インタビュー掲載(2024.2.7)

2017年10月5日木曜日

北山耕平「だから石は生きている」(【石の時代】石のように考える)~『石の神秘力』を読む その1~

■ 『石の神秘力』について


『石の神秘力』は、新人物往来社が発刊していた別冊歴史読本の、特別増刊シリーズ第32弾の特集タイトルである。1994年発行。

編集後記にはこう書かれている。

――日本には、欧米のように、ストーン・ヒーリングの歴史やミネラルを楽しむ趣味はなかったといいますが、それでも、神社のご神体の多くが石であるように、日本人と石は古来切っても切れない関係にあります。(中略)本誌の特集で石の魅力に少しでも触れていただければ幸いです。

当時は、日本で心霊・オカルトやニューエイジ系の空気もまだ活発さを残していた時代で、本誌は当時のパワーストーンブームやストーン・ハンティング(宝石・鉱物採集)の動きの中で、特集が組まれたものだと推測される。

こういう意味では、2017年現在のほうが、石にとっては陽の目を見ない時代かもしれない。

 ―目次―
  • ストーン・ヒーリングの世界 井村宏次
  • 石がもたらす「癒し」という果実 井村宏次
  • 鉱物の魅力と楽しみ方の七章 堀秀道
  • 【石の時代】石のように考える 北山耕平
  • 幻の水晶王国アトランティスの秘技 諏訪見殿雄
  • リーディング・ソースへの警鐘 山上隆志
  • 「賢者の石」を求めて 石渡鉄雄
  • 占星術で読む宝石の記憶 山内雅夫
  • 誕生石物語 足立岳
  • 古神道の"玉"が秘める霊的パワー 竹内睦泰
  • 石と"話"をするO氏の話 綾部霞作
  • <ダウザー>ビル・コックスによる鉱物エネルギー場の測定 編集部
  • 太古の隕石"モルダヴァイド"は聖杯の原料か? 越智道雄
  • 呪力を秘めたハワイの石 中村薫子
  • オーストラリアの大地でオパール・フォセキングを楽しむ 寺本不二子
  • 「ストーン・ハンティング」入門 本郷俊介
  • 石を巡るブックガイド 足立岳

よくもまあ、岩石というテーマでこれだけの多岐にわたる著者を連れてきたものだと感心する。

オカルト系半分、それ以外半分というヤミ鍋のような構成である。
石のテーマと言っても、どういう方向に持っていくか、さぞ編集方針に苦労したことに違いない。

この中から、北山耕平が題する「【石の時代】石のように考える」が40ページにわたって異彩を放っていたので、まずはここから始めたい。

■ 誰も石からは逃げることなどできない


刺激的な見出しから北山の文章は始まる。

それは「石がなければ、現在の私たちの暮らしは成り立たない」からだとする。

人類にとって、最初の道具となったのは石で、その「石の時代」は、「もはや想像すらつかないくらい遥か遠い過去の話」になった。

それでも、石は今でも私たちの周りを取り囲んでいるし、石を利用し続けている。

人類にとって石は、唯一の道具ではなくなったからこそ「石の時代」として象徴していないだけで、底流には「母なる地球と私たちをつないでいた装置」でありつづけているという。

北山は、さらにこう念押す。

――今生まれようとしている新しい人間にとって「最後の知恵」をもたらすものでもある

この「最後の知恵」を検証する取り組みが本稿なのだという。

■ どんな石でも石は石であるということ


宝石・貴石・化石・金銀など、特定の鉱物だけを持ち上げてきた欲望は「この二〇〇〇年の歴史をドライブさせてきた原動力」と表現されている。

現代人のパワーストーンブームも、水晶や研磨加工など、特定の石に対する関心への現われである。

北山はこれを「新たなる石の差別化」に陥っていると警告する。

「どこにでも転がっている普通の石ころ」まで、石に含んで視野に入れておかないといけないと述べるのが北山の立場である。

それによって、自然・環境・世界を認識できるのだという。

そうであるならば、この論旨と翻って、『石の神秘力』の冒頭で約100ページにわたりカラー図版で貴石の特集が組まれているのは、もはや壮大な皮肉と言うしかない。


■ わたしたちの遠い祖先にとっての石

――いわゆる禅寺の「石庭」と呼ばれているものも、当初は、瞑想状態において意識を高める場所として考案された石や岩のパワーを引き出す置き方であり、いうならば「ないものを見せる」という、当時最先端のヴァーチャル・リアリティ・テクノロジー(仮想現実技術)だった

「ないものを見せる」ことが「石の声」を聞く方法の一つと考えるのが北山の論である。

だから、「これみよがし」は駄目だそうである。

禅寺を傍流的な文化として取り入れ、権力者が道楽とした水石や盆石は、領地と等価値の「これみよがしの様」となった。茶器と同様に。

特定の石をありがたがるところに、「ないもの」はないのである。
そこから、石の声を聞こうという純粋な方法は見えてこない。
理屈と世俗的な欲求に覆われすぎており、石の声などどうでもいいのである。

一方で、石神をまつる神社の中には「ないものを見せない」ものもあると北山は指摘する。
――石たちの多くは縄で結わかれて牢屋に入れられてしまっている。石は沈黙した。
あまりこのように石を見る意見は聞かない。
石に注連縄が巻かれていたら、ありがたがる人も多いのではないか?

本殿の中や社殿下に秘匿されることになった岩石祭祀事例も、確かに多く見受けられる。

隠されることで神秘性が増すという話とは別次元で、石はそもそも石の姿が見えていないと、石を語ろうにも理屈だけの話となることは間違いない。

その石がそもそも信仰された理由は、石自身が持つ物質的想像力に帰結することは言うまでもないからだ。

しかし、歴史の流れの中で、石は原初の姿とは違う「置かれ方」をする。
現代の私たちにとっては、始めから石が隠されていたら、石が持つ想像力の出しようがなく、その石の本来の力たるものを考えることは、もはやすべて的外れの議論になってしまうだろう。

このように、歴史の経過によって、石は当初の姿形を"人間によって"変えられ、石の声は聞こえなくなる。

――かくして石が生きて、感じて、考えて、記憶していることを、二〇〇〇年かけて人々は忘れていく。

石の声は、石が見てきた歴史であり、それを人々が忘れていくのを危惧したのが北山であり、歴史の経過と人間の欲望というものは生来そういう性質のものであるから、なかば諦めているのは私の受け取り方である。

諦めるのは、そこにこだわらなくすることであり、それによって残された時間を、別の方法で対策できると考えているからだ。

――石や、岩や、地球は、そこで起こっていることを、良いことも悪いこともすべて波長として記憶する。そして考えている。自分の石をひとつ持って見れば、そのことがきっと理解できるだろう。それは、人間と同じように、一種の生命コンピュータである。

私は、まだ自分の石を持っていない。
石を理解するために、自分の石を持つことから始めないといけないのかもしれない、とは思わされた。

ただ、私は、石を1つあずかることはおこがましい行いだと、生理的な部分で感じている。
石を理解するために、石を所有するという解法しかないとは思わない立場である。
石を自分だけのものにした時点で、何かが変節している気がする。

石をとらずに見に行くだけで、自分の石としていいのなら、捉え方はまた変わってくる。

北山はこう述べる。

――爆破され、切りだされ、研磨され、値段を付けられ、無数の人たちの手から手へと旅し、取り引きされ、カウンターに並べられて売られているその間に関わった良いヴァイブレーションも悪いヴァイブレーションも、人間の欲も、全部石は記憶する。石をひとつ手に入れるのにも、そうしたエネルギーの流れのすべてを引き受けることを忘れてはなるまい。宝石などは論外である。

石ひとつを手にすることは、本当に恐ろしいことだ。
善悪についての是非は、私には分からない。

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