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2017年5月16日火曜日

生駒山寶山寺の般若窟(奈良県生駒市)


奈良県生駒市門前町1-1

生駒聖天

通称、生駒聖天として知られる生駒山寶山寺は、伊勢国出身の湛海律師の開山によって、貞享5年(1688年)に初めて本堂が建立された。

ここに寺を開山した理由は、寺伝によると本堂裏にある朝日嶽の般若窟にあると伝えられる。

生駒聖天

般若窟は、由緒書によれば「中生代、古瀬内火山に属する一火山の噴火口類」とされる自然の岩屋である。

この窟は、役行者が修行して大般若経を納めたと伝えられる聖跡で、また、若かりし頃の弘法大師が修行したという伝承も付帯していたことから、それを聞いた湛海律師が「ここで弘法大師と共に弥勒菩薩下生の時を待つ」と語り、寺を開いたと伝えられる。

実際のところは不明であるが、湛海律師が入山した時、般若窟の頂上で古い五輪塔がすでにあるのを見たという。
般若窟の平坦地でも、弘安5年(1282年)の銘が入った石塔が発見されている。

また、般若窟に以前からまつられていたとされる神として、岩船明神と弁財天がいる。
湛海律師が入山まもなく、まだ般若窟を見つけていない頃、深夜に怪物に抱きしめられ、後日、その怪物に似た「ごつごつとした岩」を般若窟の岩船明神社で見かけた。
さらに、ある弟子の顔が弁財天に見えた時があり、麓にあった弁財天社が「お山に帰してほしい」と言い出したため、元の場所といわれる般若窟に戻したのだといういわれがある。

生駒聖天

般若窟は上写真の通り、立入禁止となっているが、窟の奥に見えるのが岩船明神社と弁財天社である。

このように、伝承上であるが寺院開山以前からの神々や聖跡を宿す岩窟であることがわかる。

<参考文献>
『生駒山寶山寺 寶山寺資料』 寺務所にて購入

2017年5月12日金曜日

猿田彦神社の賽の神(奈良市)


奈良県奈良市今御門町1番地

道祖神社(奈良市)

奈良市の中心繁華街「ならまち」の街角にある神社。

道祖神社(奈良市)

看板の通り、巨石は「賽の神」として勝負の守護神として信仰されたとあるが、道祖神の名から分かる通り、元々は「塞の神」(境界の神)として出発したものだろう。




2017年5月4日木曜日

ひかる石(三重県いなべ市北勢町)


三重県いなべ市北勢町皷

皷地区の薬師堂にケヤキの木がそびえている。

光る石

ケヤキの幹に、石が刺さっているのがわかるだろうか。

光る石

光る石

光りかがやくことから「ひかる石」の名がある。

かつて、ある庄屋がこの石を自宅の庭に移したが、日を追うごとに光が弱まり、ある夜、「さじべえ(薬師堂のこと)行きたい」と泣き声を上げたことから、驚いた庄屋は元の場所に戻したそうである。

その後、ひかる石は泣き声を止めて、再び光を戻したそうだ。

<参考文献>
員弁郡国語サークル編 『国民教育シリーズ32 いなべの民話』 員弁郡教職員組合 1985年

土生神社の三つ石(三重県いなべ市大安町)


三重県いなべ市大安町梅戸字三ッ石

土生神社の三つ石
土生神社境内。注連縄が巻かれた三体の石が参道の両脇に見える。

土生神社の三つ石

土生神社の三つ石

土生神社の三つ石

当地を梅戸井といい、かつて三つの村があった。

この三つの村の堺にあったとされるのがこの石で、「三郷の堺石」とも呼ばれていた。

願い事を叶えてくれる石として、地元の人々がよくお参りした。
石を揺らすと雨を降らせたり、オコリなどの病気を治したりと万能の霊石だったようだ。

このような民話がある。

ある時、梅さんと竹さんという二人の村人が、この石を自分たちだけのものにしようとして、一番軽そうな石を掘り出そうとした。
しかし、掘れども掘れども終わりは見えず、やがて二人は石化して亡くなったという祟り伝説を持っている。

この石の存在から、梅戸井郷の一称として三石郷の名がある。

<参考文献>
大安町教育委員会編 『大安町史 第1巻』 大安町 1986年
員弁郡国語サークル編 『国民教育シリーズ32 いなべの民話』 員弁郡教職員組合 1985年

2017年5月3日水曜日

しゃごさんの石/しゃごんさんの石(三重県員弁郡東員町)


三重県員弁郡東員町大木字南条屋敷

個人宅敷地内に現存。
所有者の方に許可を得て拝見した。

しゃごさん


しゃごさん

文化・文政年間(1804年~1830年)に著された松宮周節『伊勢輯雑記』に、神石としてこの石の記述がある。

元はこの地に赤口神社(社護神社)があり、久那斗神を祭神としていた(現在は大木神社に合祀)。

大木の八幡神社(これも現在は大木神社に合祀)の御旅所で、歳迎えの宮とも呼んだ。

御神体は金の鳥で、この金鳥のおかげで当地は雷が落ちても火災に見舞われることはなかったという。
(なお、当地の近辺には秋葉姓を名乗る方が多く、火伏の秋葉信仰との関連性が強い)

その金鳥が降りた石といい、石自体も神聖視された。
石に触ると「ネブト」(腫物)ができ、足を乗せると足に病が出て歩けなくなると信じられた。

しゃごさんの石(『いなべの民話』によれば しゃごんさんの石)として、東員町を代表する民話の1つとして各種郷土資料にも収録されている。

とある旅の男がこの石に腰を掛け、隣に咲いていた山つつじの枝を折って自分のわらじをはらい、そのわらじを石の上に置いた。
一休みしてから歩き始めたものの、歩くごとに足が重くなり、しびれるような痛みがさしてきた。
その時、「先ほどの石まで戻れ」とどこからか声が聞こえ、石まで戻ると、石の上にはわらじの土がくっついていて、山つつじの枝も石の周りに散らばっていた。
これが原因と恥じ入り、石の上の土を掃除して、枝も石の周りの土にさしてお詫びをしたところ、足の痛みは引いていった。
のちに、旅の男はこの時の声の主に感謝の気持ちとして、鈴鹿の山裾の村に祠をまつったという。

しゃごさんの名は、赤口神・社護神すなわちシャグジとしての石神に通じ、シャグジは境界の神と目されるが、詳細は不明である。

当地を案内していただいた地元の方によれば、本石と同じような青石を御神体に用いる神社が近辺に多いとのことである。


<参考文献>

員弁郡国語サークル編 『国民教育シリーズ32 いなべの民話』 員弁郡教職員組合 1985年
東員町史編さん委員会編 『東員町史 下巻』 東員町教育委員会 1989年

ゆうれい石(三重県四日市市)


三重県四日市市西坂部町御館

個人宅敷地内に現存。
所有者の方に許可を得て拝見した。

ゆうれい石

ゆうれい石

ゆうれい石

ゆうれい石

この場所を「そうれん墓地」とも呼ぶ。

高さ50㎝程の、手で持って運べるような大きさの、何の変哲もない石である。

が、この石を家に持って帰ると、寝ている時に女中装束の女のゆうれいが現われるという。
きまって、畳をほうきで掃くようなしぐさを見せるという。

真偽を確かめるため、複数の人がこの石を持ち帰ったが、晩になって例外なくゆうれいが枕元に立ったため、皆おびえてその石を元の場所に戻したという逸話も付帯している。

『みえの民話』の考察によれば、菰野の千種城主の愛姫がこの地で家臣に殺され、その怨念が宿った石ではないかとされている。
根拠として、遍照院の名僧が供養で読経したところ、千種家の紋である笹龍胆が石の上にボオッと浮かんだと語ったとある。

このように聞くと、忌避される存在のような石だが、次のような話もある。

所有者の方の話によると、この石は足の病にご利益があると信じる人がいて、かつては願掛けに来る方もいたという(なお、近くには日本武尊の足洗池がある。関連性は不明)。
今はもう、ゆうれい石を訪れる人も絶えて久しいとのこと。

数十年後には、ゆうれい石の存在も風前の灯かもしれない。

<参考文献>
四日市市三重長寿会 編・発行 『みえの民話』 1977年

2017年4月25日火曜日

能勢七面山の岩神(大阪府豊能郡能勢町)


大阪府豊能郡能勢町倉垣

概要

能勢町と京都府亀岡市の境にそびえる釈迦ヶ嶽(標高512m)。
その南西に伸びる尾根一峰(標高470m)を七面山と言うようだ。

この山は、七面山七寶寺、能勢の高燈籠といった、その方面では濃厚な宗教スポットを擁する。
これらに挟まれるように、歌垣神社と石用山涌泉寺がひっそりと佇む。

歌垣神社と涌泉寺は隣接しており、鎮守-宮寺の関係だったらしい。

裏山中腹に巨岩が露頭し、麓からもその姿が確認できる。
かつては、この巨岩を岩神と呼んでまつったのが歌垣神社の起源であるという。

伝えるところでは、康保2年(965年)に初めて苗代祭りを行ない、建久7年(1196年)に神社を現在の山腹に遷座し、嘉永2年(1625年)に牛頭天王が勧請され、明暦元年(1655年)に日蓮宗総本山身延山の七面天女を岩神の旧址にまつり、明治時代に近在の6社を合祀してその時に地名から歌垣神社と名付けられたという。

能勢七面山の岩神

所感

信仰上の画期は、江戸時代における牛頭天王の勧請と日蓮宗の影響である。

牛頭天王勧請以前、この神社が何をまつり神社名が何だったのかということがはっきりしない。
素盞鳴命のままだったかもしれないし、合祀祭神を除いた中で一柱として載っている大山祇命かもしれないし、祭神記録にも残っていないが宇賀御魂命だったという一説もある。

江戸時代、能勢一円における日蓮宗改宗の動きは活発だったようで、涌泉寺もかつては真言宗龍泉寺だったのが日蓮宗となり、山号・所在地も改めたという。
岩神にも法華経を守護する七面天女がまつられ、山の名前も七面山(甲斐国日蓮宗霊山の七面山に由来)と称された。
涌泉寺が掲げる石用山の山号も、山の特徴を表しているような感がある。

岩神への道はなく、歌垣神社の背後の斜面をひたすら登る。
 地図的には、七面山七寶寺の方から登ったほうが近道になるが、七面山七寶寺は登山のための通り抜けを禁止しているため、このルートは推奨しない。

山の斜面を登っていくと、各所に思わせぶりな露岩群が見える。20分ほど登ると視界が開き、高さ10m以上はあると思われる岩神に到着する。

能勢七面山の岩神

岩神は、崖状に落ち込んだ巨大な岩盤の頂面に、斜め上に突き出た立岩状の岩石が乗っかかり、その2つの間に別の岩塊が差し込まれたかのように挟まっている(詳しくは下写真を参照)。
急斜面の立地にあるので、転石に伴う自然の造形と推測されるが、まさに「天然の屋根」である。

能勢七面山の岩神

また、この岩神の西に接して、頂面が平らな平石とその奥に屏風のように立つ岩石があり、まるで祭壇か修行の台座石かのような光景を見せている。これは人工的と言われてもうなずいてしまいそうな構造物である。

能勢七面山の岩神

さらには、岩神の下方に、転石によるであろうドルメン状の構造物があり、その辺りに郵便受けのような金属製の箱が転がっていた。
裏返してみるとそこは空洞になっており、おそらくこれは小祠を中に収納して雨よけ保護していたものだったと思われる。七面天女の祠の名残だったかもしれない。

能勢七面山の岩神



2017年4月20日木曜日

八つ岩(奈良県天理市)



奈良県天理市長滝町日の谷

参考文献

瀬藤禎祥さん 「日の谷」「八剣神社」「神奈備にようこそ」内)→2010年1月10日アクセス
kokoroさん 「神社による古代史4 石上振神宮略抄より H13.9.17」「神奈備にようこそ」内)→2010年1月10日アクセス
乾健治(1939年原著)・瀬藤禎祥さん(抄訳) 「鳥見山傳称地私考 by 乾健治氏」「神奈備にようこそ」内)→2010年1月10日アクセス
しぇるぱさん 「天理の大国見、奥へ奥へと」「シェルパ散らし踏み」内)→2010年1月10日アクセス

概要

「八ッ岩」と表記する場合もある。スサノオに斬られたヤマタノオロチが神剣になって、あるいは、神剣に付き従って降臨したといわれる岩。


2017年4月12日水曜日

高塚の森(和歌山県東牟婁郡串本町)



和歌山県東牟婁郡串本町潮岬
※潮岬灯台前の有料駐車場の車道挟んだ向かい側の森。見つけにくいが入口に「高塚の森 神武(崇神)天皇郊祀時」の木標あり。

高塚の森

概要

潮岬の突端に鎮座する潮御崎神社の神域とされる森。

森内には円丘状の高まりとそこから露出する岩石があり、地元の伝説では応神天皇の侍従の墓と伝えられ、かつては小祠がまつられていたという(小祠は現存せず)。

昭和40年代、円丘南西側に列石や土堤で整地された平坦地形の存在が指摘され、測量調査が実施される。
また、夏至の日にその平坦地から円丘の露岩上から太陽が上ってくることが確認され、高塚の森は太陽祭祀の場だったとする説が出された。

高塚の森
応神天皇の侍従の墓と伝えられるという土の高まり

所感


現地に案内標識の類が全くないので詳しい場所が分からず、地元の人や近所の人何人かに聞き込みをしましたが誰も知らず。
近くのロッジの方に聞いて「聞いたことはある。行ったことはないがあの森だよ」とやっと教えてもらえました。現地での関心・知名度は絶望的に低いです。
 
森の中は鬱蒼とした雑木林という感じで、真夏に入りたくはない感じ。
しかし森の中には遺跡・遺構であることを示す数々の木標や、歩きやすいように草刈などの整備もされています。
これは地元で高塚の森を長く研究されてこられた「はつくにしらす顕彰会」の木村正治氏の努力によるものと思います。

森の中には、確かに人工的な整地が行なわれていたと言える痕跡が確認できました。
最も明確な人工的痕跡は土堤で、周辺の地形から不自然に盛り上がった堤状・塀状地形が20mほど続いています。
その西に並行して直線状に並んだ列石があり、この列石に90度直交した石列もあり、石列の内と外は段になっています。ここは「斎場」と銘打たれています。

高塚の森
石列の一部

ここから北東方向に進むと「斎庭」と銘打たれた平坦部があり、ここには鏡を夏至日の出方向(北東)に向けた鏡とその支え台が想像たくましく「推定復元」されています。
ここから円丘上から上る日の出を仰ぎ鏡に反射させたということでしょうが、斎庭の平坦面は自然地形の想定内でありこの場所に明確な陣異性は認めがたく、祭祀場であったかどうかには疑問も残ります。

高塚の森

高塚の森

さらに北東に進むと円丘状高まりがあります。
頂部には岩石が見えますが、人工的な石材を置いた古墳・神殿的なものには見えず、土に覆われた岩盤の一部が露出し、風化・浸食によって数個の岩塊に分散したというような露岩の在り方です。従って古墳とは違うと思います。

では祭祀遺跡だったか?というと、ここからは遺物が発見されていないので遺跡の認定はできません。
証明された事実は「斎庭」「斎場」地点から円丘の方向を向くと夏至の日の出が上がるということと、「斎場」地点に人工的な列石・土堤が残るということです。

ここの列石・土堤が「いつ作られたものなのか」「何のために構築されたものなのか」という点も十分な批判的検討を経ているとは思われません。
この森が潮御崎神社の神域で応神天皇の侍従の墓として神聖視されたのがいつの時代からなのか、歴史的な資料の裏付けが求められるところです。
森が神聖視されていない時代に農耕的・土建的な目的で構築された地形改変の跡に過ぎないかもしれませんし、祭祀目的であったとしても古代の設置ではなく、意外と近代以後の設置だったという可能性も残っています。もちろん、他の可能性も・・・。

参考文献


松前健・安井良三「対談 巨石信仰と太陽祭祀」及び北岡賢二「高塚の森」『特集・巨石信仰と太陽祭祀』(東アジアの古代文化 28号) 大和書房 1981年

はつくにしらす顕彰会 木村正治氏のWebサイト「三世紀 古代ロマン 南紀潮岬 謎の巨石遺跡 『高塚の森』=太陽祭祀遺跡研究」 → 2009年8月25日閲覧。現在リンク切れ

(2009年8月25日の旧サイト記事を再掲)

2017年4月5日水曜日

たいち墓/太一墓/加三方磐座遺跡(岡山県)


所在地:岡山県和気郡和気町加三方

金子山中腹の尾根端に立地。
昭和51年に「加三方磐座遺跡」の名称で町指定史跡となっている。

たいち墓
遺跡中心部



遺跡の構造は複雑である。

台座石の上に立石を置いた組石があり、これは人工物と考えられる。
一見すると石碑のようだが、立石に文字などは刻まれていない。
石を立てること自体に意味があったのだと思われるが、その目的・機能ははっきりしない。

たいち墓
組石。三段積みになっており隙間には割石を敷き詰めている。


この組石の北に、8個の細長い岩石が一列に並んでいる。
外見的な印象では、横穴式石室の天井石が露出したようにも見える。

たいち墓
8個の列石。頂面の高さも揃っている。


そして組石の東には1個の丸石があり、その周囲を細長い岩石が3個以上取り囲んでいる。
ここだけ見ると、視覚的には環状列石のような感を呈している。

たいち墓
組石の東に広がる環状列石状構造。 環状に並べられた椅子のようでもある。


さらに組石の南には横穴式石室が1基開口しており、磐座山古墳という名前が付けられている。
径15mの円墳で石室長は8.1m、無袖式という古墳規模から考えて、古墳時代後期の山地帯群集墳の典型例と言える。
金子山には他の尾根筋・谷筋でも複数の古墳が確認されている。

たいち墓
磐座山古墳の石室内部。 古墳は盗掘を受けており出土遺物は確認されていない。


これらの点から考えて、磐座遺跡自体も数基の古墳が1つの尾根に密集したものであり、石室の天井石が露出した姿の可能性がある。
それが後世になって雨乞い祭祀の場になり、石材を再利用して立石の組石を築いたのではないだろうか。

ただ、遺跡北東端に露出する2個の巨石は天井石のように接し合っておらず、自然の岩盤のようにも見える。いずれにせよ開口している1基以外の露岩の地中は調査されていないためこれ以上の判断は保留せざるをえない。

土器片と石包丁が発見されているという情報があるが、詳細な報告書が見当たらず、その点数や発見位置、遺跡及び古墳との関連性は全くの不明である。

ここまでは考古学的な話に終始したが、一方で民俗学的な情報をまとめておきたい。

地元では「たいち墓(太一墓)」と呼ばれ、雨乞いや花見の場所だったといわれている。
磐座という呼び名では語りつがれていなかったことに注意したい。

現地を訪れた際、「たいち墓」までの道を定期的に清掃されている地元の方にお会いすることができた。
その方いわく、かつてはマツタケがよく採れたといい、収穫期には見張りのため地元の人がここで夜通し酒食しながら番をしたという。
しかし、やがてアカマツは枯死し、マツタケは採れなくなったことから、見張りの習慣も今は途絶えているらしい。

また、加三方という地名は、部・三宅・大方という3つの集落名をくっつけた字であり、中心集落は三宅であるが、加三方地区合同の祭事を行なう時に神輿を担げるのは大方だけだそうだ。

「たいち墓(太一墓)」や「雨乞い」というキーワードからは、中国思想(陰陽道・天帝信仰)や天体信仰(北極星・天照信仰)のほか、ここがやはり墓所という認識だったことが読み取れる。
また、花見や酒食の番という風習からは葬送供養時の直会の要素を垣間見ることができる。

以上を綜合すると、立石の組石については墓標の働きがあった可能性と、雨乞いの時の祭祀対象として置かれた可能性があるだろう。

なお、遺跡西北の林道脇に細長い岩石がある。
先述の地元の方の話によると、これを「休み石」と呼び、番をする人が道の途中で腰かけて休むものだったという。
特に祭祀要素はないようだが、他例だと群馬県賀茂神社神籠石の「休め石」などは、祭事に神輿を休めるための岩石として用いられており、全国の類例から考えると当地の「休み石」も元来は祭祀に用いられていた可能性があることを付記しておきたい。

たいち墓
ブッシュで分かりにくいが写真中央が休み石。林道の側溝脇にある。


参考文献

八木敏乗 「加三方」 『岡山の祭祀遺跡』(岡山文庫145) 日本文教出版 1990年

「たいち墓」「磐座山古墳」(奈良文化財研究所「遺跡データベース」検索結果より) →2010年5月30日アクセス。
*上記サイトのたいち墓の座標位置は誤っており、たいち墓と磐座山古墳は隣接しているため磐座山古墳の座標位置が正しい。

2017年3月22日水曜日

金丸八幡神社の列石(徳島県三好郡東みよし町)


徳島県三好郡東みよし町中庄1187

参考文献    


三加茂町文化財保護委員会(編) 1984 『三加茂町の文化財』 三加茂町教育委員会

田中合 1990 「阿波上郡在方文書集」『風蘭』13号 三加茂町歴史民俗資料館

山梨賢一・薬師寺真・木村和子・村瀬紀子・渡辺威弘(編) 1993 『日本ミステリー・ゾーン・ガイド<愛蔵版>』 学習研究社

三加茂町民話伝説収集委員会(編)・下川清(監) 1986 『手書き 三加茂百話』

三加茂町歴史民俗資料館 展示各資料

概要

正式には八幡神社だが、全国の同名神社と区別するため、金丸八幡神社・中庄八幡神社・三加茂八幡神社などの通称がある。

神社の境内を、387本もの石の列が取り囲んでいる特異な神社として有名である。磐境・皇護石・建石など色々な呼び方が通っているが、本項では列石と表記する。

使われているのは、この地域で取れる緑泥片岩という緑色を帯びた岩石である。
板状に割れる摂理を利用して、そのまま石を板のように立てて境内に並べている。

大きいものは、地表面から高さ1.5m以上、幅1.2m以上、厚さ30cm以上に及ぶものもあり、平均でもおよそ高さ1m前後の板石が多い。。
現在でこそ387本だが、往時はもっと多くの板石が社域を巡っていた可能性がある。

金丸八幡神社の列石
2003年撮影。2016年に隣接するトイレの工事があった時に、列石の一部が破壊されたという話を聞いた。文化財に登録されているというのに・・・。

金丸八幡神社の列石
2003年当時

金丸八幡神社の列石
2003年当時

猪群山(大分県豊後高田市)



概要


大分県豊後高田市(旧真玉町)にそびえる標高458mの山。
山頂は北峰と南峰に分かれ、北峰頂上に「ストーンサークル(環状列石)」があることで知られています。地元でも名所の1つとしてけっこう有名なはず?

面白いネタとしては、作家の松本清張氏と考古学者の斎藤忠氏(静岡県埋蔵文化財調査研究所所長。考古学史の整理作業などで有名)が現地調査をしたという話があります。

その調査報告書『猪群山-山頂巨石群の研究-』(1983年、以下調査報告書と略)まで出ているところが凄い。

猪群山


2017年3月19日日曜日

賀茂神社の神籠石(群馬県桐生市)


所在地:群馬県桐生市広沢町

賀茂神社の祭典の前夜、神籠石で榊に神を降ろし、台待窪で榊を神輿に乗せ、「休め石」に神輿を降ろしながら、神社へ神を迎える神事が明治維新の頃まで行われていたという。
しかし、戦後しばらくして、近年は賀茂神社の神職の方も足を運ぶことがなく、正確な位置もあやふやとなっていた。

この神籠石について、2007年2月に賀茂神社の神職さんへ話を伺った。

・この岩石の読み方は?

 「かわごいし」。しかし神職さんが言うには、元は「かむごいし」ではないかとも。「神が籠る」という意味を重視されていた(つまり「かむご」は神職さんの考えが入っている可能性あり)。
 また「こうごいし」はどうですか?と聞いてみても通用したが、これはいわゆる神籠石の知識があるから通用したのかもしれない。

・なぜ近年は祭祀されず、所在が分からなくなったのか?

 神職さんと連れの年配の方の話によると、昔はちゃんと手入れをしてまつっていたとのこと。
 戦前までは、神籠石の周囲四方に竹を立て、注連縄を張っていた。そして春と秋の2回、赤飯・塩・水(酒だったかも失念)をお供えして祈願祭祀していた。

 それが昭和20年代前半に来た台風により周辺一帯が被害に遭い、その時に神籠石が斜め下に傾き崩れてしまったとのこと。
 この台風により里も大被害を被り、神籠石への道も倒木やら山崩れやらでしばらくの間行けなくなってしまい、そうこうしている間に神籠石への祭りは途絶えてしまったという。

 近年の神籠石が見向きもされなかったのもその延長線上で、年配の方しか神籠石の存在を認識していない状態だった。

・神籠石へのタブー

 タブーは特になかった様子。神職さんも子供の頃は神籠石の上に立ち登ったりして遊んでいたというので、戦前の頃は少なくとも畏怖的というより、親近的な信仰だったのだろう。


そんな神籠石だったが、2007年頃より、楚巒山楽会代表幹事が中心となって山中隈なく探索された結果、2009年3月に土木に半ば埋もれつつあった神籠石を再発見。
往時の神籠石を知る地元の方のお墨付きもあり、神籠石の所在が約60年ぶりに確認された。
神籠石の表面を覆っていた土木は取り除かれ、手前には神籠石を示す看板も設置された。

しかし、神社や地元自治体が定期的な管理をしているわけではない。
管理人が訪れた2010年には、すでに山荒れが進んでおり、道も倒木もひどく多かった。立てられた看板も後に消失したという。

ただ、現在、Googleマップ上にも目印がつけられ、所在地については今後忘れられることはないだろう。
祭祀されない山中の岩石は忘却が進みやすいので、せめて正確な形で記録が語りつがれていくことを祈りたい。

神籠石再発見までの経緯については、2007年以降リアルタイムで書かれてきた下記出典サイト・ブログの各記事を参照されたい。
当サイトもこの神籠石について、2007年以降試行錯誤の踏査や的外れの仮説などの更新を重ねてきたが、あえてその駄文は割愛させていただき、ここに簡潔ながら事実の報告と参考文献・サイトの紹介を永久に記録しておくことで、せめてもの罪滅ぼしとしたい。

なお、桐生市教育委員会文化財保護課・編『桐生市埋蔵文化財分布地図・地名表』(1994年)に史跡登録された「川越石」はこの神籠石と同一物を指すものと思われるが、地図に落とされた位置は全く別の谷間であり、遺跡地図が示す場所が間違っている。後学の方が騙されないようにここにはっきり記しておく。

神籠石
賀茂神社前に掲示された神籠石の位置を示す地図。
この地図だけでは絶対辿りつけないので、Googleマップを頼りに訪れよう。

神籠石
神籠石に取りつくルートは山荒れが激しく、倒木とブッシュに見舞われるので注意。

神籠石
2010年時点での神籠石。2009年に建てられた看板が健在。

神籠石
看板裏に刻まれたメッセージ。いろいろなストーリーがあって立てられた。

神籠石
神籠石近景。元来は頂面が水平で、戦後の台風で斜めに傾いてしまったという。

出典

楚巒山楽会代表幹事・楚巒山楽会代表幹事代行「ヘロコヤシキ」「神籠石/かわご石山」「神籠石発見!」「神籠石最終章」(サイト「やまの町 桐生」内) 2012年11月18日アクセス
すずき@東毛「賀茂神社の『神籠石』 ~ 神様が降臨した石は何処に」「続・賀茂神社の「神籠石」 ~ ついに神籠石を拝す」(ブログ「上州東毛 無軌道庵」内) 2012年11月18日アクセス
山田郡教育会・編 『群馬県山田郡誌』 山田郡教育会 1939年
桐生市史編纂委員会 『桐生市史 上巻』 1958年
島田一郎 『桐生市地名考』 桐生市立図書館 2000年
桐生市教育委員会文化財保護課・編 『桐生市埋蔵文化財分布地図・地名表』 桐生市教育委員会 1994年
吉川宗明 「賀茂神社の神籠石(群馬県桐生市) 忘れ去られつつあった岩石の再発見譚」 『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』 遊タイム出版 2011年

2017年3月16日木曜日

富士河口湖の皮籠石(かわごいし/かあごいし/かむごいし)



所在地

山梨県南都留郡富士河口湖町小立字皮籠石

出典

・古代山城研究会代表 向井一雄氏が現地調査された内容を管理人がうかがって編集

・「富士河口湖町小立土地区画整理組合HP」 2013年8月16日アクセス

情報

・『ふるさとの地名考(河口湖の文化財第5集)』(河口湖町 1986)に当地の「籠石(かむごいし)」の地名が取り上げられており、かつて明治~昭和20年代までは皮籠石の表記だったという。

・「かあごいし」とも音読したといい、当地は岩石が散在する場所だったと記載されている。

・享保年間の古文書に、日蓮上人が法座石・鼻曲石(像鼻石)・硯石・経石・たて石・へび石・かわご石の七ッ石を名付けたと記されているという(未見)。この内のかわご石が当地の皮籠石とされる。

・当地は平成21年頃から土地開発工事が入り(事業開始自体は平成17年からともいう)、現在は商業施設・住宅団地が造成されている。

・富士河口湖町都市整備課の中に、開発前に字皮籠石に岩石があったことを知る方がおり、山林だったところに細い道が通り、その傍らに長さ1m大の平たい岩があったという。一部が盛り上がっており、人が座れるような形状だったという。

・その岩石はかなり風化・摩耗している様子で、開発工事により撤去・処分されたという。特に記録・写真なども残されていない様子なので、本項で皮籠石の歴史を記録保存しておく。

・皮籠石水源として知られる採水地の1つで、岩石と水源の関係を考える1つのケースになるかもしれない。


2017年2月19日日曜日

朝鳥明神(岐阜県揖斐郡揖斐川町)


所在地:岐阜県揖斐郡揖斐川町上野字馬瀬口

1、朝鳥明神の磐境

小島山(標高八六三メートル)と室山(標高三七四メートル)の間には朝鳥谷(浅鳥谷)が形成されており、谷から流れる沢は揖斐川へ接続している。この朝鳥谷の入口に朝鳥明神が鎮座しているが、類を見ない祭祀形態を持つ神社である(一九六七年、朝鳥明神址として揖斐川町指定史跡になっている)。

一の鳥居は、二本の木柱に竹を渡した〆鳥居と呼ばれるものを建てており、奥にある二の鳥居は素木で組んだ神明鳥居である。二の鳥居の背後に、「案」と呼ばれる供物などを捧げるための台があり、木造と石造の二つが置かれている。石造の案の上には、鏡と四手を収納するための小祠が置かれている。

案の後ろの山林は「神山」と呼ばれ、今も禁足地になっている。この禁足地に列石があり、通俗的に磐境と呼ばれている。中に入ることはできないが、草木の間から顔を出す岩石の群れを確認することができる。まず案の背後に四個の列石が横一直線に並び、その奥に注連縄の巻かれた一個の岩石がある。これを取り囲むかのごとく、さらに奥に四個の注連縄の巻かれた岩石が配されている。

この磐境を使って今も定期的に祭祀が行なわれているというが、はたしてどのような内容なのだろうか。
朝鳥明神
写真中央の森の中に朝鳥明神が鎮座する。

朝鳥明神
特異な〆鳥居。奥に見える簡素な祠が朝鳥明神である。

朝鳥明神
祠の前に案が設置されている。

朝鳥明神
祠の裏は神山と呼ばれる禁足地で、その中に磐境が散在している。


2017年1月15日日曜日

小黒田谷不動尊(三重県津市)


三重県津市美杉町

小黒田谷不動尊
情報収集不足につき詳細は不明。

小黒田谷不動尊
かつては石壇の上に祠があったらしい。
今は撤去されているが、祠の裏の露岩が剥き出しになっている。

小黒田谷不動尊
隣接して滝があり、行場としての清浄性を保っている。