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2017年9月1日金曜日

阪田山遺跡(和歌山県西牟婁郡白浜町)


和歌山県西牟婁郡白浜町阪田1−1 白浜美術館敷地内

■ 参考文献

巽三郎1956「紀伊西牟婁郡白浜町坂田山遺跡調査概報」『古代学研究』14 古代学研究会
※概報というが、この後に正式な報告書は刊行されていないので、本遺跡の実質上唯一の報告書はこれしかない。

阪田山遺跡

■遺跡の概要(報告書に基づく)


阪田山遺跡(阪田は、かつて坂田の字を使ったこともあるようだ)は、阪田山の斜面に自然露出の岩盤が広がり、その下方に岩盤を囲うかのごとく並ぶ弧状列石、そして焚火址2ヶ所、環状列石などの遺構が昭和30~31年にかけて見つかった祭祀遺跡である。

昭和30年当時は白浜の地で耳目を集めた場所のようであり、地元では遺跡の保存会が結成された。
当初、遺跡を顕彰する目的だったはずが、観光地の性なのか、現在では遺跡の上に歓喜神社という性神と絡めた"聖地"が新たに建てられている。

性神関係のB級スポットとしても、その筋では有名である。

阪田山遺跡

遺跡地の最上部にはこのような岩盤が露出している。
報告書(前掲の参考文献)によれば、当時の大阪学芸大学の鳥越憲三郎助教授はこの岩盤を、祭祀遺跡の中で「神の依り代」として機能していただろうと推測している。

阪田山遺跡

岩盤の中央部分に、このような窪みがある。
すぐ隣には隆起も見られ、セットで「陰陽神」様の彫刻として調査当時注目を浴びたようだ。
歓喜神社が建てられ、現在、性関係の観光地として知られているのも、これの存在に由来している。

報告書では、さすがに冷静な記述にとどめていることを、調査者の名誉のために紹介しておきたい。

「考古学的に現在のところでは当遺跡の様相と出土遺物との直接の関係は見出し難いし、またその彫刻というのも自然的に出来たものか、あるいは人工的なものか、議論の余地が充分ある」(報告書より)

阪田山遺跡

岩盤を覆うように歓喜神社の社殿が建てられているため、岩盤の全貌がやや掴みづらい。

阪田山遺跡

報告書で「B段」と呼ばれる、遺跡の平坦地の1つ。
鳥越憲三郎によれば、先の依代めがけて去来する神がとどまる「神の座」がこのB段であるとする。
平坦地の中央辺りから、時期不明の直径1m×厚さ15cmの黒色炭灰層が検出されており、焚火址と推測されている。

阪田山遺跡

B段には、「弧状列石」と表現された石の列がある。
とはいうものの、これらの石列は地山に接した状態で自然石が露出したものであり、発掘調査の結果では、後述する遺物包含層とは連ならない層位にあると報告されている。
列石と表現されるものの、自然物の可能性も否定できない。

阪田山遺跡

報告書で「A段」と呼ばれる平坦地。B段の下方に位置する。
平坦地ということで、鳥越憲三郎は「神の神籬」と推測しているが、この平坦地形は、隣接する町営グラウンドを築造した時、観覧スタンドとして削平したことによる平坦部分とわかっており、祭祀遺跡当時の地形ではないことに注意したい。

阪田山遺跡

上写真は、上方のB段から下方のA段に向かって撮影したところ。
A段からは、焚火址1ヶ所と環状列石遺構の発見と、地層上部に多数の礫岩が散布している。
焚火址からは古墳時代の須恵器・土師器・石製品・土錘が出土した。
この焚火址はB段の焚火址と同地層にあると推定されている。
上部の礫岩群は、遺物包含層とは異なる上の層に属すため、祭祀遺跡と直接は無関係とされている。

上写真の中央やや左にあるのが、環状列石である。

阪田山遺跡

環状列石の近景。直径1mほどの小規模な石囲いである。

この遺構は、およそTK-23からTK-43までの時期幅を持つ須恵器群の遺物包含層(先述の焚火址)のやや下部に位置し、大小の砂岩16個を直径約1mの環状に配置したものである。

環状列石の内部の土砂は、外部の漆黒褐色灰土とは明らかに区別でき、細礫が混ざった漆黒褐色土で充填されており、その内部土砂内から本遺跡出土滑石製模造品のほとんどが出土した。

さらに、その出土状態は、臼玉は配石内遺物包含層から万遍なく出土するのに対し、その他の有孔円板・剣形製品・勾玉・管玉などは包含層の上部に偏って出土するという、人為的配置性の濃いものだった。

以上の点から、この環状列石と祭祀遺物との関わりは非常に強いと言える。

特に、環状配石の内側からは臼玉約2000を含む滑石製模造品が見つかっており、外側からは翻ってほとんど見つからないという意図性がある。

この配石の内部は、祭祀具配置空間となっており、環状列石は聖域表示の機能を負った岩石祭祀遺構でであったという可能性が指摘できる。
ただ、焚火址との関連を考えれば、単なる埋納ではなく、遺物の廃棄跡としての施設だった可能性もあるだろう。

また、報告書によれば、環状列石を含めたA段は上部が削平に遭っており、列石遺構は下部のみが残存した状態での調査結果であると記されている。このため、遺構の上部構造や全貌は不明と言うほかない。

阪田山遺跡

上写真は、遺跡地最上部の岩盤から同標高を南へ進んだ場所にある露岩である。

報告書によれば、阪田山はこのような岩盤が山腹を縦走しており、断層によるものと推定されている。

■ まとめ


阪田山遺跡は、このような阪田山の大岩盤を、鳥越説で言うところの「神の依り代」「神の座」としてその麓に神籬を設けた祭祀遺跡だったのか。
批判説もあることに触れておかなければ公平ではない。

報告書の著者・巽三郎は、この大岩盤やB段の弧状列石は、層位的にA段の遺物包含層とつながらず、大岩盤から遺物包含層までのテラス状地形は、後世に造成されたことによるものであることを指摘している。
近くからは窯址や住居址の遺構も別に見つかっていることから、 土器の製造地における埴取りの神事としての祭祀遺跡ではなかったか、あるいは、地鎮祭的な祭祀の性格など、岩盤から離れた説も考えるべきとの意見を提示しており、傾聴に値するだろう。

ただし、個人的には「陰陽彫刻」を含む山腹の大岩盤は、山中を取り巻く断層であることから、祭祀当時から露出していたものと思われる。
陰陽の是非はともかく、岩盤が絶えず目に入る位置での祭祀であったことは、とりあえず認めていいのではないかと思う。
遺跡と岩盤の間に挿入された「弧状列石」や「平坦地」は後世の造作と考えても問題ない。

個人的な提言だが、歓喜神社を擁する白浜美術館の売店か展示室には、今回参考とした報告書の抜き刷りかコピーは常時置いておいた方がいいと思う。
事実と新たな歴史が、ないまぜになっていて、遺跡の元来の価値が、よく分からなくなってきている。
また、阪田山遺跡が見つかった時の地元の記事や保存運動の顛末も、白浜で起こった貴重な歴史的出来事であるから、話者のいるうちに記録収集をして、永久に残るように願いたい。

2017年8月20日日曜日

生石神社(和歌山県有田郡有田川町)


和歌山県有田郡有田川町楠本1265-1

生石神社(和歌山県)

生石ヶ峰(おいしがみね。標高870m)の頂上近くに生石神社(しょうせきじんじゃ)が鎮座する。

生石神社(和歌山県)

石が生まれ、神となった、紛うことなき石神。

文献上、どこまで遡れる地なのかは情報収集不足である。
兵庫県高砂市の生石神社(おうしこじんじゃ)の影響が気になる。

生石神社(和歌山県)
この立岩は夫婦岩とも呼ばれるようで、岩塔も2つのピークに分かれている。

生石神社(和歌山県)
西側のピーク。
背後は禁足地で、神職以外は立入禁止とのことで、注意したい。




2017年8月19日土曜日

岩倉神社の「粟生の巌」(和歌山県有田川郡有田川町)


和歌山県有田郡有田川町粟生

粟生の巌

粟生の巌(あおのいわお)は、清水町名所八景の一つ。

二つの川の合流点に屹立する高さ25mの巨岩で、『紀伊名所図会』に「川中に霊巌あり」と記される。


粟生の巌

粟生の巌を見下ろす山裾に、岩倉神社が鎮座する。

「正一位岩倉大神」と書かれた扁額を正面に構える。

この岩倉は、粟生の巌のことだとされているようだ。



年に1回、10月15日の秋大祭で巌への御渡がおこなわれており、定期的な祭祀儀礼も付帯する現役の岩倉(磐座)である。

巌の前の川原は川遊び、バーベキューの観光地にもうってつけのため、観光客の残すゴミに辟易している地元民の看板が印象的だった。


白岩丹生神社(和歌山県有田川郡有田川町)


和歌山県有田郡有田川町小川2627

白岩丹生神社

「白岩丹生神社は、元は白岩山の東にあったものを明応五年(一四九六)、当時の鳥屋城主であった畠山刀(寅)千代丸(尚慶)が現在地へ移したと伝えられています。」(社頭掲示)

白岩丹生神社

旧社地は別のところにあると言いながら、社域の山側斜面には白色の露岩群が数ヶ所認められる。

「この社は、元東方約五十米の山麓にあった」(別の現地看板より)

旧社地は、現社地の50m東だったということで、社域はほとんど変わっていないようだ。

2017年8月15日火曜日

白山・田殿丹生神社(和歌山県有田郡有田川町)


和歌山県有田郡有田川町出339

田殿丹生神社

田殿丹生神社の背後の山を白山といい、山頂に白山神社をまつる(境内社)。

周囲の山々がみかん畑で開墾されている中、よく社叢が保たれている秀麗な三角山である。

田殿丹生神社

山腹に、屹立する巨岩(写真左)と、剥き出しの岩崖(写真右)が見える。

白山の名前に偶然か相応しく、陽光に白く反射する岩々である。

田殿丹生神社

明治時代の絵図にも、その三角の山容が描かれている。
この絵図にこう記されている。

「当丹生神社は上古丹生都比女之大神本国伊都郡奄太村(今の慈尊院村)の石に天降り坐して当所夏瀬の森にご遷幸あらせられしにより、垂仁天皇の朝宮造りせし社頭なりしと旧記に見ゆ」(新字体、ひらがなに適宜修正)

田殿丹生神社

夏瀬の森とは、田殿丹生神社が鎮座する場所から南にかけての社叢一帯のことをこう呼んできたそうである。

「夏瀬の森で白山を御神体として崇拝していましたが応仁天皇の御代初めて立派な社殿が建立されました」(社頭掲示より)

白山のあれほどの巨岩群であるが、文献・伝承としては何も伝わっていないが、上記のとおり白山自体が神山であることは間違いなく、岩も構成要素の一つとして含めた山全体が、神の顕現として崇められたものだろうか。

2017年4月12日水曜日

高塚の森(和歌山県東牟婁郡串本町)



和歌山県東牟婁郡串本町潮岬
※潮岬灯台前の有料駐車場の車道挟んだ向かい側の森。見つけにくいが入口に「高塚の森 神武(崇神)天皇郊祀時」の木標あり。

高塚の森

概要

潮岬の突端に鎮座する潮御崎神社の神域とされる森。

森内には円丘状の高まりとそこから露出する岩石があり、地元の伝説では応神天皇の侍従の墓と伝えられ、かつては小祠がまつられていたという(小祠は現存せず)。

昭和40年代、円丘南西側に列石や土堤で整地された平坦地形の存在が指摘され、測量調査が実施される。
また、夏至の日にその平坦地から円丘の露岩上から太陽が上ってくることが確認され、高塚の森は太陽祭祀の場だったとする説が出された。

高塚の森
応神天皇の侍従の墓と伝えられるという土の高まり

所感


現地に案内標識の類が全くないので詳しい場所が分からず、地元の人や近所の人何人かに聞き込みをしましたが誰も知らず。
近くのロッジの方に聞いて「聞いたことはある。行ったことはないがあの森だよ」とやっと教えてもらえました。現地での関心・知名度は絶望的に低いです。
 
森の中は鬱蒼とした雑木林という感じで、真夏に入りたくはない感じ。
しかし森の中には遺跡・遺構であることを示す数々の木標や、歩きやすいように草刈などの整備もされています。
これは地元で高塚の森を長く研究されてこられた「はつくにしらす顕彰会」の木村正治氏の努力によるものと思います。

森の中には、確かに人工的な整地が行なわれていたと言える痕跡が確認できました。
最も明確な人工的痕跡は土堤で、周辺の地形から不自然に盛り上がった堤状・塀状地形が20mほど続いています。
その西に並行して直線状に並んだ列石があり、この列石に90度直交した石列もあり、石列の内と外は段になっています。ここは「斎場」と銘打たれています。

高塚の森
石列の一部

ここから北東方向に進むと「斎庭」と銘打たれた平坦部があり、ここには鏡を夏至日の出方向(北東)に向けた鏡とその支え台が想像たくましく「推定復元」されています。
ここから円丘上から上る日の出を仰ぎ鏡に反射させたということでしょうが、斎庭の平坦面は自然地形の想定内でありこの場所に明確な陣異性は認めがたく、祭祀場であったかどうかには疑問も残ります。

高塚の森

高塚の森

さらに北東に進むと円丘状高まりがあります。
頂部には岩石が見えますが、人工的な石材を置いた古墳・神殿的なものには見えず、土に覆われた岩盤の一部が露出し、風化・浸食によって数個の岩塊に分散したというような露岩の在り方です。従って古墳とは違うと思います。

では祭祀遺跡だったか?というと、ここからは遺物が発見されていないので遺跡の認定はできません。
証明された事実は「斎庭」「斎場」地点から円丘の方向を向くと夏至の日の出が上がるということと、「斎場」地点に人工的な列石・土堤が残るということです。

ここの列石・土堤が「いつ作られたものなのか」「何のために構築されたものなのか」という点も十分な批判的検討を経ているとは思われません。
この森が潮御崎神社の神域で応神天皇の侍従の墓として神聖視されたのがいつの時代からなのか、歴史的な資料の裏付けが求められるところです。
森が神聖視されていない時代に農耕的・土建的な目的で構築された地形改変の跡に過ぎないかもしれませんし、祭祀目的であったとしても古代の設置ではなく、意外と近代以後の設置だったという可能性も残っています。もちろん、他の可能性も・・・。

参考文献


松前健・安井良三「対談 巨石信仰と太陽祭祀」及び北岡賢二「高塚の森」『特集・巨石信仰と太陽祭祀』(東アジアの古代文化 28号) 大和書房 1981年

はつくにしらす顕彰会 木村正治氏のWebサイト「三世紀 古代ロマン 南紀潮岬 謎の巨石遺跡 『高塚の森』=太陽祭祀遺跡研究」 → 2009年8月25日閲覧。現在リンク切れ

(2009年8月25日の旧サイト記事を再掲)