2017年9月17日日曜日

内部の「なぞの石神」 第1次調査

私は四日市出身ですが、34年生きてきて、地元で新たに岩石信仰の事例を知ることができました。

地元でこんな体たらくですから、全国の岩石信仰を知っているなどとは決して言えるわけもなく、死ぬまでに全貌の何分の一を知ることができるのかという、暗澹たる気持ちしか芽生えません。

日々精進ですね。


■ 調査のきっかけ


さて、新しく知った岩石信仰の場所は、四日市市の内部(うつべ)地区。

知ったきっかけはこの本でした。

うつべ町かど博物館運営委員会編『内部の史跡・旧跡案内 わが町再発見』(2013年)

この中に、1枚の古い地図が収録されていました。

内部郷土史研究会が1985年11月に作成した「内部旧跡案内図」 です。
この地図の番号5に「なぞの石神」と書かれた場所が。


「なぞの」が、とても私の関心を惹きます。特定の名前が、ないんですね。

どこにあるのか。地図を見ると・・・



5が「なぞの石神」の場所。
貝家(かいげ)という字に所在します。アバウトなイラスト風地図です。

実際の地図で見ると、山林と住宅地が入り交ざるエリアで、この地図だけでたどりつくことは不可能でしょう。
かつて、群馬県桐生市賀茂神社裏山の神籠石のアバウト地図を見た時と、まったく一緒の感情が芽生えました。


でも、この地図を掲載した『内部の史跡・旧跡案内 わが町再発見』は、2013年の新しい案内冊子。

この冊子で案内されているものと思いきや・・・、他の場所はおおむね紹介されている中で、なんと、この石神は未収録。

岩石信仰というものは、こういう運命をたどるのですね(泣)

同書によれば、1985年の「内部旧跡案内図」は、今となっては分からなくなっているものが多いため、うつべ町かど博物館が2009年に新たに現況調査をして、実際の地図上にドットを落としたそうです。

その調査の結果、「なぞの石神」がリストから漏れているということは・・・これはまずい。
石神が収録されていない理由も触れられていないため、消滅したということなのか、行方不明になっているのかなど、細かい経緯が分かりません。

市立図書館の郷土資料コーナーでひと通り関連しそうな文献を総当たりしましたが、この「なぞの石神」に関することはついにどこにも見つけることはできませんでした。

たぶん私以外、誰もこれに興味を持っていないでしょう。
なら、やるしかないか・・・。

いや、決して嫌々ではなく、モチベーションは燃え上がるわけですが、いつも思うのは、昔の文献や地図はつくづく罪深い。
もうすこ~しだけ、具体的に書いてくれれば、なくならなかったかもしれないのに・・・。
このようなケースに出会うたびに、私は反面教師にしたいと、いつも思います。

一方で、内部郷土史研究会が「なぞの石神」の一言を書いてくれていなかったら、今頃、もう地球上からこの石神の存在は完全に断絶していたかもしれません。
だから、一言でも歴史をつないだ同会には、むしろ感謝なのです。


■ うつべ町かど博物館へ行く


1985年の「内部旧跡案内図」の現況を2009年に再調査したのが、うつべ町かど博物館です。

であれば、 うつべ町かど博物館を調査の第一歩とするべきです。
さっそく伺ったところ、内部地区の歴史の古今東西を調査され『うつべ歴史覚書』を2017年6月に発表されたばかりの著者・稲垣哲郎さんにお話を聞くことができました。

『うつべ歴史覚書』は内部の最新研究であり大著。私も事前に市立図書館で読んだ本でした。
おそらく、稲垣さんは同博物館でも最も内部の歴史に詳しい方です。これ以上の出会いはないと思います。

単刀直入に伺いました。
「なぞの石神を探しているのですが、なにかご存知でしょうか?」

稲垣さんのお答えは明快なものでした。
「わからない」

「なぞの石神」は、もちろんご存知でした。
が、それが「なくなった」のか「どれのことか分からなかった」のかは、もはや遠い歴史の中。

再調査の時、貝家のことに詳しい地元の方に聞いても、その方が知らなかったので、行方不明のものとして今の史跡・旧跡リストからは省かれたとのこと。

その時の詳しい調査メモが残っているなら、穴があくまで目を通したいものですが、かなわないでしょう。

とりあえず分かったのは、なぞの石神の現況は「分からない」ということ。
「なくなった」と決まったわけでもないのが、ポイントです。

山の神や庚申の石碑と違って、石神は自然石だったのかもしれない、と思わされます。
自然石であるなら、知る人・守る人がいなければ、あっと言う間にただの石と化すからです。
字が刻んであれば、像が彫刻されていれば、守る人がいなくなっても、それが何であるかはわかるのです。
自然石信仰には、それがない。だから、意識を向けなければいけない。

そもそも、1985年当時の時点で「なぞの」と呼ばれる状態なわけですから、これは相当に記憶が埋もれていると想像できます。

■ 現地を歩く


「なぞの石神」は、「内部旧跡案内図」によれば「8 なこの坂」の西に位置。
ただし、他の番号の場所を実際の地図に落とし込むと、方向や位置関係が実際とは違うことも多いため、あまり参考にはなりません。

なこの坂が、おおよその目安となることだけは確かです。

まずは「なこの坂」を目指します。
ここは今も語り継がれている地名です。

稲垣さんに教えていただいた目印「延喜式内 日宮加冨神社」の石柱を目指します。


 写真奥に続く道が、加冨神社の表参道となっており、その途中の坂道が「なこの坂」です。


道を進むとすぐに「なこの坂」が登場。
現状、ただの坂道ですが、稲垣さんによると、近い将来に看板設置予定とも。

なこの坂を上がった西方が「なぞの石神」候補エリアです。
坂の上にかけてしばらく住宅地が広がっており、はっきり言えば、この宅地の全軒にお邪魔して1件1件お伺いできれば本件解決なのですが、それが大変なのは言うまでもありません。迷惑かけますしね。

せめて、外に出られている方にお話を聞ければと思って開始しましたが、タイミング悪く当日は台風の来襲直前。
そのためかどうかはわかりませんが、お会いできた地元の人は1名だけ。
畑で作業されていた年配の男性の方にお話を聞くことができましたが、その方はずっとこの場所に暮らしていた方ではなく、石神はもちろん、なこの坂もご存知ではありませんでした。

天気の良い日に、改めて再訪することを心に決めて、とりあえず今回はエリア内をぐるぐる歩いてみることにしました。


なこの坂を進むと、加冨神社方面に進む道があります。
住宅地が終ると、ちょっともの寂しい雰囲気に。
もちろん誰も歩いていません。

写真向かって左側の山林が未開発のようで、この山林内など気になりますが、足を踏み入れる余地はなし。


道端にゴミが散乱していますが、よく見ると、草むらの下に岩盤が露出していました。
地質的に、岩石が出やすい環境ということが推測できます。


なこの坂から10分ほど歩くと加冨神社に到着します。
高台となった丘の上に鎮座する神社です。


由緒は上写真参照。
歴史的にも集落的にも、重要な神社であることは間違いありません。
神職の方は常住されない社であり、誰もいませんでした。


高台の丘の上を一周して戻れるようになっているので、一周することにしました。
丘の山林は残っている所と開発で削られている所が混在しており、各種農園が経営されています。


広大な高台です。
石神を探すとして、どこにあるのか、まったく取りつく島がない状況。
ここから自力で特定するなど、眩暈ものです。


そもそも、自然石なのかもそうですし、一番大きい石なら石神、と特定して良いはずがありません。
石に出会うためには、石を知っている人に出会うしか正解はないのです。

主観と経験則だけで、それっぽい道に入ってみます。


岩石が固まっている場所があります。
自然に集まっているというより、人為的に一ヶ所に固めた感じです。


こういう岩石が、そこかしこに散らばっています。


畑の中に、丸石が頭を出している場所あり、印象的でした。


一朝一夕で解決する問題ではないことは十分承知しているので、これからアンテナを張りながら、また再訪するつもりです。

また、地元貝家町の方がこのページをご覧になることにも、一縷の望みをかけたいと思います。

私の勝手な類推ですが、1985年にマップにのせられた場所であるなら、貝家町のなかで最低お一人は、この石神のことを知っていると思うのです。
所有者の方ひとりだけが知っていて、隣の家の方はもう知らないという、そんな状況にあると考えています。


【2019.10.7追記】
発見しました!下記事をご覧ください。

内部の「なぞの石神」は現存した(三重県四日市市)

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インタビュー掲載(2024.2.7)