2017年4月20日木曜日

八つ岩(奈良県天理市)



奈良県天理市長滝町日の谷

参考文献

瀬藤禎祥さん 「日の谷」「八剣神社」「神奈備にようこそ」内)→2010年1月10日アクセス
kokoroさん 「神社による古代史4 石上振神宮略抄より H13.9.17」「神奈備にようこそ」内)→2010年1月10日アクセス
乾健治(1939年原著)・瀬藤禎祥さん(抄訳) 「鳥見山傳称地私考 by 乾健治氏」「神奈備にようこそ」内)→2010年1月10日アクセス
しぇるぱさん 「天理の大国見、奥へ奥へと」「シェルパ散らし踏み」内)→2010年1月10日アクセス

概要

「八ッ岩」と表記する場合もある。スサノオに斬られたヤマタノオロチが神剣になって、あるいは、神剣に付き従って降臨したといわれる岩。



八つ岩の伝承


八つ岩については複数の方面からの伝承が残っており、それぞれに多少の違いがあります。以下に整理してみましょう。

(1)長滝町の八つ岩の民話(瀬藤さん「日の谷」から。元は『天理市史』に所収の話というが未確認)

・八岐の大蛇は素盞嗚尊に斬られて、八つの小蛇に分かれて天に昇り、水雷神と化した。
・水雷神は天のむら雲の神剣に付き従って、布留川の川上にある日の谷に降臨して八大竜王となった。これが八つ岩となる。
・天武天皇代(673~686年)、物部邑智という神主が「八つの竜が神剣を守って、出雲から布留川の奥の山の中に飛び落ちた」という夢を見て、現地に行くと岩に神剣が刺さっていて、八体の岩にはじけていた。
・一人の神女が現れて「神剣を布留社(石上神宮)の高庭にお祭りください」と述べるので神社を建ててまつった。これが現在の出雲建雄神社である。

(2)天理市田井庄町に鎮座する八剣神社の社伝(瀬藤さん「八剣神社」から)

・八岐大蛇は素盞男尊に斬られて天に昇り、神剣に姿を変えて布留川の上流にある八箇岩に降臨し、水雷神として信仰された。
・貞観年間(859~877年)に里の氏神としてまつるため、布留川下流に八剣神社(延喜式内 夜都伎神社の論社)が建てられた。祭神は八剣神。

(3)石上神宮境内摂社である出雲建雄神社の社伝(現地由緒板から)

・朱雀元年(686年)、布留川の川上の日ノ谷に瑞雲が立ち上り神剣が発光しながら現れ、「今此地ニ天降リ諸ノ氏人ヲ守ラム」と述べて鎮座した。
・出雲建雄神社のまつる出雲建雄神は、草薙の神剣の御霊を指す。延喜式内社。

(4)『石上振神宮略抄』(享保5年(1720年))の記録(kokoroさん「神社による古代史4 石上振神宮略抄より H13.9.17」から)

・八剣神とは八伎大蛇の変身であり、八伎大蛇は素戔男尊に斬られ、八つの蛇となって天に昇り、水雷神となって聚雲の神剣に付き従って布留河上の日の谷に降臨した。これは八龍王八箇石として残る。
・出雲建雄神は八握剣(天叢雲剣)の神である。
・天智天皇代に新羅の僧道行が熱田神宮から八握剣を持ち出して逃亡しようとするが失敗し難波浦に捨てられたのを、以後は宮中で保管していたが朱鳥元年(686年)6月に八握剣の祟りにより天武天皇が病にかかったため、熱田神宮に送り戻す。
・送り戻したその夜、石上神宮神主の布留宿邑智が「東の高山に八雲が上り、その中に神剣が発光して国を照らし、神剣の本に八つの竜が座す」という夢を見る。
・翌日にその現地へ行ったところ、霊石八箇が出現した。
・小童の口から「私は尾張連が祭る神(熱田大神のことか)であり、この地に降臨して人々を守ろうと思う」という神託があったため、出雲建雄神社を造ってまつった。

(5)『吉田神祗管領裁許状』(享保7年=1722年)の記録(kokoroさん「神社による古代史4 石上振神宮略抄より H13.9.17」から)

・「布留川上日谷山武尾大神」の記述がある。
・日谷山(=日の谷?)に武尾大神(=出雲建雄神?)がまつられていたことを示す。



いくつか気づいたことを列挙していきます。

(1-A)と(4-A)、(1-B)と(4-B)は類似している部分が多く、おそらく長滝町の民話の元は『石上振神宮略抄』から取っているのだと思われます。

八つ岩の伝承を整理して引っかかるのは、「スサノオに斬られたヤマタノオチが神剣に付随して岩石に降臨してきた」という物語と、「天武天皇代に神主が神剣と八つの岩に出会った」という、似ているようで時系列の異なる2つの物語がない交ぜになっていることです。なぜこのような物語構成になっているのでしょうか。

まず、八つ岩を起源とみなしている神社に出雲建雄神社と八剣神社(夜都伎神社)の二社があることが挙げられるでしょう。異なる祭祀主体によって1つの聖域を重複して信仰・祭祀することで、後世に混在が起こり複数系統の物語を生んだ可能性があります。

さらに気になるのは、(4-A)の「八龍王八箇石」という名前です。
実は日の谷の西方約1kmにある大国見山(標高498m)の山頂付近に同名のものがあり、これは八伎大蛇が素盞鳴命に八つ裂きされたのが天から落ちてきた名残といわれており、八つ岩と似た伝承を持ちます。この大国見見山伝承がいつからあるのかは検討の余地がありますが、「大国見山の八龍王八箇石」と「日の谷の八つ岩」との間で混同が起こっている可能性もあります。

降臨した場所についても、日の谷と明記している伝承もあれば、(1-B)・(4-B)のように日の谷の名前が明示されていない伝承もあります。
降臨の仕方についても、神剣だけが現れたパターンと、神剣にヤマタノオロチが付き従った形で降臨したパターンの2種類があります。 
降臨した神剣についても、天のむら雲の神剣(=草薙の神剣)と同一物であるとみなす伝承と、特に記述がなく必ずしも同一視していない伝承があります。

神の性格にも2つの系統が見え隠れします。
蛇、八つの竜、八大竜王、水雷神という土地の自然に根ざした水神・竜神信仰の系統が1つ。八つ岩にせよ石上神宮にせよ、そこは布留川という自然物信仰に根ざした祭祀場であることは厳然たる事実です。
その一方でもう1つ浮き彫りになるのが、「今此地ニ天降リ諸ノ氏人ヲ守ラム」と述べた国土神に近い神格や、ヤマタノオロチ・スサノオ・草薙剣に象徴されるような国家神的・政治的祭祀の系統です。伝承に登場する「朱雀=朱鳥元年(686年)」は草薙剣を熱田神宮に奉還して、天武天皇が崩御したという極めて意図的な年です。記紀神話に色付けされたスケール感のある八つ岩伝承は、石上神宮という国家的祭祀の影響も受けて成立していると考えるのが自然でしょう。

このように「異なる複数系統」の歴史が重層的に重なっている八つ岩ですが、逆にそんな中で、全ての伝承において共通して登場するのが「神剣」の存在です。
伝承の原形となった剣が八つ岩から実際に出土したのかは今となっては知るべくもありませんが、石上神宮の布都御魂剣・七支刀の系譜に連なる神剣信仰の場であることは疑いなく、少なくとも延喜式内出雲建雄神社の元宮とされているという意味合いからも、八つ岩の歴史性には特筆すべきものがあると言えるでしょう。
私は少なくとも『延喜式』成立以前の9世紀には八つ岩祭祀が存在していたと認めて良いと思います。朱雀=朱鳥元年(686年)は意図的な年代設定が否定できずそこまで遡れるとは現時点では言えませんが、八剣神社の社伝にある「貞観年間(859~877年)に八つ岩の八剣神を里にまつった」という年代観については、概ね肯定して良いのではないかと思います。

探訪報告


八つ岩の踏査については既に数多の先達による積み重ねがあります。
「神奈備にようこそ」の掲示板では、2001年~2002年頃にかけて有志の人々が情報収集を行ない、努力の末に八つ岩への到達を果たした旨の投稿の記録が残されています。
私はその積み重ねを頂いて僅かな下調べで八つ岩探訪ができてしまう訳ですが、しかしそれでも事前の情報収集では八つ岩の到達は至難で、特に最後の林道からの脇道の入り方が分かりにくいといわれていました。

そこで、まず神奈備さんの「日の谷」で示された「北緯34度36分17秒,東経135度53分18秒」のポイントを25000分の1地図に落とし、後は現地で苦労するだろうなと覚悟して現地近くまで足を運びました。林道は途中まで軽自動車も入れるレベルのしっかりとした道です。途中で崩落箇所があり、そこからは草も茂りつつの中進みます。
すると、ポイントの谷に下写真のような看板がありました。

八つ岩
八つ岩入口

看板には何かが元々貼ってあり、それが剥がれたor剥がされた感じでした。こんな山中で看板を掲げる意味としたら、八つ岩に関する掲示だったのではないかと容易に想像できます。ありがたいことに谷にはロープが張ってあり、ここが八つ岩への脇道だと踏んでそれを辿っていくと、ものの3分ほどで八つ岩に到着します。

八つ岩

八つ岩

八つ岩は、高さ4~5mの半球状の岩を中心として、その周囲に少なくとも8体以上の多数の岩が露出する「岩群(いわむら)」でした。岩には直線状の帯が走る長石の層が確認でき、これは奈良県山添村の岩尾神社のつづら石と同じ成因です。
中心の岩にはまだ真新しい注連縄が巻かれ、手前には神棚や蝋燭台、台座石などが用意され、現在でも祭祀している人がいることが明らかです。

八つ岩の立地は「山頂から少し下に下った尾根上」です。日の谷という地名から谷間立地を想起しそうですが、八つ岩は日の谷の谷間の北尾根に位置しています。
そして特筆すべきは、八つ岩からは麓の大和盆地が一望できるというその眺めの良さです。眺望が特に開けているのは北西の郡山方面ですが、西方の天理方面も木々の間からちらちらと見えています。石上神宮辺りからかなり奥に入りこんだ、こんな山中の片隅でなぜ祭り場が築かれたのかという疑問に対する何よりの回答が用意されており、こんな好立地に特徴的な規模・形状の岩群があれば祭祀の場になるだろうと納得しました。
日の谷最上方に現在沢は流れていませんが、谷の下方はそのまま桃尾の滝を経由して布留川に合流するため、布留川の水源谷間の1つと言えます。この点でも麓の出雲建雄神社・八剣神社と地理的関連性を持つ場であることが分かります。

八つ岩
八つ岩から北西方向の大和盆地を望む

八つ岩の範囲は広く捉えた方が良いかもしれません。
中心の祭り場から尾根を登っていくと、山頂尾根にも特徴的な岩がありました。

八つ岩
山頂尾根露岩

直方体状の形状を持ち、左上から右下にかけて亀裂が入っています。
「日の谷」によれば八つ岩の中に平たい石があり、それを「ばくち場」と呼ぶそうです。八つ岩の中心岩も上面はやや平らでしたが、この山頂尾根にある直方体状岩石はまさに上面平らで、ばくち場にうってつけだと感じたので付記しておきます。

さらに「鳥見山傳称地私考 by 乾健治氏」によると、八つ岩の近くには天狗岩、クツカケ、イワシ谷という場所があるといいます。どこのことを指すのかさっぱりですが、八つ岩背後の山頂尾根を南東の方向に歩いていくと、別の谷間急斜面上にも三角形に突き出た立岩と、その周辺に大小の露岩があります。天狗岩かどうかは分かりませんが、名前の付いても良い岩だと思われます。

長滝町九頭神社の探訪と、そして・・・


八つ岩の南方に長滝町の集落があり、その産土神として九頭神社が鎮座しています。九頭神社の本殿裏に「磐座」があるというのでここにも足を伸ばしてみました。
本殿の真後ろに苔むした岩塊が露出しており、明確にまつられていたり「磐座」であることを示す伝承などはないようなので、ここを岩石祭祀事例として認定するところまでは行きませんでしたが、この岩塊の手前に神社を設けようとした意図は認めざるを得ません。

八つ岩
九頭神社本殿背後の岩塊

建御名方大神を祭神としており、八つ岩と直接の関連はない様子ですが、その地理的な近さや「八つ」「九頭」という辺りの類似、加えて共に岩石祭祀の匂いがすることからもやもやした思いはあります。

年末に訪れたということもあり、ちょうど鳥居脇で門松などの正月準備をされている村人の方が2人いました。八つ岩を見てきたと言ったところ、当たり前ですがご存知で、「立派やったやろ?」と返ってきました。
そして、「まつられてたか?」と訊ねられたので、「ええ、ろうそくの台や台座の石とかがあって、整備されてました」と答えたら、「あんなの、勝手にまつってもいいんかねえ」といったことをおっしゃる。どうやら八つ岩の祭祀場整備はここ5年ぐらいとのことだそうで、村人の方はこの「整備」に余り快く思っていないようです。

思うに、2001~2002年に八つ岩を探していた神奈備さんの投稿者の皆さんが「林道の脇道が分かりにくい」と言っていたのに、現在は脇道入口に看板が立てられています。どうやら看板はここ数年の設置のようです。
看板に貼られていた掲示は現在剥がれていますが、この掲示内容をweb上で紹介しているページを見かけました。しぇるぱさんの「天理の大国見、奥へ奥へと」によると新聞記事「ふるさと歴史散歩、タイムスリップ第48回、超古代文明、イワクラ信仰、八つ岩」のコピーが貼られていたようで、八つ岩を毎月参拝するグループがいるが高齢化が進み年々人が減ってきたという旨の記述があったようです。

八つ岩は昔から出雲建雄神社・八剣神社など異なる母体により祭祀されてきましたが、現代でも様々な立ち位置の人々により祭祀され、注目されている場所であるということを強く感じました。
様々な方面からの信仰があるからこそ、八つ岩の独り占めと思われるような「整備」は別の立場の人々からは快く思われないでしょうし、もしかしたら古代の祭祀遺跡となりうるかもしれない八つ岩の現状を改変してしまっている危険性もあるでしょう。
その一方で、この「整備」がなければ八つ岩の存在はさらに埋もれてしまい、祭祀も途絶え、ただの自然石として忘れ去られていたかもしれません。少なくとも私は辿り着けなかったでしょう。私はこの「整備」の恩恵に預かっているのです。今行なわれている祭祀も1つの歴史であり、立場により評価も変わるのですから、安易に「良かった」「悪かった」という善悪基準は持ち込むべきではないのでしょう。

(2010年1月20日の旧サイトの記事を再掲)

0 件のコメント:

コメントを投稿