を保っている。