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2017年9月10日日曜日

天河大辨財天社の天石(奈良県吉野郡天川村)


奈良県吉野郡天川村坪内107

「鎮守の杜、琵琶山の磐座に辨財天が鎮まり、古より多くの歴史を有す」(社頭掲示より)

天河大辨財天社の天石

社殿は小高い丘の上に建つ。
これが琵琶山で磐座と見立てたものだろうか。

当社には「天石」と呼ばれる四つの石がある。

「この地は『四石三水八ツの杜』と言われ、四つの天から降った石、三つの湧き出る水、八つの杜に囲まれし処とされ、神域をあらわす。その内三つの天石(一つ石階段右・二つ五社殿前・三つ裏参道下行者堂左)を境内に祀る。」(社頭掲示より)

チェリーさんの「神社参拝記」によると、天石の名前は「イノコ石、玉石、ダムダ石、もう一つは不詳」 、もう一つの説として「イノコ石、ダムダ石、天石、名称不詳」という(「大峰本宮天河大弁財天社」より)。

瀬藤禎祥さんの「神奈備にようこそ」によれば、弁天橋の下に「ダムダ石」(通称ムシロ岩)があるといい(「天河大弁財天社(天河神社)」より)、ダムダ石については特定ができるが、他の石は名前と場所が一致できない。

天河大辨財天社の天石

一つ石階段右

天河大辨財天社の天石

二つ五社殿前

天河大辨財天社の天石

三つ裏参道下行者堂左

一つめ、二つめとは違い、垣や注連縄の標示がないので特定しにくい。
上写真でいうと左手前の、樹木の陰に隠れ気味の石といわれるが・・・。

天河大辨財天社の天石

上写真のとおり、行者堂の右奥側に小ぶりな三角石もあり、これも怪しいのだが、社頭掲示は「下行者堂左」とあるので、やはりこちらは違うか。

天河大辨財天社の天石

天石の四つめの場所は、社頭掲示では明示されていないが、先述のように弁天橋の下にあるダムダ石のこととされている。

弁天橋の橋の上から眺めてみた写真が下。

天河大辨財天社の天石

どれだろう?

神社ライター・宮家美樹さんによる記事「奈良の神社話その一 神が降る『天石』、四つ目の謎──天川村・天河大弁財天社」によると、「赤い欄干の弁天橋の中心辺りから上流側を見ると、水面から平たい石が顔をのぞかせているのがわかる。本来は2メートル程あるこの石こそが四つ目の天石」とのこと。

しかし、どうしてなのか、肝心の写真が掲載されていないので、照合できない。

天河大辨財天社の天石

あえて絞るなら、これが比較的平たいけれど、裏付けをとれない。

川には他にもいくつか平たい石や大きめの石があり、取り立てて目立つのがどれとも言いにくい状況。
とりあえず、 結論保留のままとしておきたい。

どなたか、この天石についてご存知の方がいらっしゃったらお教えください。


2017年9月1日金曜日

阪田山遺跡(和歌山県西牟婁郡白浜町)


和歌山県西牟婁郡白浜町阪田1−1 白浜美術館敷地内

■ 参考文献

巽三郎1956「紀伊西牟婁郡白浜町坂田山遺跡調査概報」『古代学研究』14 古代学研究会
※概報というが、この後に正式な報告書は刊行されていないので、本遺跡の実質上唯一の報告書はこれしかない。

阪田山遺跡

■遺跡の概要(報告書に基づく)


阪田山遺跡(阪田は、かつて坂田の字を使ったこともあるようだ)は、阪田山の斜面に自然露出の岩盤が広がり、その下方に岩盤を囲うかのごとく並ぶ弧状列石、そして焚火址2ヶ所、環状列石などの遺構が昭和30~31年にかけて見つかった祭祀遺跡である。

昭和30年当時は白浜の地で耳目を集めた場所のようであり、地元では遺跡の保存会が結成された。
当初、遺跡を顕彰する目的だったはずが、観光地の性なのか、現在では遺跡の上に歓喜神社という性神と絡めた"聖地"が新たに建てられている。

性神関係のB級スポットとしても、その筋では有名である。

阪田山遺跡

遺跡地の最上部にはこのような岩盤が露出している。
報告書(前掲の参考文献)によれば、当時の大阪学芸大学の鳥越憲三郎助教授はこの岩盤を、祭祀遺跡の中で「神の依り代」として機能していただろうと推測している。

阪田山遺跡

岩盤の中央部分に、このような窪みがある。
すぐ隣には隆起も見られ、セットで「陰陽神」様の彫刻として調査当時注目を浴びたようだ。
歓喜神社が建てられ、現在、性関係の観光地として知られているのも、これの存在に由来している。

報告書では、さすがに冷静な記述にとどめていることを、調査者の名誉のために紹介しておきたい。

「考古学的に現在のところでは当遺跡の様相と出土遺物との直接の関係は見出し難いし、またその彫刻というのも自然的に出来たものか、あるいは人工的なものか、議論の余地が充分ある」(報告書より)

阪田山遺跡

岩盤を覆うように歓喜神社の社殿が建てられているため、岩盤の全貌がやや掴みづらい。

阪田山遺跡

報告書で「B段」と呼ばれる、遺跡の平坦地の1つ。
鳥越憲三郎によれば、先の依代めがけて去来する神がとどまる「神の座」がこのB段であるとする。
平坦地の中央辺りから、時期不明の直径1m×厚さ15cmの黒色炭灰層が検出されており、焚火址と推測されている。

阪田山遺跡

B段には、「弧状列石」と表現された石の列がある。
とはいうものの、これらの石列は地山に接した状態で自然石が露出したものであり、発掘調査の結果では、後述する遺物包含層とは連ならない層位にあると報告されている。
列石と表現されるものの、自然物の可能性も否定できない。

阪田山遺跡

報告書で「A段」と呼ばれる平坦地。B段の下方に位置する。
平坦地ということで、鳥越憲三郎は「神の神籬」と推測しているが、この平坦地形は、隣接する町営グラウンドを築造した時、観覧スタンドとして削平したことによる平坦部分とわかっており、祭祀遺跡当時の地形ではないことに注意したい。

阪田山遺跡

上写真は、上方のB段から下方のA段に向かって撮影したところ。
A段からは、焚火址1ヶ所と環状列石遺構の発見と、地層上部に多数の礫岩が散布している。
焚火址からは古墳時代の須恵器・土師器・石製品・土錘が出土した。
この焚火址はB段の焚火址と同地層にあると推定されている。
上部の礫岩群は、遺物包含層とは異なる上の層に属すため、祭祀遺跡と直接は無関係とされている。

上写真の中央やや左にあるのが、環状列石である。

阪田山遺跡

環状列石の近景。直径1mほどの小規模な石囲いである。

この遺構は、およそTK-23からTK-43までの時期幅を持つ須恵器群の遺物包含層(先述の焚火址)のやや下部に位置し、大小の砂岩16個を直径約1mの環状に配置したものである。

環状列石の内部の土砂は、外部の漆黒褐色灰土とは明らかに区別でき、細礫が混ざった漆黒褐色土で充填されており、その内部土砂内から本遺跡出土滑石製模造品のほとんどが出土した。

さらに、その出土状態は、臼玉は配石内遺物包含層から万遍なく出土するのに対し、その他の有孔円板・剣形製品・勾玉・管玉などは包含層の上部に偏って出土するという、人為的配置性の濃いものだった。

以上の点から、この環状列石と祭祀遺物との関わりは非常に強いと言える。

特に、環状配石の内側からは臼玉約2000を含む滑石製模造品が見つかっており、外側からは翻ってほとんど見つからないという意図性がある。

この配石の内部は、祭祀具配置空間となっており、環状列石は聖域表示の機能を負った岩石祭祀遺構でであったという可能性が指摘できる。
ただ、焚火址との関連を考えれば、単なる埋納ではなく、遺物の廃棄跡としての施設だった可能性もあるだろう。

また、報告書によれば、環状列石を含めたA段は上部が削平に遭っており、列石遺構は下部のみが残存した状態での調査結果であると記されている。このため、遺構の上部構造や全貌は不明と言うほかない。

阪田山遺跡

上写真は、遺跡地最上部の岩盤から同標高を南へ進んだ場所にある露岩である。

報告書によれば、阪田山はこのような岩盤が山腹を縦走しており、断層によるものと推定されている。

■ まとめ


阪田山遺跡は、このような阪田山の大岩盤を、鳥越説で言うところの「神の依り代」「神の座」としてその麓に神籬を設けた祭祀遺跡だったのか。
批判説もあることに触れておかなければ公平ではない。

報告書の著者・巽三郎は、この大岩盤やB段の弧状列石は、層位的にA段の遺物包含層とつながらず、大岩盤から遺物包含層までのテラス状地形は、後世に造成されたことによるものであることを指摘している。
近くからは窯址や住居址の遺構も別に見つかっていることから、 土器の製造地における埴取りの神事としての祭祀遺跡ではなかったか、あるいは、地鎮祭的な祭祀の性格など、岩盤から離れた説も考えるべきとの意見を提示しており、傾聴に値するだろう。

ただし、個人的には「陰陽彫刻」を含む山腹の大岩盤は、山中を取り巻く断層であることから、祭祀当時から露出していたものと思われる。
陰陽の是非はともかく、岩盤が絶えず目に入る位置での祭祀であったことは、とりあえず認めていいのではないかと思う。
遺跡と岩盤の間に挿入された「弧状列石」や「平坦地」は後世の造作と考えても問題ない。

個人的な提言だが、歓喜神社を擁する白浜美術館の売店か展示室には、今回参考とした報告書の抜き刷りかコピーは常時置いておいた方がいいと思う。
事実と新たな歴史が、ないまぜになっていて、遺跡の元来の価値が、よく分からなくなってきている。
また、阪田山遺跡が見つかった時の地元の記事や保存運動の顛末も、白浜で起こった貴重な歴史的出来事であるから、話者のいるうちに記録収集をして、永久に残るように願いたい。

2017年8月20日日曜日

生石神社(和歌山県有田郡有田川町)


和歌山県有田郡有田川町楠本1265-1

生石神社(和歌山県)

生石ヶ峰(おいしがみね。標高870m)の頂上近くに生石神社(しょうせきじんじゃ)が鎮座する。

生石神社(和歌山県)

石が生まれ、神となった、紛うことなき石神。

文献上、どこまで遡れる地なのかは情報収集不足である。
兵庫県高砂市の生石神社(おうしこじんじゃ)の影響が気になる。

生石神社(和歌山県)
この立岩は夫婦岩とも呼ばれるようで、岩塔も2つのピークに分かれている。

生石神社(和歌山県)
西側のピーク。
背後は禁足地で、神職以外は立入禁止とのことで、注意したい。




2017年8月19日土曜日

岩倉神社の「粟生の巌」(和歌山県有田川郡有田川町)


和歌山県有田郡有田川町粟生

粟生の巌

粟生の巌(あおのいわお)は、清水町名所八景の一つ。

二つの川の合流点に屹立する高さ25mの巨岩で、『紀伊名所図会』に「川中に霊巌あり」と記される。


粟生の巌

粟生の巌を見下ろす山裾に、岩倉神社が鎮座する。

「正一位岩倉大神」と書かれた扁額を正面に構える。

この岩倉は、粟生の巌のことだとされているようだ。



年に1回、10月15日の秋大祭で巌への御渡がおこなわれており、定期的な祭祀儀礼も付帯する現役の岩倉(磐座)である。

巌の前の川原は川遊び、バーベキューの観光地にもうってつけのため、観光客の残すゴミに辟易している地元民の看板が印象的だった。


白岩丹生神社(和歌山県有田川郡有田川町)


和歌山県有田郡有田川町小川2627

白岩丹生神社

「白岩丹生神社は、元は白岩山の東にあったものを明応五年(一四九六)、当時の鳥屋城主であった畠山刀(寅)千代丸(尚慶)が現在地へ移したと伝えられています。」(社頭掲示)

白岩丹生神社

旧社地は別のところにあると言いながら、社域の山側斜面には白色の露岩群が数ヶ所認められる。

「この社は、元東方約五十米の山麓にあった」(別の現地看板より)

旧社地は、現社地の50m東だったということで、社域はほとんど変わっていないようだ。

2017年8月15日火曜日

白山・田殿丹生神社(和歌山県有田郡有田川町)


和歌山県有田郡有田川町出339

田殿丹生神社

田殿丹生神社の背後の山を白山といい、山頂に白山神社をまつる(境内社)。

周囲の山々がみかん畑で開墾されている中、よく社叢が保たれている秀麗な三角山である。

田殿丹生神社

山腹に、屹立する巨岩(写真左)と、剥き出しの岩崖(写真右)が見える。

白山の名前に偶然か相応しく、陽光に白く反射する岩々である。

田殿丹生神社

明治時代の絵図にも、その三角の山容が描かれている。
この絵図にこう記されている。

「当丹生神社は上古丹生都比女之大神本国伊都郡奄太村(今の慈尊院村)の石に天降り坐して当所夏瀬の森にご遷幸あらせられしにより、垂仁天皇の朝宮造りせし社頭なりしと旧記に見ゆ」(新字体、ひらがなに適宜修正)

田殿丹生神社

夏瀬の森とは、田殿丹生神社が鎮座する場所から南にかけての社叢一帯のことをこう呼んできたそうである。

「夏瀬の森で白山を御神体として崇拝していましたが応仁天皇の御代初めて立派な社殿が建立されました」(社頭掲示より)

白山のあれほどの巨岩群であるが、文献・伝承としては何も伝わっていないが、上記のとおり白山自体が神山であることは間違いなく、岩も構成要素の一つとして含めた山全体が、神の顕現として崇められたものだろうか。

2017年8月11日金曜日

伊和神社・宮山・花咲山・白倉山・高畑山(兵庫県宍粟市)


上は宮山磐座の位置

■ 参考文献

遠山正雄 「『いはくら』について」 『皇学』第6回 第3巻第1号、第7回 第3巻第2号(1935年)


■一つ山祭と三つ山祭


播磨国一宮・伊和神社を、宮山(514m)・花咲山(637m)・白倉山(841m)・高畑山(470m)の4つの山が囲む。

伊和神社とこれらの山々には、数十年周期での神事が残っている。

21年に1回、「一つ山祭」が宮山で催行される。
61年に1回、甲子年ごとに「三つ山祭」が花咲山・白倉山・高畑山(伊和三山)で催行される。

地元における、この神事への意気込みを遠山がこう表現している。
参考文献より引用する。

「氏子の慣習としては、一代一度この六十年目に行はるる、三ッ山祭に遭遇する事を無上の幸慶、子孫に対する至極の副業として居り、この三ッ山祭の期日近づけば、六十年間放任して居た山道を、嶮峻何のその、跡方殆ど分らぬ荊棘も何の苦ぞといふ風に、狂喜して道付けを勤み、やがて山道に幟旗を樹連ね、頂上の小祠(木製).を改造し、夜の目も眠らぬ風情でその日の来るを待ち設け、愈々祭日来ると老幼男女の別なく、阪を押上げ曳上げ、岩角を攀ぢつ扶けつ、一ヶ月許りは蟻の行列のやうに絡繹として巡拝する事、今も変わらないそうです。」

60年に一度、山道を開き山上の祠をまつるという形式から、山上の神を里に招く山岳祭祀の遺風を忠実に見て取ることができる。

遠山の報告によると、宮山・花咲山・白倉山・高畑山のそれぞれに磐座と思しき岩石群があるといい、実際に遠山は山を登りそれらを実見している。
写真は掲載されていないが、伊和三山の磐座について詳しくは参考文献を参照されたい。

ただ遠山は、当時の伊和神社宮司の小林盛哉の話として、下記を書き残しているので、これだけは紹介しておこう。
「祭典の直会席上、古老に聞糺したる処によれば、シラクラヤマと称するは此頃の若者が転訛した名称で、従来は正しくイワクラヤマと称したるなり」

伊和神社と宮山
伊和神社から望む高畑山

■伊和神社の鶴石


伊和神社と宮山

欽明天皇の御代、大神、伊和恒郷に託宣あり。
「是より西方に当りて霊地あり、古の如く我が神霊を祀るべし」と。
即ち翌朝至り見るに白鶴二双、巨石の上に停立し、北方に向ひて眠れり。因ってその石の上に神殿を造営せり。
其の後、社殿現在の位置に移され「鶴石」と称し、一般の信仰せらるるに至りしなりと。今社殿の北向なるも此の伝説に因るならんか。

伊和神社と宮山

石の上に社を立てるという社伝から、石の上に神宿る磐座の違例であることは疑いない。

■宮山

伊和神社と宮山

麓から30分ほど登ると、このような巨岩群が現われる。

遠山正雄の表現を借りると、この巨岩群は三階段状になっており、最下段が上写真、そして中段に下写真の岩屋状の構造物がある。

伊和神社と宮山


伊和神社と宮山

自然の巨岩を庇として、その岩陰に祠をまつっている。
祠内には「伊和大神」と書かれた神札がまつられ、現地標識にはここが伊和神社の一つ山祭の祠と表示されている。

しかし、遠山正雄が聞き取りした当時の情報をここで書き添えておくと、ここはかつて妙見祠と呼ばれ、祠の「扉のかげに瓦焼き製の道士姿の立像を立ててある」のを「高さ一尺四五寸のもの。之ぞ俗に妙見サンと崇める」という。
ならびに、遠山が当時の神職に聞いたところによると、「今は神社と(国幣中社伊和神社)何らの関係なし」との返答だった。

現在の祭祀状態と、戦前の祭祀状態に、開きがあることを認めなければならない。

推測だが、遠山の探訪によって、この妙見祠が「伊和神社の鎮座前の元宮磐座」と位置付けられ、宮山の一つ山祭の祠に置き換わったのかもしれない。

なぜなら、遠山は前掲論文の結語で、こう推定しているからだ。

「これだけの実査を以て、伊和神社境内及祭祀の現状に対照するに及んで、どうも伊和神社はこの宮山の、岩座から下遷座申上げたものと疑はれてなりません。」

換言すれば、遠山論文当時は「宮山の磐座≠伊和神社の元宮」であることを前提とした物言いであり、遠山論文によって地元の伝承は固定化され、現在ではあたかも古くからの話であるかのように、「宮山の磐座=伊和神社の元宮」のイメージが浸透している。

今の研究者には、このような繰り返しがないように、自省の参考として記しておきたい。

伊和神社と宮山


伊和神社と宮山

巨岩群の最上段にも、倒壊した祠らしきものがある。
こちらのほうが、一つ山祭の対象だったかもしれない。

2017年8月7日月曜日

三上山周辺の岩石信仰(滋賀県野洲市)



三上山は、滋賀県野洲市に位置する標高432mの山であり、御神山・近江富士・百足山の別称がある。俵藤太の百足退治で著名である。

『先代旧事本紀』に収められた伝説によると、巨人が近江の地に穴を掘り、その窪みが琵琶湖になったのだという。
掘った土で盛ったのが富士山で、その時に零れ落ちた土が、三上山になったという。

近江富士の美称のとおり、秀麗な円錐形から古代の信仰対象とされ、山頂に奥津磐座、山麓に三上山を御神体とする御上神社など、三上山に関わる祭祀の場が周辺一帯に設けられてきた。

三上山
三上山(北より撮影)

三上山
三上山周辺地図(現地看板より)

■ 三上山


三上山
奥津磐座

三上山頂上にある奥津磐座は幅約3m×高さ約2mの岩塊で、その周辺一帯が岩盤剥き出しとなっている。

毎年6月18日未明、御上神社によって執り行なわれる「山上祭」の時、神職が三上山頂上に登り、山頂で神を降ろす祭祀を行う。
社殿祭祀以前の古態をとどめているとすれば、山頂磐座祭祀の事例と言える。

奥津磐座の下方斜面は岩崖のガレ場となっており、これを「姥の懐」と呼ぶ。
山麓からも、「姥の懐」の岩崖は肉眼で確認することができる。

三上山
姥の懐(一部)

山腹には「割岩」「魚釣岩」などの岩石もあるが、これらは神聖視の段階には至っていないようである。
「ある郷土史家」によると「鏡石」「方位石」「太陽石」に比定される岩石があるというが(『日本ミステリー・ゾーン・ガイド』学習研究社 1993)、その真偽は定かでない。


■ 東光寺山と出世不動明王


三上山の北方には、山続きで妙光寺山(標高267m)と、東光寺山という複数の小峰が林立する山塊が広がる。
この一帯は、かつて多くの寺院が興隆し東光寺と総称されたが、後の戦乱で灰燼に帰したという。

三上山と妙光寺山の間に、御池という江戸時代に作られた農業用の溜池がある。
この御池に沿って続く山道を登っていくと、山腹谷間に出世不動明王という霊場がある。

三上山
出世不動明王 入口

出世不動明王の境内には、立派な楼や滝の行場などが整備され、現在も生きた霊場であることが分かる。

寺伝では皇紀1475年(西暦815年)、弘法大師が42歳の時にこの山で修行をし、その厄除として不動を刻んでまつったのが始まりで、嵯峨天皇からは地領として金田荘を与えられたと伝わる。

三上山
出世不動明王本堂。後ろに巨岩が控える。

三上山
本堂裏の巨岩。ずんぐりと丸い。

三上山
巨岩から三上山を望む

本堂の背後に接して半球状の巨岩が鎮座している。この巨岩に不動を刻したと思われる。
この地点は山腹の谷間にあるが、巨岩と対峙して三上山の秀麗な山容が拝める。
当地の岩石祭祀の起源は謎に包まれているが、三上山の岩石祭祀の場としてはこれ以上ない立地・景観。まつられるべくしてまつられた岩石と言うほかない。

ほかにも、山中各所は古墳の石室が開口しているといい、巨石文化研究の分野で著名な神山一夫氏によると、この山には三上山に姿を向ける椅子形の組石構造物や、「弁慶の経机」というものもあるらしい。
以下、当サイトの旧掲示板で神山氏から2004年に投稿された内容を引用する。

お久しぶりです      No: 659
投稿者:神山一夫  04/01/08 Thu 21:11:01

    三上山のとなりに妙光寺山があり、ここにナントカ不動という古い霊場があります。中心の祠の後ろは巨石なので、イワクラ信仰が土台だと推測される場所です。巨石周辺の山腹には古墳の石室が無数に口をあけて、なんとなく不気味なところです。この霊場の主と思われる修行者の老人から、「弁慶の経机」なる岩組みがあると昔聞きました。ドルメンのようなものかなと何度か探したのですが、結局見つけられませんでした。でもその代わりに、まっすぐ三上山頂を向いた巨大な椅子?のような石組みに遭遇しました。なんかまだまだいろいろありそうです。


霊山妙光寺      No: 664
投稿者:神山一夫  04/01/11 Sun 02:37:37

    妙光寺山と三上山の間にあるダム池をさかのぼっていくと霊場の寺?につきます。門を入って左の山道を少し登ったところに古墳の石室が穴をあけていて、それは典型的な横穴式石室です。案内していただいた老人は、まだ何十という古墳がこの山中にあると言っておられました。また巨人の椅子のような石組みも、そのあたりの山中にありました。
    いずれにしろ、この山は精査する必要がありそうですね。いろいろ思いがけない発見があるような気がします。


■ 妙光寺山


妙光寺山は、北斜面の中腹に妙光寺山磨崖仏があることで知られる。

妙光寺山磨崖仏は、自然石の平滑な岩肌に地蔵立像を刻したもので、元享4年(1324年)の造立とされる。

三上山
妙光寺山磨崖仏

この磨崖仏から少し下った所に、「岩神大龍神様」と呼ばれる場所がある。

大小様々な岩石が寄り集まって、岩窟状の空間を構成している。
横には石碑が立ち、「岩神大龍神様 御鎮座は今より一千五百年前」と彫られている。詳細不詳である。

三上山
岩神大龍神様

■ ネコ岩


大岩山銅鐸出土地と極めて近い位置に、「ネコ岩」と呼ばれる場所がある。
ネコ岩という名前の出自は、井上香都羅氏が著書『銅鐸「祖霊祭器説」』(1997年)で紹介したことに依拠する。

大岩山丘陵の南端に鞍部があり、さらにその南に相場振山・田中山の北側斜面が高まっていくが、その途中の山腹に、よく整備された祭り場と共に高さ3~4mほどの縦に亀裂の入った立岩が存在する。
誰が手入れをしているのかわからないが、出世不動明王で感じた時と同じく、聖域として清浄に保とうという意識が強く伝わる場所であり、生きた祭祀場である。

三上山
ネコ岩の入口。参道がよく掃かれている。

三上山
ネコ岩

KNIGHTさんのブログ「HUGE STONE・CURIOUS STONE」内の「三上山と周辺の磐座10」によると、この岩はネコ岩という名前ではないという地元の方らしき発言があったそうだ。

私も銅鐸博物館の方にこの岩石のことをうかがってみた。
返答は「岩の存在は知っているが、名前は分からない」「ネコ岩という名前も聞いたことはない」というものだった。
よって、この岩石が本当にネコ岩という名前なのかどうかは確定できないが、他にネコ岩候補もないため、とりあえず現段階ではこの岩をネコ岩として仮称しておきたい。

なお、相場振山の西山裾の辺りは「堂山」と呼ばれ、ここには福林寺跡磨崖仏という磨崖仏群が残っている。室町時代の製作と考えられており、かつてこの辺りに福林寺という寺院があったが織田信長の兵火により消失した。

一部の磨崖仏は明治~大正の頃に大阪方面の富豪の庭に持ち去られたらしい。
その富豪の庭に今もちゃんと保存されていればいいが、1つの歴史が消えるのはたやすい。

三上山
福林寺跡磨崖仏

■ 大岩山と銅鐸出土地


妙光寺山・東光寺山の北東に谷間を挟んで広がる山塊に、田中山(標高293m。甲山と書くものもあるがそれは誤り)・相場振山(標高283m)の峰が続く。
この山塊の最北端に大岩山(標高152m?麓からの比高差50m程度)と呼ぶ低丘陵があったらしく、現在は丘陵の3分の2が東海道新幹線の採土作業により消失しているが、ここからは弥生時代の銅鐸が多数出土している。

明治14年(1881年)、地元の村人らによって丘陵中腹(発見者に話によると急傾斜面だった様子)から偶然に14個の銅鐸が発見。さらに昭和37年(1962)の新幹線採土時に、明治14年出土地から尾根を1つ越えた南東の中腹から9個、丘陵頂部から1個の銅鐸が相次いで出土した。
合計3ヶ所に分かれて銅鐸は埋納されていることが分かり、各地点はそれぞれ直線距離40~50mほどしか離れていなかった。

三上山
大岩山銅鐸出土地の記念碑(正確な位置ではない)

野洲の銅鐸博物館に明治14年発見時の想像絵図があるが、銅鐸の埋納坑のすぐ傍に巨石が累々としている様子が描かれている。

明治の偶然の発見のため詳細な調査記録はなく、絵図は想像図なので話半分にとどめておくべきだが、大岩山という名はいかにも岩累々の地形を表している。

大岩山という地名は、かつて福谷・奥小松・丸山と呼ばれていた3つの字を明治時代に改称したものであり、田中山・相場振山北端の低丘陵全体を指す地名だった。
相場振山・田中山自体が全山露岩の目立つ半岩山的な風貌であり、大岩山も同様の半岩山だったのだろう。銅鐸はかつての奥小松の字に該当する丘陵東側斜面から見つかった。

昭和37年の銅鐸出土地点についても、採土中の発見のため詳細な調査記録はとられていないが、銅鐸が見つかったときの写真が数枚撮影されており、その写真には銅鐸の背後・周辺に大小の岩盤・岩塊が露出している様子がはっきりと写っている(銅鐸博物館の常設展示および図録を参照)。

以上の点から、大岩山銅鐸出土地は、銅鐸埋納と巨石・巨岩の相関関係を感じる事例である。

しかし批判的に考えれば、露岩が目立ったのは大岩山丘陵だけではなく、田中山・相場振山も同様である。
そんな山塊の中であえて大岩山東斜面の中腹~丘陵上の3ヶ所を埋納地点に選んだ理由は何だったのか。
いかんせん現地は地形削平されており景観が分からないため検討のしようがないが、露岩の近くを意識して銅鐸を埋納したという仮説は、「是」とも「非」とも言えない状況だ。

大岩山の銅鐸は、その型式から製作時期に幅があり、なおかつ近畿式と三遠式という二系統の型式が織り交ざっていたと考えられている。
埋納方法は、少なくとも一部については銅鐸同士を「入れ子」にして、時期の違うもの異なる系統のものを一括して完形で収納していたとこれまでの研究から推測されている。

銅鐸の破壊行為はなく、代々の銅鐸を伝世・保有した上で土中に一括収納しているというのが大岩山銅鐸の特徴である。また、埋納地点が3ヶ所に分かれていることも大きなポイントだろう。

一つ述べたいのは、明治14年銅鐸出土地点は急傾斜面で「崖」と形容してもいいような立地だったという発見者の報告、現地を知る地元の人の話が残っていること(花田勝広「大岩山遺跡群出土遺物の追跡調査」2002年)。

単なる保管場所であるならば、もう少し傾斜のゆるい地点にしそうなものではある。
急傾斜なら外部の人間に荒らされにくいが、地山ごと崩落するような急傾斜地形であれば銅鐸そのものが紛失の危険性があり、保管場所としては不適切の印象もある。
急傾斜面でも埋納するんだという意思がそこには感じ取られることだけ、記しておきたい。

古墳時代には、同じ大岩山丘陵で大岩山古墳・大岩山第二番山林古墳・円山古墳・甲山古墳・天王山古墳・宮山1号墳・宮山2号墳が築造されている。
大岩山に対する認識・意識が弥生時代から同じまま継続しているか、断続しているかは不明である。

■ 参考文献


野洲町 『通史編1』(野洲町史 第1巻) 1987年
御上神社 『御上神社由緒略記』
ムー編集部 『日本ミステリー・ゾーン・ガイド<愛蔵版>』 学習研究社 1993年
井上香都羅 『銅鐸「祖霊祭器説」』 彩流社 1997年
野洲町歴史民俗資料館(銅鐸博物館) 『常設展示図録』 1988年
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館) 『大岩山出土銅鐸図録』 2006年(改訂版)
花田勝広 「大岩山遺跡群出土遺物の追跡調査」 『野洲町立歴史民俗資料館(銅鐸博物館)研究紀要』 2002年