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2017年7月4日火曜日

与喜山―山の力と、山と人との距離感の変遷―

雑誌『宗教民俗研究』第26号に論文を発表しました。

日本宗教民俗学会が発行する年会誌で、2016年度分がこの6月に刊行されました。



奈良県桜井市の長谷寺に隣りあう与喜山について掘り下げた論考となります。
2002年から足掛け15年、断続的ではありますが調べ続けたフィールドワークの結果を、紙幅の限り詰め込みました。
いま書いておかないと忘れられてしまう情報を、いくつか後世に残すことができたと安堵しています。

ただ、専門誌ですので、目にする機会は少ないかと思います。

もし本稿に興味のある方がいらっしゃったら、本ブログ最下部の「お問い合わせ」フォームから、メールアドレスを添えて「与喜山論文希望」の旨をお教えください。

論文のpdfを、記入されたアドレスまでお送りしたいと思います。
一人でも多くの方に関心を持っていただけたら著者として光栄です。


2017年3月30日木曜日

与喜山第12次調査(完結)

今日、やっと見つけることができました。
15年間の調査に一段落です。


藤本浩一『磐座紀行』にだけ記録がある通称「三の磐座」です。



狛犬が片方欠けています。

場所は、何度も見たことのあるこの立岩の北斜面下でした。


灯台下暮しで。
「北ののぞき」から尾根を東に徒歩2分です。

『磐座紀行』の記述では、ここにたどりつけませんでした。あの記述では、違うところを捜査してしまいます。信じすぎたな。

立岩から北斜面下を覗き込むと・・・


上の写真の右下に見えますか?
現地にいても、樹林と露岩群に同化されており、気づきませんでした。

今まで、この場所に呼ばれていなかったんですねえ。
でも、だからこそ15年もこの山に何度も来られて虜になったとも言えます。

研究論文としてまとめるところまで来られたのも、まるで何度も足を運び追究せよと、与喜山に導かれたかのようです。



現在、論文の校正待ちでしたが、滑り込みでこの発見を追記修正する必要があります。
(許されるかな?)
いつか発表できればと思っています。

これで唯一残された謎ははっきりし、与喜山の調査は私の中でフィニッシュを迎えることができました。

先日、ブログでこの磐座の情報を募集したところ、情報提供をくださった高橋さん、誠にありがとうございました。日本の広さを実感しました。
(なぜご存知なのかと脱帽しました)


2016年5月2日月曜日

与喜山第11次調査(2016.5.2)

今回の調査目的

  • 藤本浩一氏が報告した「三の磐座」の場所の特定
  • 『豊山玉石集』が示す「去來諾尊 陽父 去來册尊 陰母 影向石」の踏査
  • 堝倉神社旧社地(鍋倉垣内)の踏査
  • 化粧坂の化粧石の踏査

結果

  • 「三の磐座」発見できず。
  • 『豊山玉石集』が示す位置にめぼしい岩石はなし。
  • 旧社地と思しき平坦地を確認。その背後にあったという鶯墳のおおよその位置も把握。
  • 化粧坂にて化粧石の候補を数ヶ所確認。特定はできず。

踏査ルート


2016年4月28日木曜日

『泊瀬神秘之事』(1581年)

解題

『泊瀬神秘之事』は、天理大学附属天理図書館が所蔵している古文献である。
 天正9年(1581年)の日付が記されているが、これが原本の制作年か、写本としての制作年かははっきりしない。著者の署名はなく不明。
 近年まで全文が公にされることはなかったが、横田隆志氏によりその全文の翻刻がなされており、詳細は氏の論文「天理大学附属天理図書館『泊瀬神秘之事』」(『大阪国文』第四十一号、2011年)を参照されたい。

 本書は、初瀬の地の地名の由来を項目別に紹介するという体裁をとっており、この中に与喜山の岩石信仰に関わる部分も記されている。横田氏論文に基づいて、重要部分を以下に紹介しよう。

祐厳『豊山玉石集』(1760年)

解題

宝暦10年(1760年)、長谷寺の宿坊の1つである月輪院の住職・祐厳の手による文献。題名が示すとおり、豊山長谷寺の多種多様の情報を収載している。
 ありがたいことに、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの中で全文がweb公開されている。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/944211/

 与喜山の旧跡について、貴重な記述が残されているので重要箇所を引用したい。

2016年4月26日火曜日

狩野織部佐藤原重頼『長谷寺境内図』(1638年)

解題

長谷寺の境内を描いた絵図は近世~近代にかけて数点の作品が知られるが、私が知る中では与喜山を最も子細に描写した絵図が本作である。
 作者は狩野織部佐藤原重頼。寛永15年(1638年)の制作と判明している。

 2011年、奈良国立博物館の特別陳列「初瀬にますは与喜の神垣―与喜天満神社の秘宝と神像―」の展示で実見する機会を得たが、縦175.2㎝、横180.5㎝ということで人の背丈ほどの大画面である。
 同展示図録から絵図の全景を引用する。

2016年4月24日日曜日

菅原道真仮託『長谷寺密奏記』(12~13世紀)

解題

『長谷寺密奏記』(以下、密奏記)は、『長谷寺縁起文』(以下、縁起文)と同様に、菅原道真が寛平8年(896年)2月10日に奏上したという署名があるが、『縁起文』と同じく、道真の役職名に誤りが見られることなどから、実際は後世に長谷寺に関わる何者かが道真に仮託して仕上げた文献とみなすのが定説である。
 その成立年代は研究者間でブレがあり、早くて12世紀中、もう1つの有力な説として13世紀後半とみなす考えがある。

2016年4月8日金曜日

道明「長谷寺銅板法華説相図」(688~722年頃 諸説あり)

解題

長谷寺に保管されていた銅板である。表面に宝塔・仏像と273文字からなる銘文が刻まれており、美術的価値・歴史的価値のいずれも高い資料として国宝指定されている。
 この銅板については制作年代・原位置・制作目的について、江戸時代から数多の学者による研究史がある。最新の研究では新潟産業大学教授の片岡直樹による一連の論文が実証的である(いずれもリポジトリ化されている)。

・「長谷寺銅板の道明について」(2008年)
http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/31392/1/h20-y1.pdf

・「長谷寺銅板の原所在地について : 迹驚淵の伝承をめぐって」(2010年)
http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/22291/1/21_5-35.pdf

・「長谷寺銅板法華説相図の銘文について : 校訂・解釈・彫刻技法」(2012年)
http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/36008/1/40_1-17.pdf

 本項は、上記論文の業績から勉強させていただき、そこから得られた知見をまとめておくものである。詳細の論証は上記論文を参照されたい。

2016年4月7日木曜日

本居宣長『菅笠日記』(1772年)と厳樫家古文書(年代不明)の比較検討

■『菅笠日記』解題

明和9年(1772年)、本居宣長が伊勢から大和へ旅行へ行った時に記していた日記が『菅笠日記』である。
 全10日の行程のうち、第3日目に初瀬の地を宣長は訪れている。

 本書の原文については本居宣長記念館のホームページ内に専用コーナーが設けられており、旅程の全貌もつかみやすい。
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/norinaga2/2gakumon10_2.html

 また、帝京短期大学教授の諏訪邦夫氏がクリエイティブコモンズで現代語訳を広く提供している。
http://book.geocities.jp/kunio_suwa/Sugagasa.pdf(2011年公開)

 本項では、初瀬に関わる部分のみ時系列に沿って引用しよう。

2016年4月6日水曜日

桜井満・上野誠編『泊瀬川の祭りと伝承―古典と民俗学叢書18―』(おうふう、1996年)

解題

「古典と民俗学の会」代表だった國學院大学教授・桜井満の遺作(編集者名義)。桜井満は国文学者でありながら民俗学にも通じ、彼が率いる同会も、いわゆる1つの学問にとらわれず、研究対象を様々な角度から横断的に調べる団体だった。
 本叢書は同会により民俗調査された成果を収めたものであり、その泊瀬川編ともいえるのが本書である。

2016年4月3日日曜日

水谷慶一『謎の北緯34度32分をゆく 知られざる古代』(日本放送出版協会、1980年)

解題

伊勢から淡路島までの北緯34度32分線上に、太陽信仰に関わる史跡・寺社が集まるという「太陽の道」説を提唱した、この世界では有名な本。著者の水谷慶一はNHKのディレクター。

 本項はあくまでも与喜山に関わる部分だけを取り上げるので、水谷説への是非を論じる余裕はないが、
  • 成立年代が同時代のもので固められておらず、史跡によっては年代に数百年の幅があること
  • すべてを太陽信仰に結びつけようという恣意性を本書を読んで感じること
  • 自然の山同士が線で結ばれることに意味を求めてよいのか(逆に、それは自然成因でラインが作れる事実がままあることを示しているのではないか)
  • 微妙に線からずれる場所がある理由が看過されていること
  • 本測量計画の規模から考えて、継続を遂行するに当然必要であろう古記録類が一切ないこと
  • 線に乗っていない太陽信仰の史跡へのフォローがないこと
  以上の点に疑問を持つので、私は批判的な見方を崩せていない。

2016年3月26日土曜日

2016年3月25日金曜日

与喜山第10次調査(2016.3.22-23)―民俗聞き取り編―

聞き取りの記録


■福持さん(80歳代の奥さん)のお話
  • 与喜山中にある杉髙講の石碑をお見せしたところ、山本コノヱ氏のことをご存知。山本さん、神さん、拝み屋さんと呼んでいた。
  • 門前町の郵便局よりさらに下った辺りに、山本コノヱ氏の家があった(今はない)。郵便局の下に右折する道があり、それを山側に進むと集会所がある。その周辺には年配の方が多く、山本コノヱ氏のことを知っている人も多いのではないか(近所だから)
  • 山本コノヱ氏の墓は六地蔵と呼ばれる所にあったが、いつの時代かにどこかに遷されて今はない。
  • 福持さんが子供のころ、体調が悪い人がいたら山本氏の家に行くことが多かったという。体調が悪い時、山本氏はいつでもヨモギを潰してこれを飲めと言ったらしい。倉持さんも母に言われて山本氏の家へ行き、ヨモギの粉末をもらったことがあった。苦かった。直接山本氏の顔を見るまでの関係でもなかったから、顔やどんな方だったかまでは覚えていない。
  • 杉髙講の石碑に刻まれた人名のほとんどは初瀬の人。1人1人どこの誰と言ってくれて、名前を知っていた。いずれも存命ではないとのこと。福持さんから見てさらに1つ上の世代に属する方々という。
  • 石碑に刻まれている土井育次郎氏の息子さんは神職さんで、数年前に亡くなった。奥さまは存命されている。
  • 講元の重走由太郎氏の息子さんは現在行方を知らない。どこかに行った。
  • 与喜山中のノゾキを知っている。子供のころ、友達と一緒に与喜山の「チビンチビン谷」という場所へ行った。崖になっているような場所で、友達が落ちかけたことを覚えている。ノゾキと同じ場所か違う場所かは記憶が定かではない。
  • 初瀬の街は昔(戦後)に比べて寂れてきてしまっているから、何とかして復興してほしいと思っている。
  • 与喜天満神社は宮司さんが新しく来てから境内が綺麗になったので感謝している。

2016年3月21日月曜日

源為憲「長谷の菩薩戒」(『三宝絵』984年)

源為憲著・出雲路修校注『東洋文庫513 三宝絵 平安時代仏教説話集』(平凡社、1990年)を参照した。

解題

永観2年(984年)、文士として名高かった源為憲が冷泉天皇皇女の尊子内親王の仏教教育のために著したのが『三宝絵』(三宝絵詞とも。全三巻)である。その題名が表すように、親王のために絵を添えて解説されたテキストだったが、今は絵が散逸し文章のみが伝わる。
 源為憲の創作内容というより、それ以前から存在していた古今東西の仏教に関わる説話・伝承・物語のうち、子女教育にふさわしいものを精選した書と言って良い。

 下巻の五月 僧宝の二〇に「長谷の菩薩戒」と題された物語が載せられている。
 ここに『長谷寺縁起文』に書かれた十一面観音霊木伝承が収められている。
 『長谷寺縁起文』は鎌倉時代初期(13世紀)制作と推測されるのに対し、『三宝絵』は永観2年(984年)と、200年以上も『三宝絵』が先行する。すなわち、十一面観音霊木伝承のより原型と言える内容は『三宝絵』にあるのだ。
 『長谷寺縁起文』との差異に注目しながら、次に重要箇所を引用したい。

2016年3月20日日曜日

「元伊勢完成由来」ほか、杉髙講が残した文字記録(1962年頃)

 与喜山の北の谷にある「北ののぞき」。
 ここは少なくとも江戸時代には名所として知られていた場所だったことが『長谷寺境内図』の描写からわかるが、現地にはさらに特筆すべき文字情報が残されている。
 下写真の石碑である。

2016年3月19日土曜日

藤本浩一「長谷寺と天神山」(『磐座紀行』向陽書房、1982年)

解題

全国の磐座愛好者のバイブルと言って良いだろう。『磐座紀行』ほど、日本国内各地の磐座を収録した事例集はかつて存在しなかった。
 藤本浩一は詩人であったが、表舞台から外れた周縁の民俗に目を向け、実地を訪ね歩く研究者でもあった。『磐座紀行』刊行の年に藤本は逝去しているが、この本の刊行にこぎつけるには彼の弟子の尽力があったと聞く。藤本が残した膨大な資料と考察が活字化され、後世にしっかりと伝わったのはまさに幸運だった。

 単に事例数の多さに目を見張るだけではなく、今では所在不明になったり、今の様子とは変わってしまったりするような、当時の姿を収めた貴重な記録集としても読むことができる。
 皮肉なことに、与喜山の磐座がこのパターンに属する。

 「長谷寺と天神山」と題された一項(55-57頁)がある(念のため、天神山は与喜山の別称である)。
 藤本は、初瀬の郷土史家である厳樫俊夫の道案内により与喜山中に足を踏み入れ、4か所の磐座を紹介している。同書の巻末に収められた「全国磐座一覧表」によると下記の通りである。

2016年3月17日木曜日

『菅神初瀬山影向記』(室町時代)

塙保己一編著、太田藤四郎編補『続 群書類従 第三輯上 神祇部』(続群書類従完成会、1959年訂正三版)を参考とした。

解題

作者は明記されていないが、長谷寺の関係者が書いた地主神の縁起と見て良い。
 内容は『長谷寺霊験記』の瀧蔵権現-与喜天神地主交替伝承の再編集で7割を占め、残り3割は長谷寺の沿革を『長谷寺縁起文』の霊木伝承などをかいつまみながらコンパクトにまとめている。
 したがって、本文献のみに記されているような特有の情報というのはほぼない。あえて言うならば、『長谷寺縁起文』『長谷寺霊験記』の後に各伝承がどのように編集され、どのように細部が変容したかを追うに適した資料である。そこを焦点に置きながら重要部分を下に引用したい。

奈良県磯城郡編『奈良県磯城郡誌』(奈良県磯城郡役所、1915年)

解題

大正時代時点での磯城郡の地誌。
 当時の磯城郡とは、桜井市・天理市・橿原市・宇陀市の範囲まで広がり、古代においてヤマト政権が本拠とした一帯と重なるため、本地誌に載せられた各種旧跡の資料価値は高い(一般に、戦後の自治体史に比べ戦前の地誌は民俗情報の仔細に富んでいる)
 与喜山関連の情報で特筆すべきものを下に引用しておく。

2016年3月16日水曜日

松本俊吉「長谷山口神社」「堝倉神社」(式内社研究会編『式内社調査報告 第三巻 京畿内3』皇學館大學出版部、1982年)

解題

『桜井の古文化財 その二 磐座』(桜井市教育委員会、1976年) の著者で知られる桜井史談会の松本俊吉による長谷山口神社・堝倉神社の調査報告である。
 微に入り細を穿つ情報収集がなされている。両社の概要は本書に当たれば概ね問題ないだろう。重要と思われる部分を以下に引用する。

2016年3月15日火曜日

志賀剛「大和国城上郡二三 鍋倉神社」(『式内社の研究 第2巻 宮中・京中・大和編』雄山閣、1977年)

解題

延喜式内社の研究書として有名なシリーズである。
 本書の鍋倉神社の記述から重要と思われる部分を抽出しておきたい。

■現・鍋倉神社が素戔雄神社の境内にある理由

境内の北にあって南面している新しい社はかつてこの式社の摂社であった素戔雄命の社である。しかし今は(中略)主客顛倒して式社の方が摂社となっている。その理由は明でないが、ナベクラサンという原始的祭神よりもスサノヲノ命の神格が高く、一般に知られていたからであろうか。或は経済上の理由からであろうか。