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2018年3月23日金曜日

石大神(三重県鈴鹿市)


三重県鈴鹿市小岐須町

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 小岐須渓谷の山中、御幣川の南岸に高さ113mの石灰岩の岩山があり、これを石大神(しゃくだいじん)と呼んでいる。
 『延喜式』神名帳に記載される「鈴鹿郡岩神社」の論社である。

 地元の伝説では、第31代敏達天皇がここに行幸した時、岩山の上に天照大神が出現したことから、敏達天皇は神器・古鏡・勾玉などを埋納して遥拝したと言い伝えられる(祓塚というものがあるという)。
 さらにこの時、白髪の翁が御幣川で鮎を釣ってこれを伊勢神宮に捧げたことから、以後、御幣川の鮎は伊勢神宮に捧げる「御贄」になった。安政2年(1855年)の御贄神事の記録も見つかっている。

 慶長19年(1614年)、石大神から神宮の御札が降ってきて近在の人々は喜び踊ったという。

 一時期は岩山の上に祠をまつっていたというが、明治時代の神社合祀の影響で椿大神社の管理となり、今は椿大神社の別宮となっている。

 石大神の周囲は石塊の採掘が盛んに行なわれており、景観の損傷が著しい。

 石大神の性格は、3つの類型の複合と考えられる。

  • BAABA類型.岩石の上に神が降臨した磐座(敏達天皇行幸時の伝承による)
  • BAABC類型.岩石の上に置かれた祠に神宿る磐座(一時期石大神の上に祠をまつっていたことから)
  • A類型.信仰対象(岩山そのものを石大神と呼んで信仰していることから)


参考文献

鈴峰の郷土誌編さん委員会(編) 『鈴峰の郷土誌』 鈴峰公民館 1993年


新道岩陰遺跡(三重県亀山市関町)


三重県亀山市関町新所字新道

■ 遺跡の立地


当遺跡は、鈴鹿川沿いの岩陰から、古墳時代前期(4世紀)の遺物が見つかった遺跡である。
祭祀遺跡・葬送遺跡・生活遺跡などの各説が入り乱れ、遺跡の性格は特定できていない。

遺跡は東海道の宿場町で著名な関宿に近接しており、遺跡の北100mには現・東海道、南200mには古代東海道の推定ルートが存在している。
つまり、当遺跡は交通の要衝にあることが分かるが、遺跡自体は、東海道から川沿いを歩いた中にあって到達には一手間かかる。遺跡への元来の到達手段は川経由だった可能性もあり、4世紀の遺跡ということも踏まえると、古代道との関連性はいまひとつはっきりしない。

遺跡は2つの川の合流点の近くにあり、これも大きな特徴として挙げられる。
鈴鹿山脈から流れてくる鈴鹿川と、伊賀地方から流れてくる加太川の2つが合流する地点があり、その合流点から鈴鹿川を遡っていくと川が大きく湾曲する。その湾曲地点に高さ約21m・幅約30mの長大な岩崖があり、この岩崖の下に僅かに残る平坦地に遺跡が位置する。
岩崖はややオーバーハングしているため庇のようになっており、このことから当遺跡は岩陰遺跡と命名されることになった。

岩崖の前面には落盤岩が折り重なっている。この折り重なりの隙間に、人一人が何とか潜り抜けられる「くぐり穴」があり、調査報告書ではこの「くぐり穴」を使って岩崖下の平坦地に出入りしていたのではないかという可能性を指摘している。
しかし、この落盤岩の形成時期が遺跡の前か後かが判然としていないため推測の域を出ない。

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北から新道岩陰遺跡を望む。前に流れるのが鈴鹿川。

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「くぐり穴」を抜けると、目の前に岩崖と平坦地が出現する。

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遺跡の南側を高所から撮影。岩崖と落盤岩の合間に平坦地が僅かに形成されている。

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遺跡の北側。岩崖(写真左側)が若干オーバーハングしている様子が分かる。

■ 発見された遺物とは


遺物が見つかった場所は、岩陰エリアの中でも特定の一部だけに偏っている。

岩崖の直下に5個の露岩があり、その最も東側の岩石(調査報告書ではA岩と呼称)と岩崖根元の間に砂が充填されており、ここから遺物の大半が見つかった。砂の充填には人為性が認められ、遺物の散布状況に偏りや傾向は認められない。
調査報告書では特に指摘していないが、岩崖下の平坦地の中でのこの発見状況はやや特異であり、原位置というよりかは、後世の再配置・整理の可能性も考えて良いだろう。

見つかった遺物は土師器・動物遺体の2種類に大別される。
土師器は細片を含めると100点以上で、甕が大半を占め、一部に壺と想定される破片、高杯あるいは杯と想定される破片があるが少数。
甕は、考古学の世界でS字甕と通称される濃尾平野で盛行した型式が過半数を占める一方、畿内系と呼ばれる布留式の甕も一定量見つかっており、いわば東海と近畿の両地域の型式が見つかったところに大きな特徴がある。いずれの型式も4世紀の製作と推定されており、これがそのまま遺跡の使用年代の根拠となっている。

動物遺体はタヌキ・シカ・鳥類(ヤマドリもしくはキジ)・カエル・カニ(モクズガニか)・魚類(?)の骨と、貝殻が見つかった。
シカは骨組織内に土が詰まっていたことから、人為的に骨を分離したということであり、食用に供された可能性が高い。
貝殻は58点採取され、中でもハマグリ・アカニシ・フトヘナタリ・ハイガイ・アサリなどの海産性の貝類が43点(74%)を占め、地産ではなく海から持ち込まれた貝類が多いことが特徴と言える。

ほか人為的に研磨したハマグリ製貝製品(貝輪?)が1点見つかっている。

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A岩と崖の間は砂に埋まり、いまだ遺物が散布している。
上写真は誰かが表採して岩石の上に置きっぱなしにされた土器片。
ここに限らずの話だが、遺跡と歴史を守るためには「そのまま」が鉄則。
遺物が眠っていても掘り出さず、手を付けずで。これもそのままにしておいた。

■ 遺跡の性格について


調査報告書では、遺跡の性格について下記の3つを可能性として挙げている。

a.祭祀遺跡(磐座)
b.葬所(人体埋葬地)
c.生活跡(山人等の非農耕民のキャンプ地)

aは岩崖を磐座とみなすものだが、遺物が生活臭の強いもので祭祀遺物と認定できるものがないこと、および磐座の一般的な成立が5世紀と考えられることから報告書では批判的に取り上げられている。
磐座の一般的な成立が5世紀という見解は、あくまでも考古学的に確認できる磐座遺跡が現時点では奈良県三輪山・静岡県渭伊神社境内遺跡・福島県建鉾山遺跡など5世紀を遡らないことによるものであり、金科玉条の鉄則という訳ではない。

それよりも管理人は、岩石の祭祀遺跡=磐座といきなり限定させてしまう、現今の考古学の解釈が気になる。せめて、先行研究として大場磐雄博士が提示した石神・磐境あたりには最低限思考を巡らせていただきたい。
とりわけ、当遺跡は岩崖と落盤岩に囲まれた平坦地という空間的な趣きの強い場なので、磐境要素を抜きにして語ることは考えられない。

bは古墳時代の遺跡でも岩陰・洞窟などにおける人体埋葬の事例があることから可能性が挙げられているが、調査報告書では肝心の人骨が未確認であり、遺物も副葬品としては無理があるとの理由で否定的である。

cは当遺跡の遺物構成から連想される最も素直な解釈であるが、調査報告書では古墳時代にキャンプ遺跡の類例がほぼ未確認であることと、遺跡が古代交通の要衝で東海系・畿内系が混ざり、海産性の貝類が見られるといった特殊性から「なお議論を要する」という結論に落ち着いている。

管理人の考えとしては、まずbは人骨未確認であるため積極的に押すことはできない。
aは岩石祭祀の研究をしている立場としては、逆に極めて慎重に取り扱う必要があると考えている。以下に批判点を列挙しておこう。

・調査報告書が指摘する通り、土器は生活用としての甕が主体であり、祭祀供献用と類推されやすい杯タイプがほとんどない。

・動物遺体も全て食用であり、種類も雑多であり、いわゆる神饌用とみなすにはあまりにも食材のこだわり・偏りがない。

・東海系・畿内系土器の混入、海産性と淡水性の貝類の混入はいずれも流通の範囲を示すものであり、祭祀性などの意味は持ちえない。

・2つの川の合流点に近いことは興味深いが、遺跡地はあくまでも合流点から北上した鈴鹿川沿いという立地であり、また、この地点は古代道沿いではないため古代交通要衝地という性格からも外れる。

・当遺跡に到達する方法は川を渡るパターンと、崖上の斜面から降りてくるパターンが想定されるが、前者は本格的な渡河となりこのようなアクセスをとる岩石祭祀の事例は稀である。また、後者は祭祀対象である岩崖の「上」から進入するというのが祭祀の構図として珍しい。基本的には祭祀対象の「下」から人は拝する。

祭祀遺跡を完全に否定するものではなく、気になる点もあることはあるが、それよりも批判的要素の方が多く、管理人としても祭祀遺跡説は積極的にはなれない。
遺物構成を素直に受け止める限り、現段階において余計な仮定を最も省いた可能性はcになると思う。

■ その他


新道岩陰遺跡の岩陰空間の北方は崖がせり出しており、そのまま北へ歩いていくのは至難だが、北50mほど歩くとまた別個の岩陰空間がある。

ここは岩盤が真っ二つに割れてその亀裂を岩陰空間としており、いわゆる「くぐり穴」的隙間も少なくとも2ヶ所ある。ここが調査されているのかどうかは報告書からは分からないが、ここも遺跡利用されていておかしくない。

ちなみにここには丸石を積んだ石垣や切削痕を持つ岩石などがあり、後世に人の手が介入した場所である。

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遺跡の北方にある別の岩陰空間

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上から下の岩陰を覗いた様子。両端に「くぐり穴」がある。

出典


望月和光・穂積裕昌 『新道岩陰遺跡』(関町埋蔵文化財調査報告書13) 三重県鈴鹿郡関町教育委員会 2003年

鈴鹿峠の鏡岩(三重県亀山市関町)




三重県と滋賀県の境にまたがる標高378mの鈴鹿峠は、仁和2年(886年)に開通した古い峠であり、箱根峠と並ぶ東海道有数の難所として有名である。

鈴鹿峠の南西側急斜面上に三重県指定天然記念物「鈴鹿山の鏡岩」がある。

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別名「鬼の姿見」といい、立烏帽子という鬼女が鏡代わりに使った岩だといわれる。

山賊がこの岩で待ち伏せしていて、鏡岩に映った旅人を襲ったという伝説もある。

かつてこの岩には一面に青黒く光る鏡肌(硅岩が断層によってこすれたもの)があったらしいが、明治初年の山火事により岩が損傷し色も赤褐色に変わってしまい、後の風化・採取なども影響し現在では明瞭な鏡肌は認め難くなっている。

鏡岩から北100mの茶畑から平安時代の土師器片417点、須恵器片14点が見つかっており、非実用的な小皿が大半を占めることと立地環境から峠神祭祀遺跡と考えられている。

峠神が降臨したのが鏡岩ではないかと見る向きもあるようだが、土器群が鏡岩の手前から出土しているなら肯けるが、土器群の出土地点からは直接鏡岩を拝むことはできず、これら土器祭祀が鏡岩を志向していたかどうかは判断保留したい。

『勢陽五鈴遺響』(1833年完成)によると「鏡石ト云巨石アリ毎二月八日土人注連ヲ牽キテ不潔ヲ避ク」という記述がある。

永仁2年(1294 年)に鈴鹿峠の北にそびえる三子山から鏡岩の近くに田村神社が遷座し、鏡岩から田村神社の一帯を「たまや」と呼んでいたという。少なくとも中近世のある時期から、鏡岩が神聖視の対象であった可能性がある。

出典

関町教育委員会・編 「庶民の旅」 『鈴鹿関町史』上巻 関町役場 1977年
山田木水 「巨岩洞窟」 『亀山地方郷土史』第3巻(三重県郷土資料叢書第32集) 三重県郷土資料刊行会 1974年
林宏 「鈴鹿峠の鏡岩」 『鏡岩紀行』 中日新聞社 2000年

2018年2月5日月曜日

高水上命形石/巖の社/岩やしろ/岩井神社旧跡/石井神社旧跡(三重県伊勢市)


三重県伊勢市宇治館町字岩井田山

通称「内宮の磐座」と呼ばれ、イワクラ学会でも公開の可否に物議を醸したといわれるが、今はインターネットなどでも訪れる人が続出し、その存在が広まっているようである。

その実情はどうであるのか、情報が錯綜する前に、この機会にまとめておく。

■ 現地の様子


巌の社/岩やしろ/石井神社旧跡/高水上命形石

神宮司庁の北入口にこんもりとした丘があり、道路沿いからも森の中に巨岩が見えている。
石橋も架けられており、特に何も隠されてはいない。

この丘の一帯は少なくとも江戸時代から岩井戸山と呼ばれ、朝熊山の登山口の一つとして知られていた。

巌の社/岩やしろ/石井神社旧跡/高水上命形石

数体の巨岩が群集している。
丘の頂部ではなく、直下の斜面に立地している。

巌の社/岩やしろ/石井神社旧跡/高水上命形石

1体の巨岩はそそりたっており、高さ6mを超えると推測される。

巌の社/岩やしろ/石井神社旧跡/高水上命形石

巨岩群のすぐ上は平らな頂面が広がる。
伊勢神宮の式年遷宮の折、神宮御用材を伐採するためための祭祀として山口祭がここで催行される。

■この巨岩群について触れられている文献


1.『宇治郷之図』

文久元年(1861年)に描かれた『宇治郷之図』に、この巨岩の絵が図示されている。

伊勢古地図研究会編『宇治郷之圖』(伊勢文化会議所、1997年)より引用
画像の真ん中あたりに岩の絵があり、その横に「岩井神社」と記されている。

この絵図について解説を加える伊勢古地図研究会が、同書でこの巨岩群について次のように言及している。

「現在は本絵図の示す位置に神社はないが、その位置に巨岩があり、近世以後内宮の遷宮諸祭のうちの山口祭がこの岩(巌)の傍らで行なわれている。異説があるため断定には至っていないが、この地が神宮末社の岩井神社の跡地であるともいわれている。末社の岩井神社は倭姫命が定められたとの伝承をもつ神社であり、祭神は高水上命であるが、古くに社殿は廃絶しており、現在は津長神社に同座している。」(伊勢古地図研究会編『宇治郷之圖』伊勢文化会議所、1997年)


2.『皇大神宮儀式帳』

岩井神社は、石井神社として延暦23年(804年)完成の『皇大神宮儀式帳』に記載があり、「石井(イハヰ)神社 大水神兒高水上命形石坐」と記されている。
高水上命(タカミナカミノミコト)は伊勢神宮の公式見解によれば石清水の神とされており、石と水の両属性を神名としたのが石井となる。

伊勢神宮の摂末社の多くは「形石坐」と記されており、石積みや石畳に神をまつる祭祀が盛んだった。
だから、とりたてて石井神社だけが石のまつり場というわけではないのだが、他と違い自然の巨岩群をまつる摂末社は石井神社だけだろう。
石井神社は延喜式内社ではないため、おそらくは当時祠がなく、岩を神社とみなした場所だったのだろうと思われる。

その点において、この岩の名前の文献上最古の名称として「高水上命形石」を第一に挙げておきたい。


3.伊勢参宮名所図会

そのほか、寛政9年(1797年)刊行の『伊勢参宮名所図会』にも、この巨岩群は登場する。

国立国会図書館デジタルコレクションより(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952764

画像の左上に、岩の絵と共に「岩やしろ」と書かれている。
同書には「石井神社 石井田山にあり これを巖の社とも云」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952764)と紹介されており、「巖の社」もこの巨岩群を表す名称として認められるだろう。


4.勢陽五鈴遺響

江戸時代の伊勢国の郷土資料として知られる1833年(天保4年)完成の『勢陽五鈴遺響』にも、石井神社と巌社の関係が記されている。

「巖社遥拝所 祓所ノ南ノ石畳ナリ 今此処ヲ神域ノ第一ナル故ニ方俗一ノ宮ト称ス 是本祠ハ館町ノ北東岩井田ニアル石井神社也」(安岡親毅著・倉田正邦校訂『勢陽五鈴遺響』5、三重県郷土資料刊行会、1978年

石井神社が江戸時代当時、俗称として巖社(巖の社)と呼ばれていたことは、これで複数の文献に記載されていることから明らかである。
その巖社にはさらに遥拝所があり、それは内宮の一の鳥居の内側の神域に石畳の形で設置されていた。
鳥居内の神域内の最初のまつり場という意味で、一ノ宮と呼ばれていたというのも興味深い情報である。


5.櫻井勝之進『伊勢神宮』

櫻井勝之進『伊勢神宮』(学生社、1969年)によれば、巖社遥拝所をはじめとする、神宮境内のあちこちに増設されていった石畳や石積は、四至神や瀧祭神など一部を除いてほとんどが、明治時代になって整理(撤去)されたという。

話の本筋からは脇にそれるが、これらの石畳・石積について櫻井氏は次のように述べている。

「(四至神などの)祭壇には榊の根もとに特徴のある形をした石が若干据えられている。これに眼をとめて、神道では石を拝むのかと問う人もいる。また、すこし古典にくわしい人は、さすがに伊勢には古代のイワクラが生きているともいう。どちらも早とちりであることはいうまでもないが、説き明かすのには時間がかかる。」(櫻井勝之進『伊勢神宮』学生社、1969年)

これらの石はイワクラではないという意見であり、早とちりなのは言うまでもないとのことだが、いや、言うまでもないというような簡単な問いではないだろう。
櫻井氏が何も説明してくれないので勝手な推測となるが、おそらく、人為的な施設における石は祭神の象徴・目印としての御形だから磐座神としての信仰とは異なるという考え方なのだろう。
とすれば何となく言いたいこともわかるのだが、思わせぶりな言い方で論拠を明かさないこの書き方はやや閉口する。

同書では石井神社の巨岩群については明言していないが、一言、「岩井田には末社石井神社の旧跡があり」と記している。旧跡=巨岩のことだろうか。


6.木村政生『神宮御杣山の変遷に関する研究』

木村政生『神宮御杣山の変遷に関する研究』(国書刊行会、2001年)は、その名のとおり神宮御用材を切り出す山である御杣山についての研究書であり、ここにも石井神社旧跡の名が出てくる。

「遷宮最初の祭である山口祭が、内宮は神路山の入口にある岩井田山の石井神社旧跡の地で行われ、一方、外宮は高倉山の麓である神域内の土宮の東南において執り行われるのは、古来の御杣の山口に当るためであり、現在までの例になっていることによっても考えられる。」(木村政生『神宮御杣山の変遷に関する研究』国書刊行会、2001年)

岩井田山にある旧跡で山口祭が行われる・・・これだけの条件が揃えば、旧跡とは、巨岩群を指すと考えてまず間違いはないだろう。

したがって、伊勢古地図研究会が「異説があるため断定には至っていないが」と慎重を期した記述にとどめているものの、実際に絵図には「岩井神社」とも書いてあるのだから、巨岩群が平安時代『皇大神宮儀式帳』以来のまつり場である石井神社/岩井神社/巖社/岩やしろであることは認めてもいいのではないか。


山口祭の場所に選ばれ、内宮正殿のほぼ真北に位置するという意味深な場所ではあるが、これまで見てきたように、決して当地は隠された場所でも公開に物議を醸すような場所ではない。
明治時代に石井神社は近くの津長神社に合祀されたことから、巨岩群での祭祀の足跡は姿を消したように見えるが、それは単に私たちの耳に入っていないだけで、調べれば古文献や絵図に明記され、現在でも伊勢神宮を専門とする研究者には周知の場所だった。

いたずらに陰謀論的な世界観に陥る前に、まずは虚心に先人の残した歴史を調べてからにしたい。そうしないと、歴史が曇ってしまい歴史に失礼なことになる。
私は、この巨岩群のために「内宮の磐座」という、先人が呼んでこなかったセンセーショナルな名前には与しない。


2018年1月25日木曜日

加佐登神社と石(三重県鈴鹿市)


三重県鈴鹿市加佐登町2012

日本武尊は伊勢国の能褒野(能煩野)で亡くなったとされるが、尊の笠と杖を神体としてまつったのが加佐登神社で、境内の白鳥塚は日本武尊墓として、本居宣長を始めとする江戸時代の国学者に比定された。
*宮内庁が指定した日本武尊御陵は三重県亀山市の丁子塚(能褒野王塚古墳)

加佐登神社
白鳥塚
白鳥塚は、考古学的には白鳥塚古墳群の1号墳に該当し、古くはヒヨドリ塚・茶臼山・丸山・経塚などと呼ばれた。
従来、直径は東西78m、南北60mで、高さ13.3mの三重県内最大の円墳として有名だったが、平成17年の調査によって帆立貝式の前方後円墳と判明した。

『延喜式』諸陵寮に「遠墓」として、「在伊勢国鈴鹿郡。兆域東西二町。南北二町。守戸三軒。」という記載がある。

「『ヤマトタケル』の名も日本の勇者という普通名詞で、固有名ではないという。実在でない人物の墓を求める事も、あるいは無意味かもしれない。しかし少なくとも、平安時代初期には、その陵墓は鈴鹿郡のどこかに実在していた事は確かである。このような尊の伝承が、この地方に多いということは、鈴鹿川河谷が、当時の大和王朝の東国経営上、重要な路線にあたっていたという歴史・地理的な背景があったからであろう」(鈴鹿市編『鈴鹿市史』第1巻、1980年)

尊の実在とはまた別のテーマとして、平安初期に尊の墓が鈴鹿群に実在し、二町(220m)四方の境域をもち、墓守の家が三軒あったという事実には目を向けてもいいだろう。

加佐登神社
加佐登神社拝殿


加佐登神社の社頭、賽銭箱の隣に1体の石がある。

加佐登神社
社頭に安置された石


神主さんにお話をうかがったところ、この石は先代以前の神主が境内から見つけたものとのこと。
石には弧帯状の白い模様が見られ、ゴツゴツとした頂部と一部亀裂も認められる、独特な外見をなしている。
これが境内にいるという白蛇の姿に擬せられ、ただならぬ石として安置されることになった。

加佐登神社は、尊が死の間際につけていた笠をまつる御笠社と伝わることから、諸病平癒の霊験で知られていた。

信仰の根本は日本武尊およびその神体である笠と杖にあるが、そこから派生し、この石も病にご利益のある石として、患部が治るように石を撫でに来る人もいるらしい。
(力石や重軽石のように、石を持って上げることを否定するものではないが、撫でる方法のほうが自然な様子)

石の名前は特にないとのこと。
変な方向に進まないように、不用意にPRをする考えはないが、定期的に下の座布団は替え、安置を続けていくという神主さんの真摯なお話をうかがうことができた。
私もそのお考えを忠実に尊重したい。

2017年12月14日木曜日

礫石(三重県松阪市飯高町)



紀州街道の珍布峠に接して櫛田川が流れ、川中に礫石がある。
天照大神が伊勢外山との国境を決めるために川に投げ入れた石と伝えられる。
詳細は以下の現地看板が詳しい。

礫石

礫石

礫石

礫石

礫石

礫石

礫石

2017年11月9日木曜日

入道ヶ嶽(三重県鈴鹿市)を北尾根ルートから登る

三重県鈴鹿市の入道ヶ嶽(標高906m)に登りました。

かつて遠山正雄氏が「『いはくら』について」(『皇学』第4巻2号、1936年)で、数々の「磐座」があることを紹介した山です。

知り合いに誘われたので、珍しく 単独行ではなくグループ登山となりました。

事前の下調べによれば、入道ヶ嶽には下記のルート上にそれぞれ「磐座」が散在している模様。

■井戸谷ルート
いしぐらの磐座(俗称天狗の遊び場)
いしがみのいわくら(通称ふじ社)

■オオハゲ
主坐のいわくら

■不明(おそらく北尾根と二本松の間にある尾根)
いしごうのいわくら

■イワクラ尾根ルート
重ね石のいわくら
奥の院いわくら(俗称ほとけ石)
たていわくら式のもの

■二本松尾根ルート
しめかけ石のいわくら(俗称天狗の腰掛石)

※名称はすべて遠山正雄氏命名のものを使用。

1回でこれをすべて見るのはあきらめて、何回か登ることでコンプリートしたいところです。
当初の登山計画では、井戸谷ルートで登ることを予定していたので「いしぐらの磐座」と「いしがみのいわくら」は見られそう。

さて、登山口にて。


はい、井戸谷は台風で現在通行禁止(苦笑)

事前にインターネットで情報入手していたので想定済みでしたが、まあ・・・残念ですよね。

天気はすこぶる快晴で、これ以上ない天候です。
私、けっこう晴れ男なのです。


そこで、本日は北尾根ルートから登り、下りは二本松ルートで下山の計画。

北尾根には「磐座」なし!

あ、でも石は露出していましたよ。


北尾根ルートは、距離は長いが、傾斜は比較的緩やかなルートだそう。
それでも、もう久しく登山をしていなかったので、へとへと。
体がなまっています。
休み休み登らさせてもらいました。


6合目くらいまでは見晴らしのない樹林帯をひたすら登りますが・・・


7合目あたりから、だんだん樹木が減ってきて・・・


山頂一帯は、笹一面の草原!


到着!
登り始めは暑くてシャツだけでじゅうぶんですが、山頂は強い風が吹き付け、晴れてても寒い。
上着をバッグから出してちょうどいいくらい。


石仲間との登山ではないので、山頂ではピクニック休憩を楽しみました。
登山のイロハ的なものも、勉強させてもらいました。


椿大神社の奥宮。
ここが本当の山頂とのこと。
見晴らしは、なし。
最高点だから無理やりお宮を建てたような感じ。



山頂ではないこの場所の方が、人が集まっていました。
やはり眺望と立地に勝るものはなし。


さて、二本松ルートから下山を開始します。
この写真の下に一つ尾根があり、それに沿って大崩落の崖があるらしく、それを「オホハゲ(おおはげ?)」と遠山氏は書いています。
ここには「主坐のいわくら」があるということで、崖の一大巨岩を含めての名称でしょう。

そして、尾根上に「イシゴウ」と呼ばれる「磐座」もあるらしいですが、どうやらその尾根は現在ルートとして消失している様子。
(たぶん25000分の1地図上で、点線表示されている尾根)


二本松尾根を下ってすぐ、9合目あたりでふりかえればオホハゲの一部を望むことができます。
あれを踏査することは死を意味します。


唯一見ることのできた「磐座」。
二本松尾根の「しめかけ石のいわくら(俗称天狗の腰掛石)」。

他のメンバー、反応薄い(苦笑)
今日一番のテンションで全方位から写真を撮る私。

「天狗の腰掛」「しめかけ石」「七五三岩(しめかけいわ)」などの名称があり、山の天狗がここで腰掛けた石といいます。
また、ここから上は神の住処なので不浄の者はこれ以上登ってはいけない、という目印のために注連縄を掛けた石だと伝えられているそう。

これが本当に天狗の腰掛石と確定していいかは分かりませんが、他に候補となる石は確かに見あたりません。


あとは下山。
9時から登り始め、下山は14時頃という行程でした。

これで入道ヶ嶽のだいたいの肌感覚は分かったので、時機が来れば今度は井戸谷ルートでの登山をしてみたいと思います。

2017年5月4日木曜日

ひかる石(三重県いなべ市北勢町)


三重県いなべ市北勢町皷

皷地区の薬師堂にケヤキの木がそびえている。

光る石

ケヤキの幹に、石が刺さっているのがわかるだろうか。

光る石

光る石

光りかがやくことから「ひかる石」の名がある。

かつて、ある庄屋がこの石を自宅の庭に移したが、日を追うごとに光が弱まり、ある夜、「さじべえ(薬師堂のこと)行きたい」と泣き声を上げたことから、驚いた庄屋は元の場所に戻したそうである。

その後、ひかる石は泣き声を止めて、再び光を戻したそうだ。

<参考文献>
員弁郡国語サークル編 『国民教育シリーズ32 いなべの民話』 員弁郡教職員組合 1985年

土生神社の三つ石(三重県いなべ市大安町)


三重県いなべ市大安町梅戸字三ッ石

土生神社の三つ石
土生神社境内。注連縄が巻かれた三体の石が参道の両脇に見える。

土生神社の三つ石

土生神社の三つ石

土生神社の三つ石

当地を梅戸井といい、かつて三つの村があった。

この三つの村の堺にあったとされるのがこの石で、「三郷の堺石」とも呼ばれていた。

願い事を叶えてくれる石として、地元の人々がよくお参りした。
石を揺らすと雨を降らせたり、オコリなどの病気を治したりと万能の霊石だったようだ。

このような民話がある。

ある時、梅さんと竹さんという二人の村人が、この石を自分たちだけのものにしようとして、一番軽そうな石を掘り出そうとした。
しかし、掘れども掘れども終わりは見えず、やがて二人は石化して亡くなったという祟り伝説を持っている。

この石の存在から、梅戸井郷の一称として三石郷の名がある。

<参考文献>
大安町教育委員会編 『大安町史 第1巻』 大安町 1986年
員弁郡国語サークル編 『国民教育シリーズ32 いなべの民話』 員弁郡教職員組合 1985年

2017年5月3日水曜日

しゃごさんの石/しゃごんさんの石(三重県員弁郡東員町)


三重県員弁郡東員町大木字南条屋敷

個人宅敷地内に現存。
所有者の方に許可を得て拝見した。

しゃごさん


しゃごさん

文化・文政年間(1804年~1830年)に著された松宮周節『伊勢輯雑記』に、神石としてこの石の記述がある。

元はこの地に赤口神社(社護神社)があり、久那斗神を祭神としていた(現在は大木神社に合祀)。

大木の八幡神社(これも現在は大木神社に合祀)の御旅所で、歳迎えの宮とも呼んだ。

御神体は金の鳥で、この金鳥のおかげで当地は雷が落ちても火災に見舞われることはなかったという。
(なお、当地の近辺には秋葉姓を名乗る方が多く、火伏の秋葉信仰との関連性が強い)

その金鳥が降りた石といい、石自体も神聖視された。
石に触ると「ネブト」(腫物)ができ、足を乗せると足に病が出て歩けなくなると信じられた。

しゃごさんの石(『いなべの民話』によれば しゃごんさんの石)として、東員町を代表する民話の1つとして各種郷土資料にも収録されている。

とある旅の男がこの石に腰を掛け、隣に咲いていた山つつじの枝を折って自分のわらじをはらい、そのわらじを石の上に置いた。
一休みしてから歩き始めたものの、歩くごとに足が重くなり、しびれるような痛みがさしてきた。
その時、「先ほどの石まで戻れ」とどこからか声が聞こえ、石まで戻ると、石の上にはわらじの土がくっついていて、山つつじの枝も石の周りに散らばっていた。
これが原因と恥じ入り、石の上の土を掃除して、枝も石の周りの土にさしてお詫びをしたところ、足の痛みは引いていった。
のちに、旅の男はこの時の声の主に感謝の気持ちとして、鈴鹿の山裾の村に祠をまつったという。

しゃごさんの名は、赤口神・社護神すなわちシャグジとしての石神に通じ、シャグジは境界の神と目されるが、詳細は不明である。

当地を案内していただいた地元の方によれば、本石と同じような青石を御神体に用いる神社が近辺に多いとのことである。


<参考文献>

員弁郡国語サークル編 『国民教育シリーズ32 いなべの民話』 員弁郡教職員組合 1985年
東員町史編さん委員会編 『東員町史 下巻』 東員町教育委員会 1989年