高度経済成長期を境に日本の風景は一変したといいます。
風景だけでなく、人々の観察眼や興味関心も様変わりしたように思えます。
この本を読むとそう思わされます。
昭和京都名所図会と名付けられたこのシリーズ。
全7巻14000円のところを5000円以下で見つけたので揃えて買ってしまいました。
京都の名所旧跡を作者お手製の絵図と共に紹介する、今風に言えば観光ガイド。
でも、今の観光ガイドとは目の付け所も取り上げ方も違います。
題名通り、江戸時代からの流れを汲む名所図会の香りで雰囲気は統一されています。
川の淵の名前や逸話など、現代人がスルーする情報が多くのせられています。
ここでしか言及されていない「仙遊石」など、岩石祭祀事例も多数収録。
こういった情報は、今の観光のメインストリームからは完全に除外されています。
除外されているというより、情報と興味関心が次世代に受け継がれず、断絶しているんでしょうね。
私が生まれていない時代の空気を閉じこめているわけで、この本を読むことで、生まれていない時代の歴史を追体験できます。
いま目の前で見ている京都とは違う京都像の視野を広げてくれるという意味で、京都に惹かれる方にお勧めします。
2017年2月17日金曜日
2017年2月13日月曜日
四賀のイワクラ(磐座)
松本市四賀化石館(長野県松本市七嵐85-1)で「四賀のイワクラ(磐座)」と題された写真展が開催されます。
http://matsu-haku.com/shigakaseki/archives/353
期間:平成29年3月3日(金)~3月30日(木)
長野県松本市のイワクラというのは今まで知ることはありませんでした。
初耳の方も多いのではないでしょうか。
でも、昨年はミステリツアーで四賀地区の特異な地層を持つ岩々を巡っているようです。
また開催されるのなら、行きたいですね。
すべてが歴史的ないわれをもつ磐座かどうかは不明ですが、地学的な目線からのピックアップが特徴的です。
http://matsu-haku.com/shigakaseki/archives/353
期間:平成29年3月3日(金)~3月30日(木)
長野県松本市のイワクラというのは今まで知ることはありませんでした。
初耳の方も多いのではないでしょうか。
でも、昨年はミステリツアーで四賀地区の特異な地層を持つ岩々を巡っているようです。
また開催されるのなら、行きたいですね。
すべてが歴史的ないわれをもつ磐座かどうかは不明ですが、地学的な目線からのピックアップが特徴的です。
2017年2月6日月曜日
【情報募集中】探しています
岩石信仰・岩石祭祀の調査を続ける中で、いくつかの所在地について疑問や謎を残したままになっています。
ここに私が今まで関心を抱き続けてきた不明点をまとめておき、いつか真相を知る地元の方や当事者の方にこのページ上で出会えることを祈ります。
本記事のコメント欄、あるいはページ下部にあるお問合せフォームから、下記の案件に関わる情報をお持ちの方はご投稿いただけると嬉しいです。
埼玉県児玉郡美里町猪俣にあるという、こぶ石・鏡石・福石・爺石・姥石・唸石・櫃石の七石。
こぶ石の場所は把握していますが、それ以外の六石の正確な所在地、あるいは現況をご存知の方、お教えください。
山梨県山梨市山根に所在。
天宮神社が八嶽山神社の奥の院に当たるのか。妙見神社へのルートと現地に行かれた方の情報をお待ちしています。
→2017.2.10追記 本記事コメント欄にて情報提供をいただきました。ありがとうございます。
愛知県犬山市の本宮山頂と相澤山頂には環状列石があり、この石柱を麓の大縣神社に移してまつっていたが永正年間と万治二年の火事により所在不明となったという楽田古文書会の会長の話が、当サイトの掲示板に過去投稿されたことがあります。信憑性は定かではありませんが、他ではまったく見聞きしない話であり興味深いのでここに転載しておき、さらなる詳報を待ちます。
―――
尾張本宮山 Follow: 244 / No: 243 [返信][削除]
投稿者:かずゆき。 02/08/26 Mon 22:22:44
はじめまして。
相澤山頂と本宮山頂には環状列石があったそうです。
また大縣神社と本宮山は永正年間および万治二年に
火事で焼け落ちており、その際に社殿に祀つられていた
石柱(山頂の列石をおろし神体とした)は不明となって
しまったそうです。
元犬山市教育委員
楽田古文書会 会長 小澤重功氏談
―――
2010年頃、当サイトの掲示板でチェリーさんと共に、愛知県小牧市の本石の所在地について文献・現地情報収集などをおこないましたが、現時点で特定できていません。
ならびに、小牧山にはストーンサークルがあったという説があり、巨石文化に関心を寄せていた民族学者の鳥居龍蔵博士が言及したこともありましたが、これの情報出所と実体と現況or消滅時期も情報募集中です。
最近、小牧山城から巨石の石列跡が検出され、来場者への示威に用いていたのではないかという説が出ましたが、これとの関連性も気になるところです。
愛知県名古屋市千種区の覚王山日泰寺の境内にある真清田弘法の中には、今もまだ石がまつられているのかどうか。
この石は、愛知県一宮市の真清田神社の本殿裏に土壇状にまつられていた神体石だったという逸話があります。詳細はリンク先をご参照ください。
日泰寺と真清田神社からかつて頂いた回答は、後世の資料に沿った表面的なものでしたので、今一つ正確性が期待できず、当時を知る話者の方にお会いしたいです。
真清田弘法を定期的にお経をあげにくる世話人の方がいるらしく、その方に一度お話を伺ってみたいと思っています。その方をご存知の方ががいればご紹介ください。
三重県桑名市の多度大社の裏山である多度山中には五箇神石という五石があり、その一つである冠石は、上冠石と下冠石の二体に分かれているという説があります。
多くの場合、冠石と一つに包められて話がなされることが多いので、この二体の所在地が特定できておらず、ご存知の方はお教えください。
くわしくは「内部の『なぞの石神』 第1次調査」をご覧ください。
貝家町在住の方、怪しい石があったら私に連絡してくださいね!
三重県津市美杉町川上。詳細はリンク先で書きました。
web上はもちろん、文献上でもおそらくほぼ出回っていない場所です。
それだけに、記憶の消失が危ぶまれます。
正確なアクセスルート、あるいは、地図上での位置を落とせる方に出会えることを待ちます。
この坐禅石が特定できないため、遺跡の位置も現地で確定できていません。ご存知の方、情報をお待ちしています。
滋賀県野洲市の銅鐸博物館の西に、立岩をまつった場所があり、今も祭り場として手入れが行き届いています。「ネコ岩」という名前がついているという説がありますが、一方でそうではないという地元の方の声もあり、この立岩についての詳細と、ネコ岩が別にあるとしたらその場所をご存知の方を探しています。
上の場所を約15年、10回にわたる踏査で探していますがまだ見つかりません。
1人では限界を感じており、合同踏査していただける方、大歓迎です。
→2017.3.30追記 上の場所についてgoogle+上で情報提供をいただき、現地を確認することができました!ありがとうございました。
ならびに、与喜山にかつて整地整備を行った杉髙講という集団の歴史について、記憶・情報をお持ちの方も募集中です。
そのために、なにが元々つたわる名称・伝承で、どれが後付けされた名称・創作話なのかが見分けがついていません。巨石群について言及した古文献があるのか、について関心を抱いています。
あわせて、のうが高原が時折、再建に向けて工事をしているなどのうわさが飛んでいますが、一向に復活の兆候がありません。もし関係者の方がいらっしゃいましたら実情をお教えいただけると、私含め全国各地の のうが高原隠れファンが喜びます。
小野寺七石(栃木県栃木市岩舟町小野寺)
吾妻七つ石(群馬県吾妻郡中之条町)
猪俣の七石(埼玉県児玉郡美里町猪俣)
慈光七石(埼玉県比企郡ときがわ町)
三浦七石(神奈川県三浦市)
箱根七石(神奈川県足柄下郡箱根町)
河口湖の七ッ石(山梨県南都留郡富士河口湖町)
諏訪七石(長野県諏訪市・茅野市)
矢ヶ崎村七石(長野県茅野市)
三島七石(静岡県三島市)
那珂七石(岐阜県各務原市)
那智の七石(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)
※加茂七石(京都府京都市)は鴨川で採れる七種類の名石なので若干意味が異なる。
上記箇所の他に、ご当地七石の言い伝えがあればぜひお知らせください。
個人的には、七石文化が東日本に偏り、西日本からほとんど聞かれないのが興味津々です。
2017.2.12追記 堅破山の七奇石三瀑(茨城県日立市)の情報をいただきました。ありがとうございます。
※新たな募集事項が出た場合は、本ページに追加いたします。
ここに私が今まで関心を抱き続けてきた不明点をまとめておき、いつか真相を知る地元の方や当事者の方にこのページ上で出会えることを祈ります。
本記事のコメント欄、あるいはページ下部にあるお問合せフォームから、下記の案件に関わる情報をお持ちの方はご投稿いただけると嬉しいです。
■ 猪俣の七石(猪俣の七名石)の正確な所在地
埼玉県児玉郡美里町猪俣にあるという、こぶ石・鏡石・福石・爺石・姥石・唸石・櫃石の七石。
こぶ石の場所は把握していますが、それ以外の六石の正確な所在地、あるいは現況をご存知の方、お教えください。
猪俣の七石の一つ「こぶ石」 |
■ 八嶽山神社の裏山にある天宮神社と妙見神社の詳細
山梨県山梨市山根に所在。
天宮神社が八嶽山神社の奥の院に当たるのか。妙見神社へのルートと現地に行かれた方の情報をお待ちしています。
→2017.2.10追記 本記事コメント欄にて情報提供をいただきました。ありがとうございます。
■ 尾張本宮山と相澤山に環状列石があったという話について
愛知県犬山市の本宮山頂と相澤山頂には環状列石があり、この石柱を麓の大縣神社に移してまつっていたが永正年間と万治二年の火事により所在不明となったという楽田古文書会の会長の話が、当サイトの掲示板に過去投稿されたことがあります。信憑性は定かではありませんが、他ではまったく見聞きしない話であり興味深いのでここに転載しておき、さらなる詳報を待ちます。
―――
尾張本宮山 Follow: 244 / No: 243 [返信][削除]
投稿者:かずゆき。 02/08/26 Mon 22:22:44
はじめまして。
相澤山頂と本宮山頂には環状列石があったそうです。
また大縣神社と本宮山は永正年間および万治二年に
火事で焼け落ちており、その際に社殿に祀つられていた
石柱(山頂の列石をおろし神体とした)は不明となって
しまったそうです。
元犬山市教育委員
楽田古文書会 会長 小澤重功氏談
―――
相澤山の中腹、おそそ洞と呼ばれる場所にある奥宮の御社根磐 |
■ 小牧山の観音洞にあるという七ッ岩(七つ石)の位置
2010年頃、当サイトの掲示板でチェリーさんと共に、愛知県小牧市の本石の所在地について文献・現地情報収集などをおこないましたが、現時点で特定できていません。
ならびに、小牧山にはストーンサークルがあったという説があり、巨石文化に関心を寄せていた民族学者の鳥居龍蔵博士が言及したこともありましたが、これの情報出所と実体と現況or消滅時期も情報募集中です。
最近、小牧山城から巨石の石列跡が検出され、来場者への示威に用いていたのではないかという説が出ましたが、これとの関連性も気になるところです。
![]() |
小牧山麓の間々観音に掲示されている七つ石の由緒板(チェリーさん撮影) |
■ 真清田弘法について
愛知県名古屋市千種区の覚王山日泰寺の境内にある真清田弘法の中には、今もまだ石がまつられているのかどうか。
この石は、愛知県一宮市の真清田神社の本殿裏に土壇状にまつられていた神体石だったという逸話があります。詳細はリンク先をご参照ください。
日泰寺と真清田神社からかつて頂いた回答は、後世の資料に沿った表面的なものでしたので、今一つ正確性が期待できず、当時を知る話者の方にお会いしたいです。
真清田弘法を定期的にお経をあげにくる世話人の方がいるらしく、その方に一度お話を伺ってみたいと思っています。その方をご存知の方ががいればご紹介ください。
![]() |
真清田弘法について詳しい方急募 |
■ 多度山の上冠石と下冠石の違いをご存知の方
三重県桑名市の多度大社の裏山である多度山中には五箇神石という五石があり、その一つである冠石は、上冠石と下冠石の二体に分かれているという説があります。
多くの場合、冠石と一つに包められて話がなされることが多いので、この二体の所在地が特定できておらず、ご存知の方はお教えください。
多度山中にある巨岩の一つ。私は下冠石ではないかと推測していますが未確定。 |
■ 三重県四日市市貝家町(内部地区)の「なぞの石神」をご存知の方
![]() |
5 なぞの石神 とは? |
くわしくは「内部の『なぞの石神』 第1次調査」をご覧ください。
貝家町在住の方、怪しい石があったら私に連絡してくださいね!
■ 川上山若宮八幡宮の北方の山中にある燈明石と雨乞社(立岩さん)の所在地
三重県津市美杉町川上。詳細はリンク先で書きました。
web上はもちろん、文献上でもおそらくほぼ出回っていない場所です。
それだけに、記憶の消失が危ぶまれます。
正確なアクセスルート、あるいは、地図上での位置を落とせる方に出会えることを待ちます。
雨乞社(立岩さん)へ取りつく入口と思われる逢神橋 |
■ 瓦屋寺御坊遺跡の所在地
滋賀県八日市市の瓦屋寺山の坐禅石の前から見つかった古墳時代の祭祀遺跡。この坐禅石が特定できないため、遺跡の位置も現地で確定できていません。ご存知の方、情報をお待ちしています。
![]() |
瓦屋寺境内に露出する岩崖。これではないようです。 |
■ 大岩山銅鐸出土地近くにある「ネコ岩」について
滋賀県野洲市の銅鐸博物館の西に、立岩をまつった場所があり、今も祭り場として手入れが行き届いています。「ネコ岩」という名前がついているという説がありますが、一方でそうではないという地元の方の声もあり、この立岩についての詳細と、ネコ岩が別にあるとしたらその場所をご存知の方を探しています。
ネコ岩? |
■ 与喜山(奈良県桜井市)の「三の磐座」の場所をどなたか踏査して発見してください。
![]() |
藤本浩一『磐座紀行』(向陽書房 1982年)掲載の写真 |
1人では限界を感じており、合同踏査していただける方、大歓迎です。
→2017.3.30追記 上の場所についてgoogle+上で情報提供をいただき、現地を確認することができました!ありがとうございました。
ならびに、与喜山にかつて整地整備を行った杉髙講という集団の歴史について、記憶・情報をお持ちの方も募集中です。
■ のうが高原 情報
広島県廿日市市のうが高原には、多数の奇岩怪石群が存在しており、超古代文明ブームでいくつかの名前も付けられました。そのために、なにが元々つたわる名称・伝承で、どれが後付けされた名称・創作話なのかが見分けがついていません。巨石群について言及した古文献があるのか、について関心を抱いています。
あわせて、のうが高原が時折、再建に向けて工事をしているなどのうわさが飛んでいますが、一向に復活の兆候がありません。もし関係者の方がいらっしゃいましたら実情をお教えいただけると、私含め全国各地の のうが高原隠れファンが喜びます。
■ 「~の七石」の新情報(全国)
小野寺七石(栃木県栃木市岩舟町小野寺)
吾妻七つ石(群馬県吾妻郡中之条町)
猪俣の七石(埼玉県児玉郡美里町猪俣)
慈光七石(埼玉県比企郡ときがわ町)
三浦七石(神奈川県三浦市)
箱根七石(神奈川県足柄下郡箱根町)
河口湖の七ッ石(山梨県南都留郡富士河口湖町)
諏訪七石(長野県諏訪市・茅野市)
矢ヶ崎村七石(長野県茅野市)
三島七石(静岡県三島市)
那珂七石(岐阜県各務原市)
那智の七石(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)
※加茂七石(京都府京都市)は鴨川で採れる七種類の名石なので若干意味が異なる。
上記箇所の他に、ご当地七石の言い伝えがあればぜひお知らせください。
個人的には、七石文化が東日本に偏り、西日本からほとんど聞かれないのが興味津々です。
2017.2.12追記 堅破山の七奇石三瀑(茨城県日立市)の情報をいただきました。ありがとうございます。
※新たな募集事項が出た場合は、本ページに追加いたします。
2017年2月2日木曜日
宇佐美英治「殺生石」~『日本の名随筆 石』を読む その14~
考古学的なテーマを纏った随筆である。
人と石の関わりについて綴る。
人が、他の動物と違い、ヒトとしてこの地球の生態系の頂点に君臨するようになった理由を、宇佐美英治は「石によって身を守り石を武器に、威力の上で人を凌ぐ動物と闘ってきた」ことだと断じている。
ヒトが二足歩行できるようになったことで、手を使い、石をどこかから調達・運搬し、獲物や外敵に石を投げることで、人はまず他の動物に勝ることができたという流れが描かれている。
人は弱いが、石などの道具を使うことで、種としての絶滅を免れ、他の動物を使役する立場に回ることができた。
この点において、石は「人間の最良の伴侶であり、最強の幇助者」だったと評されている。
石器に対しての宇佐美の随想が面白い。
石が奴隷ではなく、「伴侶」で「幇助者」であると表現した意味合いが込められているように思える。 あくまでも、石を「味方に引き入れた」までなのである。
ここに、石の一つの性質が哲学されている。
ヒトが始源の時に感じた石の魔力とは、石があらゆる肉を断つという、ヒトの体そのものには備わっていない絶対的な攻撃力にあるという宇佐美の提言である。
宇佐美によれば、この攻撃力が石を霊や神たらしめた岩石信仰の源泉の一つなのだと語る。
あくまでも一つであるというのは、石には他に「無情、冷酷、生気なき無機物を思う中世以後の観念や石を永世と死に結びつける古代帝国以来の記念碑性(モニュメント)の観念」もあり、攻撃性はそれとはまた別個の観念だと言い添えているからだ。
この流れの中で、標題の殺生石が登場する。
殺生石は、栃木県の那須湯本に今もある有名な奇岩である。霊狐・玉藻が石に姿を変え、祟りの石として霊威を放ったものが、最終的には仏法により調伏されるという伝説で知られている。
温泉地による有毒ガスの噴出のため周辺一帯には一木一草もない殺風景が広がっている。
この環境要因が殺生石の伝説を構成している節は否定できないが、宇佐美は、別にこれだけの理由で殺生石の"イマージュ"を強く感じるわけではなく、もっと根深い石そのものの"イマージュ"から来ていると述べる。
信仰や聖なるものが、人によりその思いを強くさせる時は、人に慶福を与える時よりも、災いや予知せぬ禍悪を人に与える時の方が鮮烈に残ると宇佐美は指摘する。
恩恵よりもまず、祟り神を鎮めるための信仰。これはよく聞く話である。
恩恵を与えてくれた石が反逆する、あるいは、人から見たら裏切るように見えた石に対して、二重の畏れを抱いたのではないかと、この殺生石を通して岩石信仰の1つの形が結論付けられている。
最後に取り零したポイントを、本文から引用して終わりたい。
人と石の関わりについて綴る。
人が、他の動物と違い、ヒトとしてこの地球の生態系の頂点に君臨するようになった理由を、宇佐美英治は「石によって身を守り石を武器に、威力の上で人を凌ぐ動物と闘ってきた」ことだと断じている。
ヒトが二足歩行できるようになったことで、手を使い、石をどこかから調達・運搬し、獲物や外敵に石を投げることで、人はまず他の動物に勝ることができたという流れが描かれている。
人は弱いが、石などの道具を使うことで、種としての絶滅を免れ、他の動物を使役する立場に回ることができた。
この点において、石は「人間の最良の伴侶であり、最強の幇助者」だったと評されている。
石器に対しての宇佐美の随想が面白い。
――石器は土器のようにどんなふうにでも形をつけられるものではない。石は石に工作する人間の手に刃向う。(中略)石器はどんなに加工してもなお人間に抵抗し、最後まで石であることをやめない。人は石を道具として支配しているつもりだが、実は石は最後まで支配されることを抵抗したがっているかのようだ。
石が奴隷ではなく、「伴侶」で「幇助者」であると表現した意味合いが込められているように思える。 あくまでも、石を「味方に引き入れた」までなのである。
――土器については機能が形体を決定するといいうるが、石器は必ずしもそうではない。百万年来、人が石器に見出そうとしたのは、機能というよりは石のもつ絶対的な威力であり、強大な的を傷つけ、その肝をぬきとる魔力である。
ここに、石の一つの性質が哲学されている。
ヒトが始源の時に感じた石の魔力とは、石があらゆる肉を断つという、ヒトの体そのものには備わっていない絶対的な攻撃力にあるという宇佐美の提言である。
宇佐美によれば、この攻撃力が石を霊や神たらしめた岩石信仰の源泉の一つなのだと語る。
あくまでも一つであるというのは、石には他に「無情、冷酷、生気なき無機物を思う中世以後の観念や石を永世と死に結びつける古代帝国以来の記念碑性(モニュメント)の観念」もあり、攻撃性はそれとはまた別個の観念だと言い添えているからだ。
この流れの中で、標題の殺生石が登場する。
殺生石は、栃木県の那須湯本に今もある有名な奇岩である。霊狐・玉藻が石に姿を変え、祟りの石として霊威を放ったものが、最終的には仏法により調伏されるという伝説で知られている。
温泉地による有毒ガスの噴出のため周辺一帯には一木一草もない殺風景が広がっている。
この環境要因が殺生石の伝説を構成している節は否定できないが、宇佐美は、別にこれだけの理由で殺生石の"イマージュ"を強く感じるわけではなく、もっと根深い石そのものの"イマージュ"から来ていると述べる。
――幾十万年来、人間の伴侶であり、無言の庇護者であった石が毒素を吐きつづけ、人を殺しつづけるということはわれわれの存在の基盤にかかわることなので、じっさいの災害以上にこの石が薄気味悪く思われたにちがいない。
信仰や聖なるものが、人によりその思いを強くさせる時は、人に慶福を与える時よりも、災いや予知せぬ禍悪を人に与える時の方が鮮烈に残ると宇佐美は指摘する。
恩恵よりもまず、祟り神を鎮めるための信仰。これはよく聞く話である。
恩恵を与えてくれた石が反逆する、あるいは、人から見たら裏切るように見えた石に対して、二重の畏れを抱いたのではないかと、この殺生石を通して岩石信仰の1つの形が結論付けられている。
最後に取り零したポイントを、本文から引用して終わりたい。
――しかし現代の人間は石の内部にそのような光を見出す霊力を失ってしまった。現実の殺生石はもう人々の眼に見世物同然となり、日ごと風化をつづけている。
――子供たちはボールを投げても石は投げまい。しかし手に握った石ころの独特の重み、形状を感じながら標的を狙って力まかせに投石するさいには(中略)何か生得的な、本能のよろこびに近い快感がある。
2017年1月31日火曜日
中沢けい「ひでちゃんの白い石」~『日本の名随筆 石』を読む その13~
――私はこの子から真っ白く透明感のある石をもらい、学校を変った後にも、大切に持っていた。
小学1年生の時、作者はひでちゃんというクラスメイトから石をもらった。
――男の子の名は、ひでちゃん以外は全部、忘れている。石が、作者とひでちゃんをつなぐ記憶の装置。
――ただ白い石の記憶だけが、彼がいたんだと教えてくれる。関連付け記憶だから忘れないというのはよくある話。
でも、なぜ石が主題になりうるのだろうか。
――石はしばらくの間、私の引き出しの中にあった。それからオルゴールの中に移った。そのあとは、金魚鉢の底に沈んでいた。鉢の中でも、その石だけは白く輝いていたが、いつの間にか緑の苔で被われてしまった。作者にとっての、時期ごとの石の機能の移り変わり。
一人の人間の中での、年単位、月単位、日単位での石への心持ちの変遷。
いざこれが歴史研究になると、個人は捨象され、実体の掴めない"当時の人々"へと統合されていく。
歴史研究とは、これほどに危なっかしい。
――苔を洗い流し、また机の引き出しに戻した私は、何を思ったのか、緑色のサインペンで全部を塗りつぶしてしまった。
「白を緑に変えようとした心持ちは、自分のことながらさっぱり解らない」というが、「男の子が石をくれた理由を三年目か四年目かに気付いた」作者は、「石にではなくひでちゃんに、何かをしたかった」のだという。
自分のことながらさっぱり解らない自分の心理・行動は、石に限らず誰にでもあるだろう。
では、石の存在価値とは?
――ガラス玉のネックレスや夜店で買ってもらった指輪が乱雑に投げ込まれているオルゴールの中を探しても、白い、いや、緑色になってしまった石は見あたらなかった。
――石を見つけられないまま私は再びひでちゃんを忘れてしまった。
ネックレスや指輪は、記憶と共に今も残り、石を緑に塗ったサインペンですら、引き出しの中に残っていた。
石だけが、なくなってしまった。
なぜ石だけがあちらこちらに移動し、作者の意図と逆の結末に至るのだろうか。
どうでもいい時はあり、求めたい時にはないのである。
石が記憶装置であるなら、石がなくなった時からひでちゃんのことも忘れ、この話も書けなかっただろうに、それは書けている。
どうやら石は単なる記憶装置でもないらしい。
自分事だが、私の父が亡くなる前日に偶々この話を読んだことを、今も昨日のように思い出す。
関連付け記憶の1つなのだと思うが、これと何か違うのか。
2017年1月19日木曜日
豊島与志雄「狸石」~『日本の名随筆 石』を読む その12~
「狸石」は、小説家の豊島与志雄による作品。
創作であるが、豊島与志雄という紛れもなく一人の人間が石に抱いた感情の発露である。
作者の意図があっても、読み手によって受け取る反応は違うはず。私も私のアンテナに反応したところをメモしておきたい。
狸石は、戦後間もなく焼け跡の町の片隅に立つ石である。
石の格好に特に目立つ点はなく、通行人で注意を向ける人はほとんどいなかったが、見様によっては狸が空を仰いでいるような風体に見えた。
狸石の周りは丸石で囲われていた。
ある夜、青白い火が灯り、亡くなったとある男が狸石の傍に姿を現す。
男は狸石を溺愛していたようで、狸石に声をかける。
そこに、もう一つ青白い火が現われ、死人のような感じの女が現われた。
男と女は目を合わせなかったが、男は狸石の肩にもたれ、女は狸石の根元にしゃがみ、狸石を挟んで会話をし始めた。
男も負けじと言い訳を述べる。
男と女は黙り、月が雲がかり、青白い火がどろどろと燃えたと思うと、二人の姿は消え失せ、狸石だけが立っていた。
その数日後、狸石はだれかにどこかへ撤去され、整地された。やがて家を建てるために。
小説の最後は次の文でしめられる。
創作であるが、豊島与志雄という紛れもなく一人の人間が石に抱いた感情の発露である。
作者の意図があっても、読み手によって受け取る反応は違うはず。私も私のアンテナに反応したところをメモしておきたい。
狸石は、戦後間もなく焼け跡の町の片隅に立つ石である。
石の格好に特に目立つ点はなく、通行人で注意を向ける人はほとんどいなかったが、見様によっては狸が空を仰いでいるような風体に見えた。
狸石の周りは丸石で囲われていた。
ある夜、青白い火が灯り、亡くなったとある男が狸石の傍に姿を現す。
男は狸石を溺愛していたようで、狸石に声をかける。
――ほんとは、お前を買ひ取つて家の庭に据ゑたかつたんだ。
――お前も、空襲に堪へて、よくここにじつとしてゐてくれたね。
――無事にここに立つてゐてくれてること、つまりお前の存在が、それだけが、僕には大切なんだ。
そこに、もう一つ青白い火が現われ、死人のような感じの女が現われた。
男と女は目を合わせなかったが、男は狸石の肩にもたれ、女は狸石の根元にしゃがみ、狸石を挟んで会話をし始めた。
――あなたはやつぱり、あたしよりこの石の方を愛していらつしやるのね。女は、最後に一、二、三・・・と十を数えはじめ、それを五周繰り返しても男が追いかけてこなかったので、あきらめて立ち去ったのだと男に恨み言を述べる。
――この狸石に聞いてごらんなさい。
――この石のところまで逃げて来て、あなたが追つかけていらつしやるのを待ちました。けれど、いくら待つても、あなたは追つていらつしやいませんでした。
男も負けじと言い訳を述べる。
――いや、僕は追つかけて来たんだ。狸石が突然口を開く。
――お前は早すぎたし、僕が遅すぎたんだ。然し、この石はいつまでも待つてゐてくれた。
――ねえ狸公、お前は待つてゐてくれるね。千回でも万回でも十を数へてくれるね。
――十を数へるなんて、そんなばかなこと、わしはしないね。
男と女は黙り、月が雲がかり、青白い火がどろどろと燃えたと思うと、二人の姿は消え失せ、狸石だけが立っていた。
その数日後、狸石はだれかにどこかへ撤去され、整地された。やがて家を建てるために。
小説の最後は次の文でしめられる。
――狸石ももう人目にふれず、忘れられてしまふことだらう。
2017年1月16日月曜日
澁澤龍彦「石の夢」~『日本の名随筆 石』を読む その11~
――自然が石の表面に意味のある形象を描くわけはないので、これを意味のある形象として捉えるのは、もっぱら人間の想像力、いわば「類推の魔」であろう。
澁澤龍彦は、極めて理性的である。
批判主義者好みの出だしであるが、ここからどう話を展開するのか。
――あたかもロールシャッハ・テストの図形が、ひとたび私たちの目に「花」として知覚されるや、もうそれ以後、どうしても「花」以外のものにはみえなくなってしまうようなものだ。
でも、これは否定的な意味合いで書かれていない。次にはこう来る。
――こうして、無意味な形象が夢の世界の扉をひらく。
昨今の、様々な人の石に対する見方や意見や仮説を見るかぎり、私にはまったく思いつかない、時には相容れないような価値観に出会うことはしばしばである。
時代のトレンドによって形は変われど、昔も今も石への想像力は衰えていないと感じる。
澁澤は、ローマ帝国時代のプリニウス『博物誌』の石の記述から、中世の学術書や詩にいたるまで、数々の「石の夢」を紹介していく。
――当時の自然哲学的な考え方によれば、石や鉱物は生きているのであり、地下で成長したり、病気になったり、老衰して死んだりするのである。
――パラケルススによれば、長く土中に埋もれていた異教徒の古銭は、だんだんと石に変化してしまう。
澁澤はこれを、価値のある金属が土中という"適切ではない環境"に置かれることで、"石"という"価値のないもの"に悪化したと解釈している。
「異教徒の古銭」という立ち位置が、他の解釈も夢想させるあたり、石の夢は果てしない。
「異教徒の古銭」に、価値はあるのだろうか。変化した「石」は、悪化ではなく、浄化かもしれない。あくまでも敵にとっては。
ここから、澁澤は数々の石の夢想家の例を著述する。
2017年1月15日日曜日
2017年1月12日木曜日
2017年1月3日火曜日
向井一雄『よみがえる古代山城』を岩石信仰の見地から読む
古代山城研究会代表の向井一雄氏の新刊
『よみがえる古代山城: 国際戦争と防衛ライン』(歴史文化ライブラリー440、吉川弘文館、2017年)
に、神籠石を巡る話が取り上げられていたのでお知らせします。
全体を通しての所感はAmazonレビューに書いたのでそちらをご参照ください。
http://amzn.asia/2GAnDkE
この内のp28-p35が「神籠石論争顛末記」と題され、神籠石が「イワクラ(磐座)」かどうかについて頁を割いているので、磐座に関心のある方は一読をお薦めします。
交合石、皇后石、皮籠石など、様々な表記をされる「こうご」「かわご」石は、その名前の意味、性格を巡って、岩石信仰の1つの謎としていまだ横たわっています。
僅かですが、神籠石が何かであるかについて、向井氏からヒントとなる考えも若干踏みこんで記されています。
今後、このテーマに対してさらに本格的な論考が発表されることを待ちたいと思います。
個人的には、すべてが「磐座」の一語に収斂されるような存在なのかを疑問視しています。
そうであるなら、そもそも「こうご」「かわご」で一括されるグループとして生まれずに、磐座の語でまとめられていればいいからです。
機能論的な角度だけからではなく、発生当時の歴史的背景の中で論じられると、それは他の岩石信仰の歴史解明にも寄与するのではないかと、期待しています。
『よみがえる古代山城: 国際戦争と防衛ライン』(歴史文化ライブラリー440、吉川弘文館、2017年)
に、神籠石を巡る話が取り上げられていたのでお知らせします。
全体を通しての所感はAmazonレビューに書いたのでそちらをご参照ください。
http://amzn.asia/2GAnDkE
この内のp28-p35が「神籠石論争顛末記」と題され、神籠石が「イワクラ(磐座)」かどうかについて頁を割いているので、磐座に関心のある方は一読をお薦めします。
交合石、皇后石、皮籠石など、様々な表記をされる「こうご」「かわご」石は、その名前の意味、性格を巡って、岩石信仰の1つの謎としていまだ横たわっています。
僅かですが、神籠石が何かであるかについて、向井氏からヒントとなる考えも若干踏みこんで記されています。
今後、このテーマに対してさらに本格的な論考が発表されることを待ちたいと思います。
個人的には、すべてが「磐座」の一語に収斂されるような存在なのかを疑問視しています。
そうであるなら、そもそも「こうご」「かわご」で一括されるグループとして生まれずに、磐座の語でまとめられていればいいからです。
機能論的な角度だけからではなく、発生当時の歴史的背景の中で論じられると、それは他の岩石信仰の歴史解明にも寄与するのではないかと、期待しています。
登録:
投稿 (Atom)